慶応四年九月三日(1868年10月18日)
夜の闇が三条小橋界隈の小さな居酒屋にまで忍び寄っていた。
行燈の頼りない光が、店内にいる数人の男たちの顔をぼんやりと照らしている。
昼間に藩邸で『弾圧停止の約束』を取り付けたとの知らせを受け、束の間の安堵に浸っていたのだ。
「……真に、もう大事ないのだろうか」
1人が不安を隠せない声でつぶやく。
「ああ。大村の太田和殿が議会で守護職をやり込めたそうだ。これで会津の連中も派手な真似はできまい」
別の男が半信半疑ながらも日本酒をあおりながら答える。
――その時。
ばたん! と、店の戸が激しく押し開かれた。
「御用改めである!」
入口に仁王立ちになったのは新選組の隊士たちだった。ぎらつく眼光が、一瞬で店内の長州人たちを捉える。
空気が凍りつき、酒の匂いと入り混じって殺伐とした鉄の匂いが立ち上った。
「なっ……! ま、待て、話が違う!」
先ほどまで威勢の良かった男が、上ずった声を上げた。
「議会にて無闇な捕縛は禁じられたはずだ! 斯様な暴挙、許されると思うのか!」
男は藩から伝えられた情報を盾に必死に抗議する。
だが、その言葉は隊士たちの憎悪の炎に油を注いだだけだった。
「やかましい!」
隊士の一人が男の胸倉を掴んで引き倒す。食器の割れる甲高い音が響いた。
「これは捕縛ではない。貴様らに聞きたい事があるだけだ。しばしの間屯所まで付き合ってもらう。無論任意だ。断るなら別に構わんが……然すれば我らも、公務執行の妨げを為したとして、相応に処さねばならなくなる」
高圧的な物言いと鞘から半ば抜き放たれた刀。それは、拒否する選択肢を奪う脅迫に他ならなかった。
その一報が長州藩邸にもたらされる少し前。
新選組屯所の一室では、2人の人物がロウソクの明かりの両側に座り、長時間無言でいた。
局長の近藤勇と、副長・土方歳三である。
昼間に会津藩を通じて通達された議会の決定事項は、彼らがこれまで信じ、血を流して築き上げてきた事実を、根底から揺るがすに足る内容だった。
「近藤さんの気持ちは俺が一番分かっている」
土方が沈黙を破った。
感情に流されがちな盟友を現実に引き戻す、低く、そして冷静な声である。
「然れど、これは殿が御決断なされた事だ。我らが表立って背くわけにはいかねぇ。そんな真似をすれば、ようやく! ようやく手に入れた幕臣としての立場すら失う事になるぞ」
近藤は答えない。
2人とも武州多摩の農民の息子として生まれて身を起こし、ただひたすらに「武士」として生き、武士として死ぬことを願ってきた。
会津藩預かりの浪士の集まりだった新選組が、ようやく昨年、幕臣として取り立てられて武士となったのである。
その自負と覚悟が、政治の駆け引きが生んだたった一枚の紙切れによって否定されたと感じたのだ。
「分かっている。分かっている、歳。然れど……」
近藤の声は、奥歯を噛み締めるような深い無念に満ちていた。
「このまま長州の狼どもを野放しにしておけというのか。奴らはこの機を好機と捉え、何を企むか分かったものではない。殿の御心痛は、いかばかりか……。そのお苦しみを少しでも和らげ、お支えする事こそ、我ら新選組が立てた『誠』の誓いのはずだ」
土方は静かにうなずいた。
彼らの忠誠は、議会や政治の駆け引きにあるのではない。
『新選組』と名付け、武士としての居場所を与えてくれた、京都守護職ただ一人に捧げられている。
その主君がのんだ屈辱を晴らすことこそが、彼らにとっての真の忠義であった。
「無論さ。ゆえに『命令』には従うんだよ。表向きはな」
土方の目がロウソクの光を反射して冷たく光る。
「我らは『拷問』はせん。然れど真の事を語ってもらうまで、夜通し『話を聞く』のは拷問にはならんだろう。白状するまで屯所から一歩も出さぬ事もな」
「……うむ」
「『証なき捕縛』もしない。然れど町で不審な振る舞いをする者を、詳しく『事情を聞く』ために屯所までご同行願う事は、我らの職務の内。断じて捕縛ではない。そうじゃねえか?」
近藤はニヤリと笑い、2人の間に、暗黙の了解が成立した。
これは命令違反ではない。
主君の苦境を救うため、命令の範囲内で最大限の務めを果たす、忠義の行いなのだ。
そして、その決断が、今まさに京の闇の中で実行に移されていた。
長州藩邸の一室は、目付役からの報告を受けて怒りと絶望の熱気でむせ返っている。
「何が『弾圧の停止』だ! 話が違うではないか!」
若い藩士が畳を拳で叩いて激高する。怒りの矛先は、周布政之助と久坂玄瑞に向けられていた。
「御家老様! 大村藩も口先だけではありませぬか! 我らを見殺しにする気なのだ!」
「然様! 我らの手で同志を救い出すべきだ!」
口々に上がる激しい言葉が、刃となって久坂と周布の心をえぐる。
「待て、待つのだ!」
久坂が悲痛な声で制止した。
「今、事を起こせば、それこそが敵の思う壺だ。我らは逆賊となり全てを失う。それだけはならん。それだけは……」
久坂の魂からの叫びは、かろうじて若者たちの動きを止めた。
若者たちが不満げに出ていった部屋には、重い沈黙だけが残っている。
「……玄瑞。もはや、我らの手には負えんかもしれん」
周布が疲れ切った顔で口を開いた。
「……然に候。斯くなる上は、道は一つしかありますまい。今一度、大村藩に賭けるしかない。いや、蔵人殿に、直にお会いして頼むのです」
夜更け――。
大村藩の京屋敷の門前に、周布と久坂の姿があった。
2人が書院に通されてしばらく待っていると、静かな足音と共に次郎が部屋に入ってきた。
「斯様な夜分に、如何なる御用向きでしょうか」
次郎は不審に思ったが、2人のただならぬ雰囲気を察知して藩邸に迎え入れたのである。
久坂は意を決して口を開いた。これまでの経緯、そして、もはや藩士たちの暴発が秒読みであることを切々と訴えたのだ。
「……然すれば京は火の海と化し、取り返しのつかぬ事になりましょう」
次の瞬間、次郎の目の前で信じられない光景が繰り広げられた。
周布と久坂が音もなく畳に両手をつき、深く、深く頭を下げたのである。
「何とぞ、お力添えを!」
久坂玄瑞はともかく、周布政之助の年齢は次郎と変わらないが、大藩長州の家老である。次郎は驚くと同時に声を上げた。
「な、何を! 顔を、どうかお顔を上げてください」
「我らでは、もはや若者を抑えきれぬのです! 会津との調停のお役を、大村藩にお願いできぬでしょうか! この通りでございます!」
藩の誇りも個人の面子も全てを捨て去った、魂からの叫びだった。
「……お立ちください。お二方のお覚悟、痛み入ります」
次郎の声に促され、久坂と周布はゆっくりと顔を上げた。
「この件、某に考えがございます。然れど、もはや某一人の手で扱える問題ではございません」
次郎は立ち上がると、部屋の奥を見つめた。
「某では格が足りませぬゆえ、殿自らお出ましいただくしか道はございません」
その言葉は久坂と周布に向けられたのではなく、次郎自身の決意表明であった。
事態は、一介の家老が采配を振るう段階をとうに越えてしまっている。
藩主自らが動かなければ、この国の未来を左右しかねない巨大な亀裂は、もはや塞げないのだ。
次郎は2人に一礼すると、迷いのない足取りで部屋を出ていった。
純顕に上申するためである。
次回予告 第448話 (仮)『つかの間の安堵』

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