慶長五年四月十日(西暦1600年5月22日) 岐阜城
出陣の準備が喧騒と熱狂の中で進められてい中、信秀の弟である織田信則は自室にて軟禁されていた。
評定の間での度重なる諫言が、兄・信秀の逆鱗に触れた結果である。
「なぜだ……なぜ、分かってはもらえぬのだ…」
信則は、格子窓から見える兵士たちの慌ただしい姿を無力感と共に眺めていた。
彼の目には、その姿が破滅へと向かう葬列のように映ってならない。
兄が下した決断は、武士の本懐などではない。それは、絶望が生んだ自暴自棄であり、あまりにも危険な賭けなのだ。
そう思っていた。
「左衛門様」
その声の主を信則はすぐに悟った。
蒲生氏郷。
かつて祖父・信長に見出され、若くしてその才を開花させた歴戦の将である。
信則が幼少の頃より傅役として仕え、武芸をはじめ新しい時代の学問に至るまで、全てを教え導いてきた師でもあった。
「……飛騨守か」
「はい。左衛門様のお心を思うと、まことに言葉もございません」
氏郷の声は、軟禁されている信則の境遇に静かに寄り添う温かみを持っていた。
「殿……は、事を前にして心が昂ぶっておられるだけ。今は、ご無理なさらず……」
「気休めはよい、飛騨守。そのために来たのではなかろう」
信則は氏郷の言葉を遮った。
格子窓から見える出陣の準備に忙しない兵士たちの姿が、彼の心を一層重くする。
「然に候。気休めを申し上げるために参ったのではございませぬ」
「何じゃ」
氏郷は深く頭を下げた。
「実は、堀久太郎殿と奥田三右衛門殿と密かに相談いたしまして……」
「相談?」
信則は身を乗り出した。
「まず申し上げたきは、中将様のご容体にございます」
氏郷の声が沈んだ。
「肥前国の医師殿の治療により、一時は快方に向かわれましたが……」
「祖父上に何が?」
「殿(信秀)が出陣を決められてより、急激にお悪くなられました」
氏郷は苦しそうに続けた。
「『織田家を滅ぼしてはならぬ』と、何度も呟いておられます」
「やはり……」
信則は拳を握りしめた。
「祖父上も兄上の決断を憂いておられるのか」
「左衛門様、我らには一つの考えがございます」
氏郷は声を潜めた。
「もし……もし中将様に万が一のことがあれば、左衛門様が織田家の当主となられるべきではないでしょうか」
「何を申すか」
信則は驚いた。
「兄上は健やかであるぞ」
「然れど、殿のご決断は織田家を滅亡に導きます」
氏郷は必死に説得した。
「家臣団の中にも、殿のお考えに疑問を抱く者が多くおります」
「具体的には?」
「堀久太郎殿、奥田三右衛門殿はもとより……」
・平手甚左衛門汎秀
・可児才蔵吉長
・河尻与四郎秀長
・森勝蔵長可
等々、ほとんどが肥前国に留学していた面々であった。
「然程に多くが……」
信則は驚いた。
「はい。皆、織田家の未来を案じております」
「然れど、兄上に背くことはできぬ」
信則は苦悩した。
「血を分けた兄弟ではないか」
「左衛門様のお気持ちは痛いほど分かります」
氏郷は理解を示した。
「されど、織田家中全てを、領国全てを考えていただきたいのです」
「織田家全体……」
信則は考え込んだ。
「もし三郎様が討死すれば、織田家は確実に断絶する。然れど、もし左衛門様が当主となれば……」
「待て、飛騨守」
信則は氏郷を制した。
「然様な話は聞きとうない」
「然れど……」
「兄上はまだ生きておられる。然様な無分別な話はやめよ」
信則の声には怒りがこもっていた。
「申し訳ございません」
氏郷は深く頭を下げる。
「ただ、上様(信長)のお言葉をお伝え致したく……」
「祖父上が何と?」
「『左衛門様(信則)に織田家を託したい』と仰せられました」
氏郷の言葉に、信則は衝撃を受けた。
「祖父上が……然様なことを?」
「はい。『三郎(信秀)様は血気に逸っている。左衛門様の方が常に思い醒まして(冷静)おりで賢明だ』と」
「それは……」
信則は言葉を失った。
「左衛門様、どうか織田家のために、ご決断ください」
「……」
「……左衛門様」
氏郷が、案ずるように声をかけた。その声に、信則は顔を上げることができない。
祖父・信長が自分を後継にと望んでいる。その事実が、彼の思考を縛り付けていた。
兄上に代われと……祖父上は、そう仰せなのか。
それは、単なる期待ではない。
兄を見限り家を託すという、非情なまでの信頼なのだ。
そして、逃れることのできない宿命の宣告でもある。
これまで兄を諌め、家の安泰を願ってきた信則の立場は、この瞬間、全く違う意味を帯び始めていた。
「飛騨守……」
信則の声は、か細く震えていた。
「……そなたは、俺に兄を討てと申すのか」
「滅相もございません!」
氏郷は即座に否定した。
「然れど、このままでは家が滅びます。左衛門様、我らには時間がございませぬ」
氏郷の言う通りであった。
格子窓の外からは、相も変わらず兵士たちの喧騒が聞こえてくる。明日にも、彼らは破滅へと向かうのだ。
信則の内面では、血を分けた兄への情と、家を救わねばならぬという責務が、激しい嵐のようにせめぎ合っていた。
兄を裏切るのか……いや、これは裏切りではない。祖父上の、そして家の意志なのだ……。
そう自分に言い聞かせても、肉親への情は簡単には断ち切れない。
氏郷は、そんな若き主君の葛藤を静かに見守っていた。
彼は、あえて信長がすでに意識を取り戻しているという最大の事実を伏せ、病床での「呟き」として伝えることで、信則に決断を迫ったのだ。
あまりにも酷な役目であることは、彼自身が誰よりも理解していた。
やがて信則は深く、長い息を吐いた。
そして、顔を上げる。
その瞳に宿っていた迷いは、消え失せてはいない。だがその奥底に、自らが背負うべき運命と向き合おうとする微かな意志が現れていた。
「……飛騨守」
「はっ」
その声の響きに、氏郷は信則の中に何かが定まったことを感じ取った。
「そなたの、そして久太郎たちの覚悟、しかと受け取った。然れど、俺は兄に刃を向けるつもりはない」
その言葉に、氏郷は息を呑んだ。
計画を拒絶されるのか? と一瞬表情が強張る。しかし、信則は静かに続ける。
「……まだ、道はあるはずだ」
信則は、立ち上がると、部屋の隅に置かれていた書見台へと向かった。
そこには肥前国の大学から取り寄せた書物が幾重にも積まれている。
彼はその中から一冊を手に取った。
肥前国の学者が記した『国富論』の写本である。
「飛騨守。俺は何度か殿下にお目通りしたことがある」
信則は、書見台に積まれた書物から視線を外し、過去を思い出すように言った。
「そのお姿、そのお言葉。どれをとっても、殿下がただの戦狂いや覇道を求めるだけの人間だとは思えぬのだ」
信則は『国富論』を手に取った。
「殿下の考えはあまりにも細やかで理に適う道筋だ。我ら織田家を、ただ心赴くままに潰すことなど、この方の理に反するはず。此度の仕儀には、何か我らがまだ得心できぬ、真意があるに違いない」
「……では、如何なさるおつもりですか」
氏郷の声に、わずかな困惑が混じる。
「兄上を止める。然れど、それは謀反であってはならぬ」
信則は、氏郷の方へと向き直った。その眼差しは、先ほどまでの若者のそれではなく、一つの家の未来を背負う者の、覚悟に満ちていた。
「今宵、俺はこの城を抜ける。然れど、それは当主の座を奪うためではない。兄上の名代として、俺がもう一度、殿下に会うためだ」
「なんと……!」
氏郷は思わず声を上げた。
「左衛門様、それはあまりにも危ううございます!」
敵陣に一人で乗り込むに等しい行為だ。
その無謀さには歴戦の将である氏郷ですら動揺を隠せない。
「危ういのは承知の上だ」
信則の声は揺らぐことなく、氏郷の目を見てはっきりと告げる。
「兄上は、もはや退けぬ。ならば、その弟である俺が、兄の名誉を傷つけぬ形で、この戦を止める。織田家の、そして兄上の名において、殿下と和議を結ぶのだ。そのためならば、俺の首一つ、喜んで差し出そう」
それは兄の決断を否定しつつも、その兄を最後まで守ろうとする、あまりにも健気で、そしてあまりにも無謀な決意だった。
しかし、その自己犠牲の覚悟に、氏郷は強く心を打たれた。これこそが、自分が育て上げた若君の、本当の姿なのだ、と。
「……承知いたしました」
氏郷は、その場に深々と平伏した。もはや、止める言葉はない。
「左衛門様のご覚悟、しかと拝見つかまつった。ならば、我ら一同、左衛門様の『盾』となりましょう。然れど、決してお命を粗末になさってはなりませんぞ。最後の最後まで、諦めてはなりませぬ」
「わかっておる」
信則脱出の計画が実行に移された。
次回予告 第889話 (仮)『深夜の脱出』

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