第888話 『信則の岐路』

 慶長五年四月十日(西暦1600年5月22日) 岐阜城

 出陣準備の喧騒けんそうが屋敷を包む中、信則は自室に軟禁されていた。

 兄・信秀への度重なる諫言かんげん逆鱗げきりんに触れた結果である。

「なぜ、この思いが届かぬのだ……」

 信則は格子窓から、慌ただしく行き交う兵士たちの姿を無力感と共に見つめている。
 
 その目に映るのは破滅へと向かう葬列に他ならなかった。

 兄の決断は武士の本懐とはかけ離れている。

 それは絶望から生まれた自暴自棄であり、あまりにも無謀な賭けだと、信則は確信していた。


「左衛門様」

 声の主は蒲生氏郷だった。

 かつて祖父・信長に見いだされ、若くしてその才を開花させた名将である。

 信則が幼少の頃より傅役もりやくとして仕え、武芸をはじめ新しい時代の学問に至るまで、全てを教え導いてきた師でもあった。

「……飛騨守か」

「は。左衛門様のお心を思うと、真に言葉もございません」

 氏郷の声は、軟禁されている信則の境遇に静かに寄り添う温かみを持っていた。

「殿……は、事を前にして心がたかぶっていらっしゃるだけ。今は、ご無理なさらず……」
 
「気休めはよい、飛騨守。そのために来たのではなかろう」

 信則は張り詰めた声で氏郷の言葉を遮ったが、その視線は格子窓の向こうに広がる光景にくぎづけになっていた。

 本丸から続く塀の向こう側。

 広々とした郭内では、出陣の準備で忙しく兵士たちが動き回っている。

 甲冑かっちゅうが陽光を鈍く反射し、旗指物はたさしものが風にはためくたびに、信則の心は一層重苦しく沈んでいくのだった。

然に候さにそうろう。気休めを申し上げるために参ったのではございませぬ」

 氏郷の言葉は静かだったが、その沈黙がかえって事態の深刻さを物語っていた。
 
「何じゃ」

 信則は、わずかに眉をひそめて問い返した。

 氏郷はその問いに答えるかのように深々と頭を下げる。

 床に額がつくほどに深くかがんだその姿勢は、彼が背負うであろう重責を雄弁に物語っていた。

「実は、堀久太郎殿と奥田三右衛門殿とひそかにはかり(相談)まして……」

 氏郷の言葉が信則の心にかすかなざわめきをもたらした。

 何かただならぬ事態が起こっているのではないか?

 そう直感した信則は、思わず身を乗り出す。

「相談?」

 信則の瞳が僅かに色めき、氏郷はゆっくりと顔を上げた。

 そのまなざしは、覚悟を決めた者のそれだった。

「まず申し上げたきは、上様のご容体にございます」

 氏郷の声は重苦しい空気に溶け込み、消えていった。

 その響きは、信則の胸中に嫌な予感を呼び起こす。

「肥前国の医師の治療により、一時は快方に向かわれましたが……」

 氏郷は言葉を区切ったが、その沈黙が、信則の心を焦がした。

「祖父上に何が?」

 信則の声には、得体の知れない焦燥感が湧き上がっている。

「殿(信秀)が出陣を決められてより、急激にお悪くなられました」

 氏郷は、まるで自分の苦痛を語るかのように苦しそうに続ける。その声はかすかに震えていた。

「『織田家を滅ぼしてはならぬ』と、何度も仰せにございます」

 氏郷の言葉が信則の胸に鋭い痛みを走らせた。最悪の予感が現実のものとなっていく。

「やはり……」

 信則は何も言えなかった。

 ただ、胸に渦巻く激しい感情を押し殺し、固く拳を握りしめる。

「祖父上も兄上の決断を憂いていらっしゃるのか」

「然に候。そこで左衛門様、我らには一つの考えがございます」

 氏郷は声を潜める。

「もし……もし中将様に万が一の事があれば、左衛門様が織田家の当主となられるべきではないでしょうか」

「何を申す!」

 信則は驚いた。

「兄上は健やかであるぞ」

れど、殿のご決断は織田家を滅ぼしまする」

 氏郷は必死に説得した。

「家中にも、殿のお考えに疑問を抱く者が多くおります」

「つぶさ(具体的)には?」

「堀久太郎殿、奥田三右衛門殿はもとより……」

 ・平手甚左衛門汎秀ひろひで

 ・可児才蔵吉長

 ・河尻与四郎秀長

 ・森勝蔵長可

 等々、ほとんどが肥前国に留学していた面々であった。

「然程に多くが……」

 信則は驚き、氏郷の顔をまじまじと見つめた。そのまなざしには予想だにしなかった展開への戸惑いが浮かんでいる。

「はい。皆、織田家の未来を案じております」

 氏郷は動じることなく信則の視線を受け止めたが、その声には確固たる意志が宿っていた。

「然れど、兄上には背けぬ。血を分けた兄弟ではないか」

 信則は自らの心情を吐露した。

 兄への情が決断を鈍らせている事実を隠そうとはしない。

 氏郷は深くうなずき、信則の心中をおもんばかる姿勢を見せるが、その表情には信則への理解と、それでも譲れない強い思いが同居していた。

「左衛門様のお気持ちは痛いほど分かります。されど、織田家中全てを、領国全てを考えていただきたいのです」

 氏郷の言葉は信則の個人的な感情ではなく、より広範な視点での判断を促していた。

「織田家全体……」

「もし三郎様が討死うちじにすれば、織田家は間違いなく滅びまする。然れど、その上で左衛門様が当主となれば……」

 氏郷の言葉が冷徹な現実を突きつけた。その言葉は信則に重くのしかかる。

「待て! 飛騨守」

 信則は氏郷の言葉を遮った。その表情には、これ以上の現実を直視したくない気持ちが色濃く表れている。

「然様な話は聞きとうない」

 信則の言葉には強い決意が込められていた。

「然れど……」

 氏郷は、なおも食い下がろうとする。

「兄上が討死などと、然様な無分別(不謹慎)な話はやめよ」

「申し訳ございません」

 氏郷は、信則の怒りに逆らわずに深々と頭を下げた。

 しかしその顔には、諦めではない別の決意が宿っている。
 
「ただ、上様(信長)のお言葉をお伝え致したく……」

 氏郷の言葉に信則は息をのむ。

 信長の言葉――。

 それだけは信則にとって無視できないものであった。

「祖父上が何と?」

 信則の声に、緊張が走る。

「『左衛門様(信則)に織田家を託したい』と仰せられました」

 氏郷の言葉はまるで雷鳴のように信則の頭に響き渡った。

「祖父上が……然様な事を?」

 信則は信じられないという面持ちで氏郷を見つめた。祖父の言葉が、兄への忠誠心を激しく揺さぶっていたのである。

「はい。『三郎(信秀)様は血気にはやっている。左衛門様の方が常に思いまして(冷静)おり賢明だ』と」

 信長の言葉を一言一句違えず伝える氏郷の言葉は、信則の心の奥底に深く突き刺さった。

「それは……」

 信則は言葉を失った。祖父からの信頼と、それに伴う重い責任がのしかかる。

「左衛門様、どうか織田家のために、ご決断ください」

 氏郷の懇願にも似た声が、静かに響く。

「……」

 信則は答えなかった。

 ただ、重い沈黙がその場を支配している。

 彼の心の中では、激しい葛藤が渦巻いていた。


「……左衛門様」

 氏郷が案じて声をかけた。その声に信則は顔を上げることができない。祖父・信長が自分を後継にと望んでいる事実が、彼の思考を縛り付けていた。


 兄上に代われと……祖父上は、そう仰せなのか。


 それは、単なる期待ではない。

 兄を見限り家を託すという、非情なまでの信頼なのだ。

 そして、逃れることのできない宿命の宣告でもある。

 これまで兄をいさめ、家の安泰を願ってきた信則の立場は、この瞬間、全く違う意味を帯び始めていた。

「飛騨守……」

 信則の声は、か細く震えていた。

「……そなたは、俺に兄を討てと申すのか」

「滅相もございません!」

 氏郷は即座に否定した。

「然れど、このままでは家が滅びます。左衛門様、我らには時がございませぬ」

 氏郷の言うとおりであった。

 格子窓の外からは、相も変わらず兵士たちの騒がしい声が聞こえてくる。明日にも彼らは破滅へと向かうのだ。

 信則の内面では、血を分けた兄への情と家を救う責務とが、激しい嵐さながらにせめぎ合っている。


 兄を裏切るのか……いや、これは裏切りではない。祖父上の、そして家の意志なのだ……。


 そう自分に言い聞かせても、肉親への情は簡単には断ち切れない。

 氏郷は、そんな若き主君の葛藤を静かに見守っていた。

 あえて信長がすでに意識を取り戻しているという最大の事実を伏せ、病床での『つぶやき』として伝えることで、信則に決断を迫ったのである。

 あまりにも酷な役目なのは彼自身が誰よりも理解していた。

 やがて信則は深く、長い息を吐いた。

 そして、顔を上げる。

 その瞳に宿っていた迷いは消え失せてはいない。だがその奥底に、自らが背負うべき運命と向き合おうとするかすかな意志が現れていた。


「……飛騨守」

「はっ」

 その声の響きに、氏郷は信則の中に何かが定まったことを感じ取った。

「そなたの、そして久太郎たちの覚悟、しかと受け取った。然れど、俺は兄に刃を向けるつもりはない」

 その言葉に、氏郷は息をのんだ。

 計画を拒絶されるのか? と一瞬表情が強張る。しかし、信則は静かに続ける。

「……まだ、道はあるはずだ」

 信則は、立ち上がると、部屋の隅に置かれていた本棚へと向かった。

 そこには肥前国の大学から取り寄せた書物が幾重にも積まれている。

 彼はその中から一冊を手に取った。

 肥前国の学者が記した『国富論』の写本である。

「飛騨守。俺は何度か殿下にお目通りしを許された事がある。そのお姿、そのお言葉。どれをとっても、殿下がただの戦狂いや覇道を求めるだけの人間だとは思えぬのだ」

 氏郷は十分に理解している。

 留学時代の恩師とも言えるのだ。だからこそこの戦いの無謀さを理解し、純正の通告後に国を守るには肥前国への編入より他はないと考えていたのである。

「殿下の考えはあまりにも細やかで理にかなう道筋だ。我ら織田家を、ただ心赴くままに潰す事など、あの方の理に反するはず。此度こたびの仕儀には、何か我らがまだ得心できぬ、真意があるに違いない」

「……では、如何いかがなさるおつもりですか」

 氏郷の声に、わずかな困惑が混じった。

「兄上を止める。然れど、それは謀反であってはならぬ」

 信則は、氏郷の方へと向き直った。

 そのまなざしは、先ほどまでの若者のそれではない。一つの家の未来を背負う者の、覚悟に満ちていたのだ。

今宵こよい、俺はこの城を抜ける。然れど、それは当主の座を奪うためではない。兄上の名代として、俺がもう一度、殿下に会うためだ」

「なんと……!」

 氏郷は思わず声を上げた。

「左衛門様、それはあまりにも危うくございます!」

 敵陣に一人で乗り込むのだ。

 その無謀さには歴戦の将である氏郷ですら動揺を隠せない。

「危ういのは承知の上だ」

 信則の声は揺らがず、氏郷の目を見てはっきりと告げる。

「兄上は、もはや退けぬ。ならばその弟である俺が、兄の名誉を傷つけぬ形でこの戦を止めるしかあるまい。織田家の、そして兄上の名において、殿下と和議を結ぶのだ。そのためならば、俺の首一つ、喜んで差し出そう」

 それは兄の決断を否定しながらも、その兄を最後まで守り抜こうとする、切なくも無謀な覚悟だった。

 その自己犠牲の覚悟に氏郷は強く心を打たれた。これこそが、自分が育て上げた若君の、本当の姿なのだ、と。

「……承知いたしました」

 氏郷はその場に深々と平伏した。もはや止める言葉はない。

「左衛門様のご覚悟、しかと拝見つかまつった。ならば、我ら一同、左衛門様の『盾』となりましょう。然れど、決してお命を粗末になさってはなりませんぞ。最後の最後まで、諦めてはなりませぬ」

「わかっておる」


 信則脱出の計画が実行に移された。


 次回予告 第889話 (仮)『深夜の脱出』

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