第887話 『座して死を待つか』

 慶長五年四月二日(西暦1600年5月14日) 

 春の柔らかな日差しとは裏腹に、織田家とその同盟国が治める地は、静かに、しかし確実に壊死し始めていた。

 肥前国資本の生産業者が一斉に撤退してから、わずか1か月後のことである。

 当初の『暴動寸前の騒ぎ』はもはや過去のものであり、騒ぐだけの気力すら、民衆から失われつつあったのだ。

 市場から生活必需品が消え、闇市での価格は庶民には到底手が届かない金額まで高騰した。

 人々は物々交換で糊口をしのいだが、塩がなければ保存が利かず、食料そのものが日々価値を失っていく。

 栄養失調で道端に倒れる者が現れ、夜になれば食料を巡る強盗や殺人が、もはや珍しくない事件として報告されるようになっていた。

 その惨状は同盟国である徳川・浅井・北条領でも何ら変わらない。

 いや、より深刻ですらあった。

 ■小田原城下

 氏直の前に置かれた文箱には、領内の国人衆からの訴状が山と積まれていた。 

『領民を救うため、独断で肥前側の商人と交渉に入る』

 事実上の離反宣言である。

 伝統的な製塩を試みるも、燃料不足と職人不足で頓挫。経済的後背地を失った脆弱さが、致命傷となっていた。

 本来なら討伐するところであるが、強行すれば逆に反乱が起きかねない。

「……里見に使いを出せ」

 氏直は、絞り出すように命じた。

「もはや織田殿との信義も、武門の面目もあるものか。我らは生きねばならん。……再び殿下に頭を下げる。他に道はない」

 同盟の鎖の一つが、音を立てて砕け散ろうとしていた。

 純正は北条の様子見を許さなかったのである。

 ■遠江 浜松城

 徳川家の評定もまた、重苦しい沈黙に支配されていた。

「三河にて一向宗の門徒らが蜂起したとの報せにございます。肥前の息がかかった寺が唆しておるとのこと」

 本多正信の淡々とした報告が、室内に重く響く。

 お膝元の三河ですら名産の味噌を作ることができず、領民は領主の無能さを罵り始めていた。

 忠誠心の高い三河武士団ではあったが、その結束にひびが入り始めている。

 徳川家は西の織田家を助けるどころか、自国を保つことすら困難になっていたのだ。

 ■近江 小谷城

 浅井長政は琵琶湖の穏やかな湖面を眺めていた。

「塩がなければ、魚は腐らせるしかないか」

 手に握りしめているのは若狭の惨状を記した文である。

 若狭湾の経済は完全に停止し、再生産の試みすらできない。

 長政の脳裏には、病床で後事を託した義兄・信長の顔と、冷徹なまでに理を説く純正の顔が、交互に浮かんでいた。

「この期に及んでは、今一度殿下に乞い願うほかあるまい」

 ■岐阜城 評定の間

 信秀の前には、各地から届いた絶望的な報告の数々が広げられていた。

「申し上げます。我が領内での塩・味噌の業(な)る量(生産量)、一向に増えておりませぬ」

 柴田勝政が重い口を開いた。

「職人等の辛き務めに(必死の努力)より、知多の塩田からは、か細い煙が再び立ち上り始めましたが、それは焼け石に水。昔ながらのやり方では量がまるで足りませぬ。しかして値は下がらず、味噌と醤油も材が足りず時もかかり、なすすべもございません」

 さらに勝政は意を決したように続ける。

「加えて今しがた徳川様、北条様からもたらされた書状によりますと、彼の地も同じ有り様にて、もはや領民を支えきれぬと」

「……何処も同じか」

 信秀は乾いた声で呟いた。

 その言葉に評定の間の空気はさらに冷え込む。

 同盟は互いに助け合うこともできず、共に沈みゆく泥舟と化していたのだ。

「殿。このまま座して死を待つは、武門の誉れではございませぬ」

 沈黙を破ったのは、筆頭家老である武井十左衛門である。

 十左衛門は覚悟を決めたように顔を上げ、静かに、しかし力強い声で言った。

 信秀、勝政、そして信則の視線が、一斉に十左衛門に集まる。

「……十左衛門、何か策があるのか」

 信秀が僅かな希望を込めて問う。

「策と呼べるほどのものかは分かりませぬ。然れど、道は一つだけ残されております」

 十左衛門は地図の上に広げられた日ノ本の勢力図を睨みつけ、指で一点を叩いた。

 そこは京の都。そして、その先にある、大阪。

「敵の心の臓を、直に突くのでございます」

「軽挙なり!」

 即座に声を上げたのは、信秀の弟、信則である。

「京には肥前国の猛者共が、大阪の町は難攻不落の砦と化しております! 手を出せば、それこそ奴らの思う壺! 我らは朝敵となり、天下の全てを敵に回しますぞ!」

 信則の言葉はその場にいる全員が考えている正論だった。

 だが、十左衛門は揺るがない。

「左衛門様の仰る通り。正しく攻めるならば、万に一つの勝ち目もございませぬ。然れど、このままでは戦わずして滅びるのみ。業る量(生産量)が安んずる(安定する)のを待っていては、その前に国が、いや、同盟そのものが崩れまする。ならば、一縷の望みに賭けるほかありますまい」

 信秀は地図と十左衛門の顔を交互に見つめ、勝政に問うた。

「三左衛門。……勝てるか?」

「……必ず勝てるとは、申し上げられませぬ。長戦となれば、我らの負けは必定。然りながら……」

 勝政は厳しい表情で考えた後、慎重に言葉を選びながら答え、続ける。

「敵も、我らがこの窮地にあって、忽ち京大坂に攻めかかってくるとは思うておりますまい。その虚を突くのです。我らには五万の兵がおります。この全兵力を一点に集中させ、風の如き速さで京と大阪を攻める。……もし、天が我らに味方すれば、一度や二度の勝利は得られるやもしれませぬ」

 それは作戦とは呼べず、ほとんど賭けであった。

 運と敵の油断という、不確かなものに全てを賭けるのである。

「一度や二度、勝ったとして、その後はどうするのだ」

 信秀の問いは冷静だった。

「大阪を奪うのです」

 十左衛門が続ける。

「大阪には肥前国の工場も蔵もございます。我らが最も欲する塩や味噌、醤油を業る設け(設備)と、その蓄えがあるのです。それを奪い、我らのものとする。命の糧とその生業のもとを奪い返せば、息を吹き返すこと能いまする。然すれば、徳川様や北条様も、再び我らと共に立つでしょう」

「大義名分は如何いたすのだ? 命の糧を奪われたと言っても、それは商人等が勝手にやったこと。殿下……純正を悪にはできまい?」

 十左衛門は深呼吸をして居住まいを正し、続けた。

「もはや、善悪を考えても詮無き事にございます。勝てば善であり、負ければ悪でございましょう。天下静謐民の安寧を願うと申しながら、自らの命で商人職人を引き揚げさせ、畿内の民を困窮させたのは真の事。我らが言うことを聞かぬからと、斯様な道理が通りましょうや」

 どれくらいの時が流れただろうか。

 沈黙のあと、再び十左衛門は発言する。

「帝をお救い申し上げ、朝廷を壟断する奸臣・純正を討つ。これ以上の大義はございませぬ。我らが京を制し、帝をお守りすれば、我らこそが官軍となります」

 十左衛門の言葉はもはや狂気でしかない。

 全ての選択肢を失った者たちが、最後にたどり着いた唯一の反撃の戦略なのである。あまりにも危険で、あまりにも脆い希望。

 だが、それしか道はない。

「……分かった」

 その一言は、評定の間に重く響いた。

「その策、乗ろう。織田家の、いや、日ノ本の命運を賭けた、最後の大博打だ」

 信秀は立ち上がり、家臣たちを見据えた。

「皆、心して聞け。これより我らは、天下に弓を引く。勝てば官軍、負ければ逆賊。子々孫々に臆病者の名を残すくらいなら、戦って散るが武士の本懐であろう」

「兄上!」

 信則は食い下がった。

 どう考えても勝ち目はない。

 そもそもの発端は、しっかりと意志の疎通が図れていなかったからではないか?

 所領の代わりに俸給制?

 身の上にかかわらず教育と職業の自由?

 殿下の本音は何なのだ?

 確かに織田家の戦国大名としての力はさらに弱まるだろう。

 しかしそれは、武門の誉れを穢すことなのだろうか?

「今一度、今一度殿下にお目通り願い、事の真意をしかと聞いてから判じてもよいのではないでしょうか」

「くどい! 織田家の当主はオレだ! それに、もう遅い。遅いのだ!」

 信秀の顔が苦痛に歪む。

 こうして織田家は、無謀な希望を胸に、破滅への引き金を引いた。

 次回予告 第888話 (仮)『信長と長政と純正』

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