慶長五年四月二日(西暦1600年5月14日)
春の柔らかな日差しとは裏腹に、織田家とその同盟国が治める地は、静かに、しかし確実に壊死し始めていた。
肥前国資本の生産業者が一斉に撤退してから、わずか1か月後のことである。
当初の『暴動寸前の騒ぎ』はもはや過去のものであり、騒ぐだけの気力すら、民衆から失われつつあったのだ。
市場から生活必需品が消え、闇市での価格は庶民には到底手が届かない金額まで高騰した。
人々は物々交換で糊口をしのいだが、塩がなければ保存が利かず、食料そのものが日々価値を失っていく。
栄養失調で道端に倒れる者が現れ、夜になれば食料を巡る強盗や殺人が、もはや珍しくない事件として報告されるようになっていた。
その惨状は同盟国である徳川・浅井・北条領でも何ら変わらない。
いや、より深刻ですらあった。
■小田原城下
氏直の前に置かれた文箱には、領内の国人衆からの訴状が山と積まれていた。
『領民を救うため、独断で肥前側の商人と交渉に入る』
事実上の離反宣言である。
伝統的な製塩を試みるも、燃料不足と職人不足で頓挫。経済的後背地を失った脆弱さが、致命傷となっていた。
本来なら討伐するところであるが、強行すれば逆に反乱が起きかねない。
「……里見に使いを出せ」
氏直は、絞り出すように命じた。
「もはや織田殿との信義も、武門の面目もあるものか。我らは生きねばならん。……再び殿下に頭を下げる。他に道はない」
同盟の鎖の一つが、音を立てて砕け散ろうとしていた。
純正は北条の様子見を許さなかったのである。
■遠江 浜松城
徳川家の評定もまた、重苦しい沈黙に支配されていた。
「三河にて一向宗の門徒らが蜂起したとの報せにございます。肥前の息がかかった寺が唆しておるとのこと」
本多正信の淡々とした報告が、室内に重く響く。
お膝元の三河ですら名産の味噌を作ることができず、領民は領主の無能さを罵り始めていた。
忠誠心の高い三河武士団ではあったが、その結束にひびが入り始めている。
徳川家は西の織田家を助けるどころか、自国を保つことすら困難になっていたのだ。
■近江 小谷城
浅井長政は琵琶湖の穏やかな湖面を眺めていた。
「塩がなければ、魚は腐らせるしかないか」
手に握りしめているのは若狭の惨状を記した文である。
若狭湾の経済は完全に停止し、再生産の試みすらできない。
長政の脳裏には、病床で後事を託した義兄・信長の顔と、冷徹なまでに理を説く純正の顔が、交互に浮かんでいた。
「この期に及んでは、今一度殿下に乞い願うほかあるまい」
■岐阜城 評定の間
信秀の前には、各地から届いた絶望的な報告の数々が広げられていた。
「申し上げます。我が領内での塩・味噌の業(な)る量(生産量)、一向に増えておりませぬ」
柴田勝政が重い口を開いた。
「職人等の辛き務めに(必死の努力)より、知多の塩田からは、か細い煙が再び立ち上り始めましたが、それは焼け石に水。昔ながらのやり方では量がまるで足りませぬ。しかして値は下がらず、味噌と醤油も材が足りず時もかかり、なすすべもございません」
さらに勝政は意を決したように続ける。
「加えて今しがた徳川様、北条様からもたらされた書状によりますと、彼の地も同じ有り様にて、もはや領民を支えきれぬと」
「……何処も同じか」
信秀は乾いた声で呟いた。
その言葉に評定の間の空気はさらに冷え込む。
同盟は互いに助け合うこともできず、共に沈みゆく泥舟と化していたのだ。
「殿。このまま座して死を待つは、武門の誉れではございませぬ」
沈黙を破ったのは、筆頭家老である武井十左衛門である。
十左衛門は覚悟を決めたように顔を上げ、静かに、しかし力強い声で言った。
信秀、勝政、そして信則の視線が、一斉に十左衛門に集まる。
「……十左衛門、何か策があるのか」
信秀が僅かな希望を込めて問う。
「策と呼べるほどのものかは分かりませぬ。然れど、道は一つだけ残されております」
十左衛門は地図の上に広げられた日ノ本の勢力図を睨みつけ、指で一点を叩いた。
そこは京の都。そして、その先にある、大阪。
「敵の心の臓を、直に突くのでございます」
「軽挙なり!」
即座に声を上げたのは、信秀の弟、信則である。
「京には肥前国の猛者共が、大阪の町は難攻不落の砦と化しております! 手を出せば、それこそ奴らの思う壺! 我らは朝敵となり、天下の全てを敵に回しますぞ!」
信則の言葉はその場にいる全員が考えている正論だった。
だが、十左衛門は揺るがない。
「左衛門様の仰る通り。正しく攻めるならば、万に一つの勝ち目もございませぬ。然れど、このままでは戦わずして滅びるのみ。業る量(生産量)が安んずる(安定する)のを待っていては、その前に国が、いや、同盟そのものが崩れまする。ならば、一縷の望みに賭けるほかありますまい」
信秀は地図と十左衛門の顔を交互に見つめ、勝政に問うた。
「三左衛門。……勝てるか?」
「……必ず勝てるとは、申し上げられませぬ。長戦となれば、我らの負けは必定。然りながら……」
勝政は厳しい表情で考えた後、慎重に言葉を選びながら答え、続ける。
「敵も、我らがこの窮地にあって、忽ち京大坂に攻めかかってくるとは思うておりますまい。その虚を突くのです。我らには五万の兵がおります。この全兵力を一点に集中させ、風の如き速さで京と大阪を攻める。……もし、天が我らに味方すれば、一度や二度の勝利は得られるやもしれませぬ」
それは作戦とは呼べず、ほとんど賭けであった。
運と敵の油断という、不確かなものに全てを賭けるのである。
「一度や二度、勝ったとして、その後はどうするのだ」
信秀の問いは冷静だった。
「大阪を奪うのです」
十左衛門が続ける。
「大阪には肥前国の工場も蔵もございます。我らが最も欲する塩や味噌、醤油を業る設け(設備)と、その蓄えがあるのです。それを奪い、我らのものとする。命の糧とその生業のもとを奪い返せば、息を吹き返すこと能いまする。然すれば、徳川様や北条様も、再び我らと共に立つでしょう」
「大義名分は如何いたすのだ? 命の糧を奪われたと言っても、それは商人等が勝手にやったこと。殿下……純正を悪にはできまい?」
十左衛門は深呼吸をして居住まいを正し、続けた。
「もはや、善悪を考えても詮無き事にございます。勝てば善であり、負ければ悪でございましょう。天下静謐民の安寧を願うと申しながら、自らの命で商人職人を引き揚げさせ、畿内の民を困窮させたのは真の事。我らが言うことを聞かぬからと、斯様な道理が通りましょうや」
どれくらいの時が流れただろうか。
沈黙のあと、再び十左衛門は発言する。
「帝をお救い申し上げ、朝廷を壟断する奸臣・純正を討つ。これ以上の大義はございませぬ。我らが京を制し、帝をお守りすれば、我らこそが官軍となります」
十左衛門の言葉はもはや狂気でしかない。
全ての選択肢を失った者たちが、最後にたどり着いた唯一の反撃の戦略なのである。あまりにも危険で、あまりにも脆い希望。
だが、それしか道はない。
「……分かった」
その一言は、評定の間に重く響いた。
「その策、乗ろう。織田家の、いや、日ノ本の命運を賭けた、最後の大博打だ」
信秀は立ち上がり、家臣たちを見据えた。
「皆、心して聞け。これより我らは、天下に弓を引く。勝てば官軍、負ければ逆賊。子々孫々に臆病者の名を残すくらいなら、戦って散るが武士の本懐であろう」
「兄上!」
信則は食い下がった。
どう考えても勝ち目はない。
そもそもの発端は、しっかりと意志の疎通が図れていなかったからではないか?
所領の代わりに俸給制?
身の上にかかわらず教育と職業の自由?
殿下の本音は何なのだ?
確かに織田家の戦国大名としての力はさらに弱まるだろう。
しかしそれは、武門の誉れを穢すことなのだろうか?
「今一度、今一度殿下にお目通り願い、事の真意をしかと聞いてから判じてもよいのではないでしょうか」
「くどい! 織田家の当主はオレだ! それに、もう遅い。遅いのだ!」
信秀の顔が苦痛に歪む。
こうして織田家は、無謀な希望を胸に、破滅への引き金を引いた。
次回予告 第888話 (仮)『信長と長政と純正』

コメント