第883話 『寿命と病状と織田家中』

 慶長五年一月二日(西暦1600年2月16日) 岐阜城

 年が明けて慶長五年となったが、年賀の挨拶どころではない。

 信長の病状がまったく変わらず、その病状も秘匿されていたので、織田家中はおろか領内でも不穏な噂が飛びかっていたのだ。

 当主である信秀のもとに年賀の挨拶に来る者は多くいたが、信長の病状を考慮して、簡単な応対のみで帰している。


「おかしい。消渇(糖尿病)なのは間違いない。ゆえにすぐに効く薬はないのだ。それゆえ食を変え、量を考えつつ診ておる。されど三月みつき斯様かように悪くなろうはずがない。いや、仮に然様さような例え(症例)だとしても、たまたま中将様がそれに当てはまったのか?」

 弦斎の疑問は消えない。

 信長の状態がここまで悪くなければ、慎重に見極めながら『飢餓療法』を用いて信長の延命を考えていたのだ。

 なにより信長がそれを望んでいた。

 飢餓療法は、アメリカの糖尿病研究者フレデリック・マディソン・アレンが提唱した療法である。

 ただし、患者はギリギリ生きていける限界まで摂取エネルギーを制限するために、通常で2~3年、重症例では2~3か月の延命効果しかなかった。

 何もしないよりマシではあったが、結局、糖尿病で死ぬか餓死するかである。

 それでも信長は織田家のために、それを選んだのだ。

 しかし、今の状態ではそれすらできない。


 ――発 野間弦斎 宛 純アルメイダ大学 東玄甫教授

 中将様(信長)消渇しょうかつ(糖尿病)の疑い間違いなく、多飲多尿ならびに体の重みはなはだ減りけり。

 然りながら三月の内に斯程に重篤になりけり例え、未だ知らず。

 中将様延命望まれしゆえ、飢餓療法施したくも、体の様危うきてあたわず。

 願わくは先生の御所存、承りたく存じ候。――


「これは大叔父上、年賀の挨拶かたじけのうございます」

 謁見の間には上座に織田信秀、向かって右手に秀則がいた。

 長政の他にも蒲生氏郷や堀秀政、奥田直政らが出席しているが、一様に険しい顔をしている。

「なに、年賀の挨拶じゃ。義兄上が息災であったなら、真に喜ばしいのだがな」

 長政は複雑な表情をした。

「三郎(信秀)、よく聞くのだ。わしも新年早々言いたくはないが……」

 長政は2人を見据えた。

「もし義兄上に万が一の事があれば、お主が織田家を支えねばならぬ。左衛門は当主である兄を支えるのが務めぞ」

「大叔父上、然様な事仰せにならずとも、この三郎心得ております」

 信秀は不安と疑念が混ざった顔を見せたが、平然を装って答えた。

「真に心得ておるならば何も心配はしておらん。お主はまだ若く、験も足りぬ。ゆえに広く周りの考えをよく聞き、慎重に判ぜねばならぬのだ」

「大叔父上、お尋ねしたい儀がございます。殿下の御政道をいかにお考えでしょうか」

 この質問に、謁見の間が緊張に包まれた。

 堀秀政ら3名は、長政の答えを固唾をのんで見守っている。

「三郎(信秀)よ、それは重き問いであるな」

 長政は静かに答えた。

 彼らは長政が信長の真意を伝え、信秀を正しい道に導いてくれると信じているのである。

「殿下(純正)の御政道は確かに古き仕来りを破るものだ。所領を給金とし、身の上にらず才ある者を登用しては教育を万民に施す。これらは、我ら武士にとっては受け入れ難いところもあるやもしれぬ」

 長政は言葉を選びながら続けた。

 信秀と秀則は真剣な表情で長政を見つめているが、ここまでは誰もが納得できる答えである。

「されど、それが天下万民のためになるならば、我らは痛みに耐えて受け入れるべきであろう。民が飢えずに病に苦しまず、子らが学問を修められる世こそが真の太平ではないか」

 長政の声には一切の迷いがなかった。それは信長から受けた言葉、そして彼自身が肥前国の繁栄を見て感じた偽らざる本心である。

「大叔父上は、殿下の御政道を受け入れるべきだと仰せになるのですか?」

 信秀が尋ねた。

「うむ。義兄上(信長)も同じお考えであった。義兄上は殿下を信じていらっしゃる。殿下の御政道こそが織田家を、大日本国を正しい道に導くと」

 よくぞ言ってくれたと、重臣3人は胸をなで下ろす。

りながら……」

 長政は途中で話を止めて、全員の顔を見た。

 信長の考えを十分に理解して同意したうえで、それでも完全に賛成ではないのである。

「殿下の御政道は確かにくあるべき姿(理想的)であるが、急き過ぐる節(ふし)もある」

 長政は言葉を選びながら信秀と信則に訴えかけた。

 その言葉は、織田家中の現状、そして他の州が抱えるであろう現実的な問題を的確に指摘している。

 信秀と信則は真剣な表情で長政の言葉に耳を傾けていた。

「十左衛門殿や三左衛門殿(柴田勝政)たちが、殿下の御政道に異を唱えるのも無理からぬ事。彼の者らは織田家の家臣団を、そして織田家そのものを守ろうとしているゆえ」

 長政は反対派の心情にも理解を示した。

「大叔父上。ではいかがしろと仰せなのですか」

 信秀が長政の真意を問うた。

「我らは殿下の御政道を受け入れつつ、その進め方を殿下にお願い申し上げれば良い」

「おお、それならば無用な争いも生まれませぬ」

 信秀の目は輝き、信則も笑みがこぼれた。

「大叔父上、我らは殿下にお願い申し上げる所存です。御政道は受け入れるが、その進め方においては、徐々に家中の得心を得ながら進めさせてほしいと」

「うむ、その旨殿下にお伝えしよう」

 長政は信秀の言葉に深くうなずいた。この若き当主が、信長の後を継ぐにふさわしい器量を示してくれたことに胸をなで下ろしたのである。

「されど、もし殿下が聞き入れてくださらなかった時は……」

 信則が不安げに尋ねた。

「その時は……」

 長政は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに決意を固めて答えた。

「殿下はお心の広いお方である。決して我らを無下にはなさらぬ。わしもそれを信じよう」

 その言葉に信秀と信則もうなずき、決意を新たにした。

「ありがとうございます、大叔父上」

 信秀は深々と頭を下げた。

「義兄上のお気持ち、そして我々の考えを殿下にお伝えください」


 数刻後(数時間後)――。

「まったく、あやつもこやつも。然様な事は分かっておるわ! 織田家の当主はオレだぞ。いつまでも上様上様と……。いや、分かっておる。分かっておるのだ」

「兄上?」


 ――発 東玄甫 宛 野間弦斎

 中将様の病の有り様を聞きて鑑みるに、真の消渇(糖尿病)による有り様か確かめる要ありと認む。

 食の支度は貴殿によるものか否か。もし否ならば、一度貴殿自ら食の一切を差配し、一月ひとつき程様子を見るのも良き術かと存じ候。

 加えて和蘭の医師オットー・ヘウルニウスによれば、彼の国にて消渇の薬が開発されたと聞き及び候。

 飢餓療法の前に再考の要あり。

 まずは中将様の病の様を平癒せしめんと試みるべし。――


 しばらく後――。

 長政が岐阜城を出た後、信秀は武井十左衛門と柴田勝政(三左衛門)を呼んだ。

「十左衛門、三左衛門」

「 「は」 」

 信秀は2人の重臣に向き合った。

「大叔父上と話をした。久太郎(堀秀政)や忠三郎(蒲生氏郷)、三右衛門(奥田直政)もおった。殿下の御政道を受け入れる形で計らおうと考えている」

 淡々と話をする信秀であったが、腹の内に何かを隠していそうである。

 その言葉に十左衛門と勝政の顔色が変わった。

「殿、それは……あまりにも早計ではございませんか」

 十左衛門が難色を示した。

「我らは、殿下の御政道が織田家を弱らせるものだと……」

「分かっている」

 信秀は、十左衛門の言葉を遮った。

「然れど大叔父上は、殿下を信じていらっしゃる。それが長き目で見れば正しい道だと」

 勝政が口を開いた。

「殿下と上様の関わりは心得ております。されど、政治と私情は別でございます。殿下の御政道は古き仕来りを根から覆すもの。家中にてそむくものが出るのは必定にございましょう」

「家中が乱れぬよう、順をおって進めたいと考えている」

 信秀は長政との間で話した内容を伝えた。

「殿下にお願い申し上げるのだ。御政道の基となる考えは受け入れるが、その進め方は我々の実情に合わせ、時をかけて進めさせてほしいと」

 十左衛門と勝政は互いに顔を見合わせた。信秀の考えは彼らの主張とは異なっていたが、完全に否定するものでもなかったのである。

「殿下がお聞き入れくだされば、それに越した事はございません。されどもし、聞き入れてくださらなかった時はいかがなさるのでございますか」

 勝政が尋ねた。

「その時は、致し方あるまい」

 信秀は静かに答えた。

「大叔父上も仰せられた。殿下は決して我らを無下にはなさらぬと。私もそれを信じよう」

 十左衛門と勝政は信秀の言葉に沈黙した。彼らの顔には不安と不満が入り混じっていたが、当主の決断を覆すことはできない。


「もし殿下が、武をもって従えると仰せなら?」

 沈黙の後、ポツンと十左衛門が言葉を投げかけた。

「その時は……」

 信秀は言葉に詰まった。

 大叔父の長政は殿下を信じると言った。祖父も同じ考えだっただろう。

 しかし、もし純正が武力による服従を強要するならば?

 その時、織田家はどうすべきなのか。

「殿、その時はあらがう勢を糾合し、戦うしかございませぬ。殿下の御政道は我ら武士の在るべき姿を根本から揺るがすものにございます」

 勝政が静かに口を開き、十左衛門もそれに続いた。

「然様、これらすべて一朝一夕にできあがったものではござらぬ。儒教の教えに五倫と五常があるように、長い年月を経て育まれてきたもの。それを易々と変えては天下に大乱がおきましょうぞ」

 理論では十左衛門が、軍略では勝政が話をつなぐ。

「もし戦とならば、徳川、浅井、北条、武田、そして他の多くの大名も我らに続くでしょう。殿下とて日ノ本全土を敵に回しては、容易ではありますまい」

 信秀は目を閉じた。

 脳裏に、祖父信長の病に臥せる姿が浮かぶ。そして、父信忠の突然の死。自分が織田家の当主として、この難局を乗り越えなければならない。

「……あい分かった」

 信秀は静かに、しかし決意を込めた声で言った。

「もし殿下が、武を以て従えと仰せならば我らは抗うほかはない。その時は皆の力を借りる。十左衛門、三左衛門、他州への使者の手配を怠るな」

 十左衛門と勝政は、信秀の言葉に息をのんだ。

 彼らが望んでいた方向ではある。しかし実際に当主がその決断を下したことに、驚きと同時に重い責任を感じていたのだ。

「然れど、これだけは忘れるな。あくまでも和戦両様の構えぞ。最後の最後まで殿下と胸襟を開いて語らい会い、それでもまだ、殿下のお心が変われねば、致し方ない」

「かしこまりました、殿。この武井十左衛門、命に代えても殿と織田家をお守りいたします」

「それがしも同じにございます、殿」

 2人は深々と頭を下げた。



「よいか、皆に伝えよ。決して軽々しく動くではないぞ。重ねて言うが、我らが抗うは最後の最後じゃ」




 次回予告 第884話 (仮)『純正、問答無用』

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