慶応三年六月二十九日(1867年7月30日)
「いえ、これは国際的な人道支援として当然のことをしたまでです。貴殿の感謝の言葉、しかと受け止めました」
ガウワーの言葉は丁寧だったが、その目は次郎の真意を探るように鋭く光っていた。
サラワクでの会談は、屈辱的だったに違いない。何の成果も上げられなかったのだ。
その雪辱を果たそうという気概が、彼の全身から伝わってくる。
「さて、太田和殿。本日はアラスカとの国境画定問題の件で、非公式に協議をいたしたく、参りました」
ガウワーは本題に入った。
「クルティウス殿から、その旨は伺っております。その前に……あなたはもしや、ヒュースケン殿ではありませんか?」
次郎たちの目の前にいるガウワーの通訳は、なんと、あのヘンリー・ヒュースケンである。
「太田和様、その節は大変お世話になりました。あのときのことは、一生忘れません」
ヒュースケンはもともとオランダ生まれである。
襲撃され、大村医療班のおかげで命を取り留めていたのだ。
「私はあの後、ポートマンとともに通訳を務めていました。しかし、南北戦争の渦中でもあり、母国に残した母も気がかりでしたので、帰国していたのです」
「なるほど、そうだったのですか。いや、しかし、元気そうでなにより……ですが、なんでまた……」
イギリスの通訳に?
と、次郎は問いかけたかったが、クルティウスから察してくれ、の雰囲気を感じ取って止めた。
おそらく、帰国して外務省かどこかに勤めていたところ、声がかかったのだろう。
「次郎、この者は、そなたの見知った者なのか?」
「少将様、実は……」
傍らの昭武が次郎に聞いてきたので、次郎はいきさつを話した。襲撃当時、昭武は8歳である。
「何だ、つまらぬ。かような策を弄して次郎を悩まそうとは片腹痛し」
うおっと!
待て待て待て、まってくれ昭武くん!
「うおっほん、げほんごほん、いや、失礼……(少将様!)」
しかし、言い方とタイミングは別として、言わんとしていることは理解できる。
ガウワーが、大村藩が救命に尽力したとはいえ、日本側の落ち度としてヒュースケンを同席させ、多少なりとも同情や動揺を誘おうとしている可能性は否定できない。
一方のヒュースケンは、申し訳なさそうな雰囲気を漂わせている。
できることなら同席したくはなかっただろうが、仕事のため、母国のためには仕方なく、といったところだろう。
オランダとしても、イギリスに頼まれたら無下にできない事情があるのかもしれない。
「彼は何と?」
「……いえ、私の日本での事件がありますから、あなたのサラワクでの対応を考えれば、お互い様だと2人の会話の中で言っています」
「なるほど……」
ガウワーは少し考え込んでいる様子ではあったが、すぐに気を取り直して話を続ける。
「では、進めてもよろしいでしょうか、太田和殿」
「ええ」
「その前に」
次郎の了承の前に、ガウワーは一言加えた。
「国境の画定なのですから、これは当然、国同士の取り決めになります。しかしながら、現在貴国と我が国の間には、国交もなければ通商もない。これではそもそも国境など存在し得ない。それならば、我が国がブリティッシュ・コロンビアを通じて、貴国の言う貴国の領土のアラスカで何をしても、問題にはならないのでは?」
「そういう論法もあり得るでしょうね」
緊張感を高めるガウワーの発言ではあったが、次郎は冷静に対応した。
ガウワーの言葉は挑発的だった。まるで、日本の主張は根拠がなく、アラスカは無主の地であると言いたげな口ぶりである。
昭武は面白そうに次郎とガウワーの顔を見比べているが、彦次郎は口元を引き締め、兄の隣で静かに座っていた。
次郎は英語で話し、ガウワーの発言はヒュースケンを通じて日本語で伝えられる。
「ガウワー殿。貴殿の仰せは、いささか飛躍しすぎではございませぬか」
次郎の声は穏やかだが、その言葉には揺るぎない自信が宿っていた。
「それはつまり、我が国のアラスカ開発に対して、貴国は干渉する正当な権限も法的根拠も持てないとも言えますね。行政権も執行権もない状態で、国境画定の話だけをするのは矛盾していると言えるでしょう」
「なるほど、太田和殿の論理は明快です」
ガウワーは言葉に詰まったが、外交官らしく表情を保っていた。
彼の論法は明らかに、日本側に国交回復の必要性を認めさせるための挑発だったが、次郎の反論はその論理をそのまま返したのだ。
「しかし、そうなれば、我々双方にとって不安定な状況が続きます。アラスカとブリティッシュ・コロンビアの間に明確な境界がないまま、互いの活動が重なり合えば、いずれ深刻な摩擦を生むでしょう」
次郎はうなずいた。
「その点には同意します。だからこそ、私は国境画定のための協議に応じているのですよ。私の権限は国境画定の協議に限られていますが、それが両国にとって有益であると信じています」
「しかし太田和殿、国境を画定しても、それを保証する双方の関係がなければ、絵に描いた餅ではありませんか?」
ガウワーは諦めずに食い下がった。彼の真の目的が国交回復にあるのは明らかである。
「ガウワー殿に質問があります」
このやりとりを聞いていた昭武は、突然口を挟んだ。
ヒュースケンを通じて昭武の言葉を聞いたガウワーは、『子供が一体何のつもりだ?』と思いつつも、丁寧にうなずく。
「どうぞ、SHOWSHOW殿」
どうせ大したことは言わない。
そう思ったのだ。
「我が国はアラスカの領有権をロシアから正当に譲渡されたのですが、それを貴国は認めているのですか?」
昭武の質問は単刀直入である。
次郎は内心ドキリとしたが、質問自体は交渉の核心を突いていた。
ガウワーは少し考えてから答える。
「我が国はロシアとアメリカの間でのアラスカ売却の話は聞いておりましたが、日本への譲渡は……」
「つまり、認めていないのですね」
昭武は鋭く切り込んだ。
「いいえ、そういうわけでは……」
「では、認めているのですね?」
昭武の追及に、ガウワーは言葉に詰まった。
イギリスの立場は微妙だったのだ。
ロシアからアラスカの領有権が日本に移ったと正式に認めれば、国境画定の必要性を認めることになる。
しかし、否定すれば交渉の意味がなくなるからだ。
イギリスの本来の目的は、国境の画定ではない。
それを名目とした日本との国交回復なのだ。
次郎はこの展開に冷や汗を流しながらも、昭武の鋭さに内心感心していた。
「少将様のご質問は核心を突いています」
冷静に聞いていた彦次郎の顔を見て、うなずきつつ次郎が静かに言った。
「ガウワー殿、我々の交渉の前提として、アラスカが日本領である事実をイギリスが認識していなければなりません。そうでなければ、国境画定の意味はないのです」
ガウワーは短くふうっと息を吐き、覚悟を決めて言った。
「我が国は、ロシアから日本へのアラスカ譲渡を認識しています。それを前提に国境画定の協議に参りました」
「明確にしていただき、感謝します」
次郎は礼を述べた。
この小さな勝利は大きな意味を持っている。イギリスがアラスカの日本領有を認めたおかげで、交渉の立場が強化されたのだ。
「では、国境の具体的な画定の話を進めましょう」
彦次郎が地図を広げた。それはロシアとイギリスが以前に合意していた国境線が記された地図の複写であった。
「我々の立場は明確です」
次郎は地図を指し示した。
「このラインが、かつてロシアとイギリスの間で合意された国境です。我々はこれをそのまま継承したいと考えています」
ガウワーは地図を詳しく見ながらうなずいた。
「基本的にはその方針で問題ありません。ただし、いくつかの地点は、より詳細な測量が必要かと」
「それには同意します。共同の測量隊を派遣して詳細を確認することは有益でしょう」
次郎とガウワーは測量方法や時期の初期的な議論を続けた。画定を前提に話が進むと、お互いの緊張感は徐々に和らいでいく。
しかし、ガウワーは機会を見つけては国交回復の話題に触れようとしてきた。
「このような協力関係は、より広範な両国の関係改善につながる可能性がありますね」
「確かにそうかもしれません。しかし、まずは目の前の課題に集中すべきでしょう」
次郎は慎重に応じた。
目的はあくまでもアラスカとブリティッシュ・コロンビアとの国境の画定であり、イギリスからの干渉の排除である。
「太田和殿、個人的な質問をしてもよろしいでしょうか?」
会談が一段落したところで、ガウワーが切り出した。
「どうぞ」
「貴国と我が国の関係を、太田和殿はどうお考えですか? 将来的な国交回復の可能性は?」
次郎は冷静に答える。
「私見として申し上げるなら、相互尊重を基盤とした関係は可能でしょうね。しかし、それには時間と双方の誠意が必要です。今回のような具体的な問題の解決を積み重ねる行為が、信頼関係の構築の第一歩になると考えています」
ガウワーはその言葉を慎重に受け止めたようだった。
「理解しました。我々も同じ考えです。一歩ずつ進んでいきましょう」
このとき、昭武が再び口を開いた。今度はより落ち着いている。
「ガウワー殿、1つ申し上げたいのですが」
ヒュースケンが通訳すると、ガウワーは身を乗り出した。
「何でしょう」
「我が国は、貴国が思うほど弱くはありません。むしろ、貴国が我が国を必要としているのではありませんか。そうであれば、今後も、それを忘れないでいただきたい」
昭武の言葉には威厳があり、15歳の少年の言葉とは思えない。ヒュースケンが通訳すると、ガウワーは驚きの表情を浮かべた。
次郎とのやりとりで見せた年相応の雰囲気とは別人である。
『またか!』と次郎は冷や汗を流しながらも、昭武の言葉があながち間違いではないと認識している。
「少将殿のご提言、承りました」
ガウワーは慎重に応じた。
「我々は日本を尊重しています。だからこそ、このような協議の場に臨んでいるのです」
会談はその後も続き、国境画定の基本的な合意に達した。
1. 既存のロシア・イギリス間の合意を基本線とする
2. 不明確な箇所には共同測量隊を派遣する
3. 測量結果に基づいて最終的な境界線を確定する
4. 紛争解決の手続きもあらかじめ定めておく
ガウワーとヒュースケンが退出した後、次郎は緊張の糸が切れたかのように、どしっと背もたれに身を預けた。
「少将様、大変な緊張でしたぞ……」
昭武は満足げな表情を浮かべていた。
「すまんすまん、面白かったぞ、次郎。ヤツらの本音が見えた」
「少将様、平にご容赦を。ご発言は時に予想外で、それがしは冷や汗をかきましたが……」
次郎の言葉に、昭武は少しいたずらっぽく笑った。
「我が国の立場を明らかにしておかねばならない。ヤツらは常に優位に立とうとしている。それをけん制せねばならんからな」
「少将様の直言は時に効果的でした。特に、アラスカの領有権認識を明確にさせたのは重要な一歩にございましょう」
彦次郎が茶を注ぎながら言うと、お里もうなずきながら同意する。
「ヒュースケンさんの表情を見ていると、少将様の発言を訳すたびに困っていたね。『忠告する』を『申し上げる』とか。でも、彼もガウワーさんの論法に違和感を持っているようだったよ」
万博の熱気に沸く街の向こうには、夕日が沈みかけていた。
「明日も交渉が続きます。今日はあくまで基本的な枠組みの合意に過ぎません。ヤツらは明日、新たな戦略で臨んでくるでしょう」
「次郎よ、心配するな」
昭武は少年らしい笑顔を見せた。
「私がいる。やつらの本心を引き出してやろう」
いやああああああ!
それが、問題なんだよ。
次郎は思わずほほ笑んだ。もちろん、苦笑いで引きつっている。
しかし、昭武の洞察力と大胆さは、時に荒削りながらも、外交の場では意外な効果を発揮していた。
「少将様、明日もよろしくお願い申し上げます。されど、できますれば事前に……」
「分かっておる。驚かさぬようにな」
昭武はにやりと笑った。
次回予告 第413話 (仮)『英国の本音と日本の矜持』

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