第403話 『通信革命』

 慶応三年五月十五日(1867年6月17日)パリ

 朝方、日本パビリオンから叫び声が上がった。

 警備を担当していた藩士が、息を切らして次郎のもとへ駆け込んでくる。

「た、大変です! 大変です! 御家老様!」

 次郎は慌てて起き上がり、部下の報告を聞く。

 昨夜、日本パビリオンへの侵入者があり、グライダーと自動車の設計図、自動車の重要部品が盗まれたらしい。

「なに? 設計図が盗まれた! ?」

 次郎は隼人と廉之助を緊急召集し、現場へ急行する。

 日本パビリオンのセキュリティが破られ、特に『厳重に保管していたはず』のグライダーの技術設計図と、自動車のエンジン設計図、さらに自動車の部品が消えていた。

 警備員たちが謝罪する中、次郎と隼人、そして廉之助は互いに目配せし、人気のない場所に移動した。


「計画通りですね、兄上」

 隼人が小声で言う。次郎は満足げにうなずいた。

「うむ。信之介の作った『偽設計図と偽部品』が無事に盗まれたようだな」

 実は、これは次郎の周到な計画だったのだ。

 パリに来る前から、各国が日本の先進技術に強い関心を示すことを予測していた次郎は、信之介に特別な『偽物』を用意させていたのである。

「この策の目的をもう一度確かめておきましょう」

 隼人が言った。

「うむ」

 次郎は短くうなずくが、どの国が我々の技術に最も関心を示すかを見極める必要性を感じていた。

 それによって今後の外交戦略が変わるからだ。

「重要なのは、彼らに対しての『思わせぶり』の情報提供である。我々の技術の本質は見せつつも、実際の製造方法や核心部分は把握させない。さすれば彼らは『理解できそうで理解できない』状態へ陥る」

 相変わらず、次郎と科学者の会話はほぼ現代文だ。

「それにより、彼らは武力や強奪ではなく、正式な技術交流や商取引を求めるよう誘導できますね。見せかけの技術だけでは完全に再現できないと悟れば、協力関係を模索するでしょう」

 廉之助が続けるが、その戦略がもたらす効果を冷静に分析していた。

「うむ。実際に製造しようとすると失敗する。されど、何ゆえ失敗するのかは理解できない。さすれば彼らはオレたちとの関係を保ちつつ、技術を『合法的に』得ようと努力するだろう」

「外交でも使えますね。今回の盗難事件によって、フランスは我らに借りを作ってしまった。それを将来の交渉で活用できます」

 隼人が付け加えた。彼は今回の事件を外交上の有利な材料と捉えている。

「それに、心理的効果もあるな」

 次郎の言葉は意味深であった。その言葉には相手を畏怖させ、敵意をそぐ狙いを込めている。

「彼らが苦労して盗んだ設計図が『意味不明』であると分かったとき、我らの技術の複雑さに畏怖の念を抱くだろう。これは単なる自慢ではない。相手に『この国とは敵対せず、友好を保つべきだ』と思わせる重要な手段なのだ」

「なるほど……」

 廉之助が感心した表情でうなずく。彼の知的な探求心が刺激されたようだった。

「そういえば、実際の展示物と、盗まれた設計図の内容は違うのでしょう?」

「無論、展示品は本物だ。されど、その内部構造や製造方法は見せていない。盗まれた設計図は、製品の外観と大まかな原理は正しいが、核心部分には意図的な『誤り』や『不可解な表現』を交ぜている」

「というと?」

「そうだな、例えば信之介から最初に『シリンダー』と聞いたとき、理解できたか?」

「いえ」

「できませんでした」

 2人はほぼ同時に返事をした。

「であろう? 実物を見て、円筒型の品だと分かったのではないか?」

然様さようです」

「その逆をしたのだよ」

 ああ! と隼人と廉之助の顔が明るくなる。

「つまり、我ら日本人でさえ難解な漢字や言葉をならべ、初見で理解できるはずがない、と?」

「然様。写しがこれだ」

 そう言って次郎はわざと盗ませた設計図の写しを見せた。


 ~揮発油火花点火式混合気圧縮機関概要~

 これは、内燃機関と名付けられたる冷却機関の一種である。

 密閉された冷却室の内部にて、揮発油と呼ばれる液体と水を混ぜ合わせ、瞬時に凍結させ、これにより生じる冷気の力を直接利用して機械を動かす仕組みである。

 四つの動き

 この機関は、主に四つの動きを繰り返すことで、その力を吸い取り、動力を生み出す。これは四行程と呼ばれておる。

 吸い込み(吸気行程): まず、弁は閉じたまま、冷却室の外にある揮発油と、別に用意した水が、別々の管から押し込まれる。

 押し込み(圧縮行程): 次に、弁が開いたまま、冷却室に入った液体を、活塞で強く引っ張る。これにより、液体は非常に大きく引き伸ばされ、その体積が増える。

 火花と燃え広がり(燃焼・膨張行程): 引き伸ばされた液体に強力な冷気を当てる。液体は瞬時に凍り付き、冷却室の中の固形物が大きく収縮する。

 この収縮する力が活塞を強く上へ引き上げる。この引き上げる動きこそが、力を生み出す元となる。

 吐き出し(排気行程): 力を吸い取られた後の凍り付いた固形物は、弁が閉じたまま、冷却室の奥深くへと吸い込まれて消える。

 この四つの動きが繰り返されれば、活塞が左右に揺れ動き、その動きが曲柄と呼ばれる部品によって回り続ける動きを止められる。

 この回り続ける動きが止まれば、機械が動き出す動力となる。


「なるほど」

「これでは、日本人であっても分かりませんね。外国人ならまず無理でしょう。それにデタラメですしね」

 盗まれた設計図の図面と説明書の内容はデタラメで、文章はどちらかと言えば取扱説明書ではなく、初心者向けの紹介文であった。

「本当の設計図や重要部品は、大鯨と神雷の艦内にて厳重に保管してあります」

「うむ。警備員数十名が殺されない限り、盗むのは無理であろう」

「部品に関しても、見た目は本物そっくりに作っていても、内部構造が全く異なりますしね。組み立てれば一見それらしく見えるが、実際には機能しない」

 次郎たちはひそかに笑みを交わした。

 しかし、表向きには盗難事件として対応する必要がある。次郎は真剣な表情に戻り、スタッフに指示を出した。

「念のため、他の出展品の状況を確認してくれ。特に、明日予定している電話機のデモンストレーションに影響はないか」

 次郎の指示で、スタッフが総点検に入った。

 表向き、グライダーと自動車の『重要部品』は盗難扱いになっている。

 しかし、実演には全く影響しないのだ。

 盗難の事実をフランス当局に報告すべきかの議論が持ち上がったが、次郎は首を振った。

「やらなくていいだろう。そもそも、もめ事を起こすのが目的じゃない。そうだな、犯人だけを調べよう」


 お里が浮世絵売場の周辺を調査すると、興味深い情報を得た。

 昨夜、浮世絵コーナーの近くで、ドイツ語なまりのフランス語を話す人物を見かけたらしい。

「プロイセン人……」

 次郎は考え込む。

 ブローニュの森でのグライダー実演に対する、リリエンタール兄弟の強い関心を思い出したのだ。

「隼人、あのリリエンタール兄弟の素性を調べてくれ」

「はい、兄上」

 隼人はすぐに動き出した。

 パリに本格的な諜報ちょうほう網があるわけない。しかし、万博には各国の要人や技術者、商人たちが集まっており、情報交換の機会は豊富にある。

 また、滞在中に知り合ったフランス人や、先に到着していた開陽丸の乗組員、幕府や他藩の随行員、さらにはジャンやその両親といった協力者もいる。

 隼人はそうしたつながりを頼りに、地道な情報収集を始めたのだ。

 数日後、隼人から報告が入った。

「兄上、リリエンタール兄弟の興味深い情報がいくつか手に入りました」

 次郎は報告書に目を通しながら、隼人の言葉に耳を傾ける。

「彼らはパリ万博を見学するために、兄弟で来ているようでした。特に兄のオットーは、幼い頃から鳥の飛行に魅せられ、自ら翼の模型を作って実験を繰り返しているそうです。我らのグライダー実演にも、強い関心を示していたと」

「やはりな。彼らの技術に対する情熱は、本物のようだ」

 オットー・リリエンタールの名前は次郎も知っている。

 もっとも『グライダーの人』程度の情報であるが、報告書から顔を上げ、わずかに目を見開く。

「もう一つ興味深い情報が」

 隼人は少し間を置いて、声を潜めた。

「表向きは万博のための旅行ですが、プロイセンの情報部から資金が出ているようです。一般の見学客を装ってはいますが、全くの無関係ではありません」

「リリエンタール兄弟が盗んだと?」

「いえ、あくまでも関連があるだけで、実行犯とは別かと思われます。少なくとも、そう報告を受けています」

 隼人の言葉に次郎は眉間のシワを深くした。

「なるほどな。プロイセンは統一を急いでいるからな。軍事技術には特に敏感であろう。犯行はプロイセンとみて間違いないか」

「はい、十中八九」

「うん、じゃあ、それでよい。もう調べなくてよいぞ。ご苦労だった」

「はい」

 プロイセン王国は、鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクのもと、ドイツ統一を目指していた。

 そのためには、工業力と軍事力の強化が不可欠である。日本の、いや大村藩の技術力は、彼らにとって喉から手が出るほど欲しいものだろう。

「技術展示はどうだ? 盗難の件で何か影響は?」

「いいえ、ご心配には及びません。展示している実機は無事ですし、実演に必要な部品も予備があります。偽設計図が盗まれたところで、実演には全く影響しません」

 廉之助が力強く答える。

 その言葉に次郎は胸をなで下ろした。技術者たちの努力のおかげで、万博での展示は予定通り続けられる。

「よし。では予定通り、明日は電話機の実演を行う。電磁波の送受信装置も、デモンストレーションの準備を進めるぞ」

「電磁波の送受信ですか? あれはまだ、電磁波の存在証明と発生装置、つまり送信と受信ができるだけですが。展示ではなく、実演を?」

 隼人はわずかに躊躇ちゅうちょした。

 電磁波の送受信装置は、まだ何に使えるのか、要するに実用化には至っていないのだ。また、最も機密性の高い技術の1つである。

「構わん。偽設計図を盗ませたのだ。もう一歩踏み込んだ技術を『見せる』必要がある。彼らに『我々の技術を盗むなど容易ではないほどに進んでいる』と思わせるのだ」

 次郎はレーダーを頭に描いている。

 信之介は当然理解して実践しているが、隼人と廉之助はまだその域に達していないのだろう。

 次郎の言葉に、隼人と廉之助は顔を見合わせた。

「……承知いたしました。早速、準備に取りかかります」


 次回予告 第404話 『通信革命②』

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