第478話 『慶喜の王手』 

 慶応五(明治二)年六月七日(1869年7月15日) 夕刻 京都 小松帯刀邸

「小松さん、左衛門佐殿の、いや、大村家中は一体何を考えているのか。さっぱり分からん。薩摩の考えはどうですか?」

 木戸孝允は苛立ちを隠さずに太ももを叩いた。

 正面の小松帯刀は、腕を組んだまますぐには答えない。

「どうとでもとるん(とれる)ね。じゃっどん、『与り知らん』は、我らがないをしてん、味方もせんにゃ敵にもならん。そげん意味やろう。過日、かごんまに越しやった際は、西郷さあを説き伏せっせぇ、幕府に大義なくば味方をすっとも仰せやった。そいを簡単に翻すとも思えもはん」

 木戸はその言葉に納得しない。

 次郎たちの真意がどうであれ、現実として薩長さっちょうは窮地に立たされている。

 議会が機能せず、強力な札である大村藩も盤上から消えた。

 残されたのは、幕府と薩長のむき出しの対立だけである。

「あの男、慶喜がこのまま黙っておるはずがない。必ず次の一手を打ってくる」

 次郎が残した幕府の矛盾点を、慶喜が見逃すはずはない。

「 「ああ!」 」

 慶喜が向かう先は1つしかない。朝廷だ。

「我らが幕府の非道を奏上する前に、慶喜が恭順の意を示してしまえば万事休す。急がねばならん!」

 帯刀の表情が険しくなった。

 木戸の言うとおりである。先に朝廷を押さえた方が大義名分を手にするのだ。




 ■二条城

「中納言、そちの申す事、西の建言したる草案も見事である。さりながらこれでは……。ついにはそういたすとしても、朝廷を敵に回すは得策ではないと思うがの」

「は……上様のご心配、当然かと存じます。ゆえにここは、お力をお借りいたしたく、お願い申し上げます」

 家茂はいぶかしげな顔で慶喜を見る。真意を測りかねているのだ。

「余の力、とな。いかにせよと申すか」

 慶喜は卓上の議題草案を指し示した。

「この草案の一分(一部)を直し、帝へ奏上いたします。さりながらただ奏上するのではありませぬ。山城国一円に加え、大和・近江の一分を御料所として、幕府より献上するのです」

「なに、大和と近江の一分をも献上するのか? ……して、考えはそれだけではあるまい」

「御意。上様には、その真意がお分かりで」

 慶喜は深くうなずいた。家茂の鋭さに満足の色を浮かべる。

「朝廷には民を治める術も人もおりませぬ。されば、領地の『所有』は帝へ。統治の煩わしき『忠実業まめわざ(実務)』は、我ら徳川が帝の忠臣として代わって行いたします」

 家茂は息をのみ、言葉の意味を瞬時に理解する。

 山城国23万石に加え、大和・近江から都合7万石、合わせて30万石の領地である。

 現在の米価で換算すれば75万両の価値を持つ。

 仮に五公五民の税率としても、朝廷の実収入は37万5千両に達するのだ。

 これは将軍上洛じょうらくで膨れ上がった元治元年の下げ金には及ばないが、恒久的な資産となる意味では全く違う。

 しかし、ここで大きな問題がある。

 たとえ恒久的な資産を得たとしても、管理運用ができないのだ。

 荘園が消えて数百年。

 領地の経営や管理、納税のノウハウはすでに存在せず、官吏もいない。

 そこで、幕府が代行することで恒久的な収入が得られるのである。

「見事な策よ。されど中納言、それでは武家の棟梁たる余が、帝の財産を預かる大番頭になるのではないか。徳川の威光はペリーの来航よりこのかた、大村藩の台頭に比べて落ちているのは否めぬ。さらに落ちぬと断言できるか。無論、天下泰平となり万民が幸せになるのであれば障りはない」

 その問いは策の本質を鋭く突いていた。慶喜は表情を変えずに応じる。

「威光とは力あってこそ。もはや武威のみで天下を治める世ではございませぬ。この先は朝廷の権威と一体となり、帝の最も忠実にして有能な臣下となる事こそ、将軍家の威光を再び日の本に示す道と存じます」

 家茂は慶喜の目をじっと見つめた。

 宗家の当主としてではなく、日の本を治める将軍として最後の決断を下す。

「……分かった。そちに任せる。速やかに行え。されど押さえるべきを押さえたならば、後は調ととのおる(調和)を旨とせよ。よいな、過ぎたるは及ばざるが如しであるぞ」

「はは。上様のお言葉、肝に銘じまする」

 慶喜は深く、長く頭を下げた。

 彼の顔には、計画が認められた安心感よりも大仕事への引き締まった表情が浮かんでいる。

 この瞬間、徳川幕府は二百数十年続いた統治の形を、自ら大きく変える一歩を踏み出したのである。




 ■翌日 御所

主上おかみ、主上、どうかお待ちくださいませ。事を急いてはなりませぬ。なにゆえ今になって幕府がかような申し出をするのか、それをお考えになる必要があるのではあらしゃいませぬか。これをご覧くださいませ」

 慶喜の動きは電光石火であった。

 修正された草案はただちに朝廷に奏上された。

 幕府からの思いがけない申し出に、公卿くぎょうたちは驚き、喜んだのである。

「岩倉よ、何をそないに驚いておるのか。まさに近年、幕府よりの献金は増えておりましゃる。されど数年前まで、六衛督の家中が献金を始めるまで、いとも見苦しき有り様であらしゃいました。御料所も増え、管理も幕府が行うならば、毎年安んじて金子が入ってくる。何の障りもないではあらしゃいませんか」

 関白の二条斉敬が岩倉をたしなめた。

「確かにそのとおりでありましゃる。されどこれをご覧ください」

 岩倉は議会に出席していたが、連日の堂々巡りの議論に嫌気がさしたのか、委任状を使って議会を欠席する者も多かった。

 二条斉敬もその1人である。

 岩倉は議事録を取らせていたが、記録された議題草案の中にある第3条を指さしたのだ。




 おかしい。

 何やこの雰囲気は。

 事なかれ主義もはなはだしい。

 昨日まであれだけ佐幕や勤王や尊王と、主義主張の差はあっても、朝廷内で議論してきたと違うか。

 なのになんで、誰も何も言わへんねん?




「象徴、とな。今さらでありましゃるな。わもじら(私たち)は古えより日の本の象徴。幕府がそれを明らかに文書にあらわし、いと大き御料を献上すると申しておるのでありましゃる。何をかためらう要のありましゃるか」

 岩倉の必死の訴えも、一度ゆるんだ空気の中ではむなしく響くだけであった。

 誰もがこれ以上の面倒を避けたがっている。議論の末に何も決まらぬ日々は、もううんざりなのだ。




 ――発 岩倉具視 宛 次郎はん

 幕府より禁裏御料の引き上げならびに管理の申し出あり。

 朝廷内ただならぬ有り様にて幕府の謀間違いなし。

 早急にはかりたく、返信をお待ちしています。――

「してやられた!」

 禁裏御守衛総督であり、常に昇殿している慶喜はすぐに謁見が叶った。

 しかし、木戸と帯刀はむなしく時を過ごし、昇殿前に結果を聞いたのであった。




 次回予告 第479話 『狼煙を上げよ』

 大村藩が京を去り、薩長は慶喜の次の一手を警戒する。

 その裏で慶喜は、朝廷に御料所を献上し、その統治を幕府が代行する妙手を家茂に進言し承認を得る。

 翌日、慶喜の電光石火の奏上に公卿たちは実利を前に受け入れ、薩長の討幕の大義名分は完全に消滅。

 孤立した岩倉は次郎に助けを求め、薩長は好機を逸し唇を噛む。

 錦の御旗を奪われ、窮地に陥った薩長。もはや正攻法での道は絶たれた。

 追い詰められた彼らが下す非情の決断とは何か。
 
「大義がないならば、こちらで作ればよい」

コメント

タイトルとURLをコピーしました