慶応五(明治二)年四月二十四日(1869年6月4日)
井伊直憲が放った『詰問状』による妥協案は議場にざわめきを起こしたが、次郎は冷静にその場を観察していた。
――発 隠密方 宛 左衛門佐殿
去る十八日ならびに十九日、薩長それぞれ上洛の由と相成り候。
両藩武備はすれども勅命に逆らうものにあらざるなりとの由に候――
薩長の動向がはっきりすれば、次郎にとって恐れるものは何もない。
あとは時間稼ぎをして使者を待つだけである。
「さて、それでは誰が赴くかにござるが、これは左衛門佐殿、貴殿がもっとも適しているかと存ずるが、いかに?」
「なるほど、掃部頭殿のお考え真にごもっとも。某としては議会の総意であれば、任にあたるはやぶさかではございませぬ」
次郎は静かに口を開いた。
意外な肯定の言葉に、反論しようと待ち構えていた日本公論会の議員たちは息をのんでいる。
直憲は不審そうに眉をひそめた。
何だ?
いったいどうした?
なにゆえさように余裕があるのだ?
「さりながらその書状に記す文面は、議会の総意として、一言一句たりとも疎かにはできませぬ。もし僅かでも高圧的な物言いが含まれておれば、彼の者らをさらに頑なにし、内乱の火種となりかねませぬ」
次郎は議場全体を見渡し、ゆっくりと続ける。
「つきましては、まず詰問状を起草する詮議方を設け、各会派から長を選んで構えて審議を重ねるべきかと存じますが、各々方いかがか」
反論の余地のない正論である。
同時に徹底的な遅延戦術の始まりでもあった。委員会を設置して人選をし、文面を練る。全てに膨大な時間がかかることは、誰の目にも明らかである。
直憲にとって次郎の時間稼ぎは明らかだが、手続きの正当性を主張されては否定できないのだ。
「書状に記す文面に、万が一にでも間違いがあってはならぬのです。そこで起きる障りの責は、各々方でもそれがしでもなく、中納言様でもなく、公方様にあらせられますぞ。さればこそ構えて、さらに構えて詮議せねばなりませぬ」
議論の次元を根底から変える一言であった。
次郎は、議員たちの感情論や目先の駆け引きを飛び越え、『この国の最高責任者は誰か』という、絶対的な事実を突きつけたのだ。
書状が引き起こす全ての責任は、最終的に将軍が負う。
お前たちは、その覚悟があって議論しているのか、と。
議場は静まり返った。
次郎の言葉は熱狂していた議員たちの頭に冷水を浴びせ、自らの立場の危うさを自覚させたのである。
直憲でさえ、あまりに正しく重い言葉に、反論の糸口を見つけられずにいた。
次郎の罠は、完璧に機能したかに見えた。
しかし、その完璧な正論の壁を、直憲は予想だにしない角度からこじ開ける。
「……左衛門佐殿の仰る事、真にごもっとも」
直憲は深くうなずきながら、次郎の論を全面的に肯定してみせた。
「さよう。全ての責は最後は上様が負われる……が、これまでさような事はなく、老中やその役目の長が責を負うておりました。加えてさればこそ、後々まで禍根を残す書状のごとき証を残す事こそが、あまりに危ういではありませぬか!」
直憲は次郎が築いた責任の土俵に自ら上がり、その論理を乗っ取ったのである。
「左衛門佐殿の仰せの通り、詮議方でいかに言葉を尽くそうと、書状なるものは、必ずや解釈の違いを生む。しかして万が一の事が起きたとき、その紙切れ一枚が、公方様を窮地に追い込む最大の証拠となりかねん! 我らはさような危うきものを、自らの手で作り出すべきではない!」
そして次郎に向き直った。
「であるならば話は早い! 我らが今為すべきは、危うき証を残す事ではない。この議会の『生身の意志』を、彼の者らに突きつける事だ! そのためには定かならざる解釈を許し、責任の在り処を曖昧にする書状はいらぬ! 全権を委任され、公方様に代わって責を負う覚悟を持った使者こそが必要である!」
「やーめた。バカバカしい。掃部頭殿、お前さんが行けばよろしい。加えて全ての責を負いなされ」
あまりにごまかしがすぎる。
あきれた次郎は、直憲に向かってつい現代語まじりで吐き捨ててしまった。
議場は一瞬、完全に静まり返った。
誰もが己の耳を疑ったのである。
常に冷静沈着で理路整然と発言してきた次郎が、あろうことか公の場で感情をむき出しにして罵倒したのだ。
勝利を確信していたはずの直憲の顔から、すっと血の気が引いた。
次の瞬間、その顔は怒りと屈辱に歪み、みるみるうちに赤く染まっていく。
「き、貴様あっ! 左衛門佐! 今、何と申した!」
直憲の絶叫で、議場は大きな騒ぎになった。
「無礼者!」
「議長にあるまじき暴言!」
「議会を、公議を愚弄するか!」
公議政体党の議員たちが一斉に立ち上がって次郎を指弾する。日本公論会の議員たちは、あまりに予想外の次郎の行動に、声もなく立ち尽くすばかりであった。
「黙らっしゃい!」
地をはうような、しかし議場の隅々まで響き渡る低い声が、騒ぎを一瞬にして鎮めた。
声の主は次郎ではない。
次郎の代わりに本来の席についている純顕であった。
ゆっくりと立ち上がり、その目は高ぶる直憲を、そして議場全体を射抜くように見据えていた。
「掃部頭殿。また、各々方。我が家臣、太田和次郎左衛門の非礼、主として深くわびる。……されど、我が家臣が『バカバカしい』と吐き捨てた気持ちもよくわかる」
あまりに直接的な物言いに、直憲は言葉を失った。
「掃部頭殿。貴殿の論は、公方様を蔑ろにする物言いに他ならぬ。一介の使者が将軍の責を代われる道理など、この日ノ本のどこにも在りはせぬ。さらば我が家臣が申した『万が一の間違いの責は、最終的に公方様が負われる。さればこそ、慎重に手続きを踏むべきだ』との言葉こそが、真の忠義ではなかろうか」
議場の空気が完全に変わった。
次郎の正しさと直憲のごまかしの危うさが、純顕の口から誰の目にも明らかな形で示されたのである。
そして、純顕は最後の問いを投げかけた。
「幕府は是が非でも長州と戦がしたいのでありましょうな。ならばなされるが良い! おそらく長州も薩摩も、近日中に上洛して弁明なされよう。それでも戦をなさるなら、どうぞ勝手になされよ。ただし、大義名分もなしに戦を起こすのならば、いかに幕府といえど是非に及ばず。事と次第によっては……我ら大いに相手仕る!」
それは大村藩藩主による、幕府への明確な最後通告であった。
議場は、死んだように静まり返った。
「待たれよ!」
まさにそのとき、薩長両藩の使者が議事堂に現れた。
「……と、の事でござる」
と次郎が読み上げる。
純顕が言った内容とまったく同じであった。
「我らが、かような下らぬ言い争いに時を費やしている間に、な」
次郎は凍りつく直憲に対し静かに言い放った。
「……こたびの動議、この井伊掃部頭が取り下げる」
かくして直憲は、完全な敗北を宣言するしかなかったのである。
次回予告 第473話 『薩長再び』
直憲は次郎を使者として京から遠ざけようと画策。
次郎は時間稼ぎのため、将軍の責任を盾に手続きの重要性を説く。
直憲が巧みなごまかしでこれを覆すと、次郎は激高。
主君・純顕が直憲を論破し幕府を威圧する中、絶妙の機に薩長からの議会復帰の使者が到着。
直憲は動議を取り下げ、完敗を喫した。
次回、薩長が戻ってきた京都で何が起きる? 幕府は長州征討を諦めるのか、どうか?

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