第897話 『江戸と館山』

 慶長五年九月十三日(1600年10月19日) 安房国館山

 館山に向かった純正の座乗艦『多比良』は、3日間の航海を経て館山の港に入港した。

 天然の良港として知られている館山港の湾内は、波が穏やかで大型船の停泊にも適している。

 里見義重は佐貫城を本拠地としていたが、家中の内乱を収めた後に、上総・安房の2カ国を統治するために久留里城に本拠を移していた。

 館山は海の玄関口として、今まさに発展の途上である。

「殿下、里見佐馬頭様、お見えにございます」

 武藤喜兵衛が純正に報告した。

 桟橋には里見家の家紋を染め抜いた旗指物を持った武士たちが整列している。

 その中央に立つ壮年の男が里見義重で、純正の姿を認めると一歩前に進み出て深々と頭を下げた。

 背筋はしっかりと伸び、自らの領地(管轄地)の将来を確固たる信念で築こうとしているのがわかる。

「里見佐馬頭義重、謹んで関白殿下の御来着を奉迎いたしまする」

 表立った不満はなく、ただ恭順の意が表れていた。自分の意見を無下にせず、自ら足を運んだ純正に対しての畏敬の念の表れかもしれない。

 桟橋に降り立った純正は義重の傍らに歩み寄る。

「佐馬頭、遠路はるばる出迎えご苦労。そなたの書状、確かに受け取った」

「はっ……もったいなきお言葉。恐悦至極にございます」

 まさかここまで早く、しかも関白自らが足を運ぶとは予想していなかったのだろう。

 義重は再び頭を下げ、その様子を戦略会議室の面々が静かに見守っていた。

「それでは館山城へご案内いたします」


 館山城は標高約63メートルの平山城である。

 周囲は平地で海を一望できる戦略的な場所にあり、防衛目的よりも経済に重点を置いた築城といえるだろう。

 城へ向かう道中に純正は館山の町を観察した。漁民や商人たちでにぎわう港町には活気があり、確かに発展の兆しが見える。

 館山城に到着すると上座に純正が座り、純正からみて左手に義重、右手に序列順位で戦略会議室の面々が控えた。

「殿下、有り体に申し上げます。関東総督府を江戸に置くとの由、某には得心能いませぬ」

 義重は書状の内容をそのまま口にした。

 不平よりも、前言撤回の理由を聞きたいようである。

「うむ、佐馬頭(義重)の心地(気持ち)は心得ておる(理解している)。安房の館山は半島の要、太洋からの入り口である。関東の重き溜まり(拠点)として総督府を置くべき場所であろう」

 予想外の純正の肯定に、義重は驚いた表情を見せた。

 反論や説得ではなく相手の立場を認める姿勢に、わずかに義重の表情が緩む。

僭越せんえつながら申し上げます。初めは館山を関東の総督府となされていたのに、何ゆえ今になって江戸と相成るのか、皆目わかりませぬ。我が家中は代々この安房を治め、館山は海運の要衝として栄えてまいりました」

 義重は館山の地政学的利点や、経済学的視点からの優位性を語る。

「北条との戦においても、真っ先に殿下のお味方をいたしたのも我が家中。然るに、突如として江戸を総督府とするとは、如何いかなる計らい(計画)にございましょうや」

 純正は義重の言葉にうなずいた。

 戦時中の約束と戦後の変更。急な方針転換に不満を持つのは当然であった。

「佐馬頭の申す通りである。当初は館山を関東総督府とする企て(予定)であった。北条との戦いの折には、この地を溜まりとして進めると約したのも真である。然れど戦は我らのあらまし(予想)よりも早く終わった」

 純正はゆっくりと言葉を続ける。

「然りとて館山を軽んずるわけではない。館山は半島にあり、海運に関しては良き場と考える。然れども関八州を統べるには些か南すぎるゆえ、江戸としたのだ」

 義重は純正の意図を理解しようと真剣に聞いている。

 しかし、ここは家康が幕府を開いた関東ではない。

 首都は諫早であり、政治の中心でもなければ経済の中心でもないのだ。

 そのため史実と同じ発展は見込めない。

 関東平野の開拓で穀倉地帯の素地はできあがるだろうが、首都が江戸でない以上、地方の総督府規模の発展しか見込めないのだ。

 100万都市など考えられない。

 もちろん、純正も家康と同様に開拓の一環で利根川の東遷をする予定である。

 しかし、銚子ちょうしは史実ほどには発展しない。

 史実では江戸・水戸・銚子と栄えたが、それは利根川云々うんぬんの前に、江戸が首都だったからである。

 太平洋航路における積み荷の陸揚げにしても、蒸気船が運航している以上、利根川の水運を使うより、そのまま江戸湾に入って陸揚げしたほうが安いし早い。

「江戸の開発には利根川を銚子に移すが肝要である。洪水を防ぎ海運を盛んにするためであるが、おおよそ二十年はかかるとみておるのだ。その間は館山を総督府とし、また江戸に移った後も、房総における副総督府として館山は大いに栄えるであろう」

「なっ……」

 純正の言葉に義重は息をのんだ。

 20年。

 子どもが大人になるほどの長い歳月である。

「何もない江戸に、関東を統べる総督府を置くわけにはいかぬゆえな」

 総督府の江戸への即時移転は決定事項だと思っていた。

 最初に館山を総督府にと聞かされていたが、それが覆され、今また暫定的とはいえ関東の中心となる。

 恒久的な総督府ではないが、完全ではなくとも義重の要望を満たしていた。

 結局は純正の説明不足である。

「佐馬頭、お主には帝国関東総督府初代総督として、江戸の開発を含む関東全体を差配してもらいたい。この大任をそなたに託す。これがオレの答えだ」

 まず義重の面子を最大限に立てて功績に報いる。信長の言う『しこり』を残さないための、純正による明確な一手であった。

 しかし、純正の話はここで終わりではない。

「然れど佐馬頭。真に重しは、その二十年後だ。江戸が完成し、総督府が移った後、この館山が如何いかがなるか。寂れると思うか? ……断じて違う。むしろその後が館山の真の始まりとなろう」

 純正は立ち上がり、窓の外、港に浮かぶ漆黒の蒸気船を指さした。

「オレが館山に託したいのは、関東の海の入り口じゃ。総督府の役割を分け、第二総督府となす。加えて造船・修理の能う港を整え、海から入り、海へ出る物の流れをになう港町じゃ」

「海運と……造船の要……」

「然り。館山を捨て置いて、ただ江戸に総督府を移すのではない。関東を栄えさせんとすれば江戸の開発は必定であるが、そのためには館山も栄えねばならんのだ」

「ははっ。殿下の深きお考え、この佐馬頭、得心いたしました」


 純正は、江戸開発が完了するまでの20年間は館山を関東総督府とすると約束し、義重の面子を立てた。

 しかし純正が本当に館山に託したいのは、総督府移転後も未来永劫続く、帝国の東日本における海運と造船の心臓部としての役割である。

 館山の天然の良港に帝国有数のドックと造船所を建設し、大型蒸気船団の母港とする壮大な構想を提示した。

『地方政治の江戸』と『海運・工業の館山』。

 こうして純正は義重の不安と不満を完全に払拭したのである。


 次回予告 第898話 (仮)『寒波対策』

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