第410話 『列強の思惑』

 慶応三年五月二十六日(1867年6月28日)

 万博会場は前日に増して多くの来訪者でにぎわっていた。

 日本パビリオン全体が注目を集める中、特に大村藩の展示は人だかりができるほどの盛況である。

 軍事技術展示の評判が広まり、各国の軍事専門家や外交官であふれかえっていたのだ。


「次郎殿!」

 振り向くと、懐かしい声の主がそこにいた。

 長崎の最後のオランダ商館長、ヤン・ドンケル・クルティウススである。

 彼は次郎に向かって大きく手を振り、人混みをかき分けて近づいてきた。

「ああ! これはクルティウス殿、お久しぶりです。パリでお会いできるとは思いませんでした」

「万博の見学と併せて、君に会いに来たのさ。母国で聞いていたうわさは本当だったね」

 クルティウスが離日したのは7年前の万延元年(1860年)である。

 大村藩は電信網を張り巡らし、1,000トン級の軍艦数隻を擁して樺太事件に対応していた頃であった。ちょうど、桜田門外の変で井伊直弼が殺害された年でもある。

「日本にいたときから、こうなるとはある程度考えていたが、予想以上だよ。大村藩の展示はすばらしいと評判だ。特に軍事技術展示は、各国の軍人たちの間で大きな話題になっている」

「クルティウス殿のお導きがあればこそです」

 実際、1860年当時でも技術的にはすでに並びつつ、または並んでいた。

 しかし最初期においては、クルティウスの手助けがなければ、厳しい課題があったのは事実である。

 次郎はクルティウスを大村パビリオンの奥、関係者以外立入禁止の一室に案内した。

 そこで茶を飲みながら、2人は昔話に花を咲かせながら旧交を温めたのである。

「実は……」

 クルティウスは周囲を確認してから、声を落とした。

「私に接触してきた者がいてね。イギリスの外交関係者だ。彼らは君とアラスカの国境問題を協議したいと言っている。もちろん、非公式にだが」

 次郎は表情を変えなかった。

「なるほど……。ただ、断交状態の国と直接対話はできませんね。幕府からはアラスカ国境画定問題に限った交渉権限は与えられていますが」

「そこで、私が仲介役になれないかと頼まれたんだ」

 とクルティウス。

「国益を第一に行動するのは大変だよ。日本にいるときによく分かった。イギリスに関しては、個人的には好きでも嫌いでもないが、現状で敵対的態度をとるのは我が国にとって得策ではないからね」

 クルティウスはやれやれ、といった感じのジェスチャーをする。

 54歳で引退するには早そうだが、すでに外交の表舞台からは降りて、ゆっくりとした生活を送っていたのだ。

「イギリスはどうやら大村藩が、いや、日本がアラスカを買ったと聞いて、ブリティッシュ・コロンビアとの境界線を明確にしたいようだ。それ以上でも以下でもない……と言っていたがね」

 次郎はお茶を一口飲んでから答えた。

「国境問題に限った協議であれば、検討する価値はありますね。ただし、それ以外の話題、特に国交回復には一切触れないという条件で。それに我が国の領土内で我らが何をしようが……」

 クルティウスはうなずく。

「ははははは。君は変わらないね。分かったよ。そう伝えよう。彼らもそれ以上は期待していないようだ。……少なくとも表向きはね」

 次郎はニヤッと笑い、しばらくの間歓談したのであった。


 アラスカの国境問題とイギリスの思惑――。

 あくまで国境の明確化であり、関係改善ではないという建前だ。

 しかし、次郎には、その裏に隠されたイギリスの真の狙いが透けて見えていた。

 イギリスが日本との国交を回復したいと願っているのは、サラワク王国でのガウワーの行動から見ても明らかだからである。

 日英戦争後、継続的に国交の回復を願って第三国経由で打診しているが、進捗はない。

 今のところ、日本にメリットがないからだ。

 しかし次郎は、今回の国境画定に関しては、イギリスが納得してくれれば、国交回復は許容範囲内と考えていた。

 ただし、新たな国交樹立に限定するのであって、戦前の状態に戻すわけではない。


「イギリスは我々の技術に驚愕きょうがくしている。特に、昨日の軍事展示は彼らに大きな衝撃を与えたはずだ」

 クルティウスが去った後、次郎は部屋に戻り、隼人と廉之助に話しかけた。二人は神妙な面持ちでうなずく。

「はい、兄上。特に無煙火薬と連発銃、潜水艦には各国の軍人たちが一様に驚いておりました。技術的な質問も殺到しておりますが、核心の部分は一切答えておりません」

 隼人が報告する。

 その声には、日本(大村藩)の技術が世界に認められたことへの誇りと、同時にそれを守り抜かねばならないという緊張感が見て取れた。

「うむ。そして、この技術こそが、これからの外交において最も強力な武器となるのだ」

 次郎は机に両肘をつき、手を組んで親指で目頭を押さえる。

「しかし、ヤツらはこの交渉を手始めに、どうにかして我が国の技術を手に入れようとしてくるだろうな」

 隼人も廉之助も、次郎の言葉に大きくうなずいていた。

「よし、では2人には、引き続き全体の技術面の支援を頼む」

「はいっ」


 ――トントントン。

「どうぞ」

「兄上、いらっしゃいましたか」

「うん、いかがした?」

 入ってきたのは末弟の彦次郎である。

「実は……」

 彦次郎は隣に少年を連れていた。

「誰だその横の……ああ! これは少将様!」

 次郎は立ち上がってすぐさま平伏した。

「よいよい、次郎よ。そなた、この異国の地で似つかわしくない振る舞いをするでない。それはそなたがよく知っておるであろう」

 従四位下左近衛権少将じゅしいげさこんえのごんのしょうしょう、清水徳川家当主の徳川昭武であった。

「は、恐れ入りまする」

 昭武は将軍後見職の慶喜の弟であったが、その聡明そうめいさを慶喜に見出され、留学を目的として万博に同行していたのだ。

「されど、その……少将様(昭武)が、なにゆえそれがしの部屋に。何か、それがしに申しつける儀がございましたでしょうか」

「いや、なに、面白そうじゃと思っただけじゃ」


 ?


 この少年は一体何を言っているんだ?

 面白そう?

 慶喜の肝煎りで留学するはずだが、それにしたって、なんでオレのところに?


「いや、万博での実演、見事であった。列強の要人の驚く姿を見られて痛快である。わが日本が、いや、大村家中の技ではあるが、この先の日本を見るようでわくわくしたのだ。これより、そなたと行いを共にしたい」

「……ありがたきお言葉にございます。されどそれと、それがしと行いを共にする儀と、いかなる関わりがあるのでしょうか」

 面倒くせえ……。

 これが次郎の本音であった。

 優秀で素直。

 少年らしく純粋で天真らんまんな昭武は、次郎の好きな部類の人間であったが、振り回されるのは御免である。

「なんじゃ? 嫌なのか?」

「いえ、さようなことは……」

 断われるはずがない。

「公儀の代表が各国をまわっておるが、それはそなた、そなたが昔行った条約の締結に向けてであろう? 多少は異なれども、中身は同じゆえ、誰にでもできようことじゃ。ロシアにしても国境やアラスカの件は片付いておる。それよりも、万博の期間中、そなたと一緒にいたほうが、よき経験となろう」

 確かに、各国との国交樹立や条約の締結は、過去に結ばれた通商条約をもとに、その国の内情にあわせて微調整すればいい。

 たたき台があるのだから、簡単ではないが、難しいことではない。

「それに次郎よ、そなた、イギリスとの交渉の全権を担っておるであろう? よほど面白そうじゃ」


 !

 若き才能に舌を巻いた次郎であった。


 次回予告 第411話 (仮)『各国からの使者とイギリスと昭武』

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