第868話 『5年の計』

 慶長四年三月二十六日(西暦1599年4月21日) 集落の東側

 ヌルハチは馬上から集落の内部へと突入する兵たちを見渡した。予想以上に激しい抵抗に、眉を少しひそめている。

「ブヤンめ……まだこれほどの抵抗力を持っていたか」

 エイドゥが近づいてきた。

「中央の高台からチャハル兵の一団が向かってきます。おそらくハーン自身が率いているのでしょう」

「そうか……会いに来るか」

 ヌルハチの表情が引き締まる。

 激しい戦闘の中、ついにヌルハチとブヤン・セチェン・ハーンの部隊が対峙たいじした。老齢ながらもなお勇猛なハーンは馬上から声を響かせる。

「女真の盗人め。わがチャハルの領土を侵すとは」

「やかましい! 先に攻めてきたのはお前らであろう! 降伏せよ、ブヤン・セチェン・ハーン。無駄な血は流したくない」

 ヌルハチは冷静に応じた。

「チャハルの血は決して安くはない。その代償を払わせてやろう!」

 老ハーンは自ら先頭に立ち、最後の猛攻を女真軍に仕掛けていく。集落の東側は両軍の激しい戦いの場と化し、昼過ぎには集落一帯が血と炎に包まれていった。


「どうか行ってください、王子様!」

 夕刻、集落の西側ではリンダンの側近が必死に訴えていた。

 西側はまだ女真軍に占領されておらず、脱出の道が残されていたからである。しかし、リンダンは頑なに拒絶していた。

「祖父上はまだ戦ってらっしゃる。私が逃げるわけにはいかん」

 言葉が途切れた瞬間、響き渡る悲鳴が聞こえた。東の広場から、ブヤンの死を告げる叫び声が風に乗って届いたのだ。

 確認しなくても分かる。

 雄たけびはチャハル語ではない。女真族の言葉である。

 リンダンの表情が一瞬にして変わった。悲しみと憤怒が入り混じり、そして冷徹な決意へと変わっていく。

「西へ退く。全軍に伝えよ。アスト部との境まで撤退し、再編する」

 その声は低く、しかし揺るぎない意志に満ちていた。かくして、チャハル部の残存兵と共に、リンダンは西側から集落を脱出したのである。


 ■翌朝

 ヌルハチは広場の中央に立ち、昨日の戦いの爪痕を見渡していた。多くの死者と廃墟はいきょと化した住居が彼らの勝利の代償を物語っている。

「思った以上の犠牲だな」

 ヌルハチがつぶやくと、エイドゥが近づいてきた。

「ブヤン・セチェン・ハーンは戦死しましたが、孫のリンダンは西へ逃れたようです。ヤツはすでに、生き残りの部族を率いて反撃の準備を始めているとの情報があります」

「リンダン……」

 ヌルハチは思案げに言葉を繰り返した。

「勇猛なだけの将ではないようだな。ヤツが次の指導者となれば、チャハル部はさらに強くなるだろう」

「追撃しますか?」

 ヌルハチは沈黙の後、首を横に振った。

「いや、今はリンダンを追わん。我々の時間には限りがあるのだ。休戦期間の5年を最大限に活用せねばならぬ」

 彼は地図を広げ、次の標的を指し示した。

「次はハルハ部だ。リンダンが西のアスト部へ逃れたのであれば、糾合してハルハ部と合流する前にたたく。彼らを個別に処理していく作戦に変更はない」

「しかし、リンダンは……」

「今ヤツを追えば、我々の兵力は分散し、時間を浪費する。リンダンはいずれ相手にせねばならぬが、今はより容易な獲物に集中せよ」

 ヌルハチの指示は明確だった。

 彼はリンダンを侮っていたわけではない。むしろ強敵として認め、今は避ける選択をしたのだ。

「二週間の休息後、ハルハ部へ侵攻する。準備せよ」


 ■さかのぼって慶長四年三月五日(西暦1599年3月30日) 大村中継所予定地

 朝もやの中、諫早から北へ向かう街道沿いには新たな光景が広がっていた。

 等間隔に立てられた木柱が、まるで巨人が刺した針のように一直線に並んでいる。その周囲では数十名の職人たちが忙しく動き回り、最後の柱を据え付ける作業に汗を流していた。

「本日でこの区間の柱の設置が終わりまする」

 杉村が誇らしげに源五郎に報告した。

「滞りなく進んでおるな」

 源五郎は満足げにうなずく。

「線の敷設はいつ頃終わる見込みであろうか?」

「あと三日もあれば、ここから宝庫野村までの線がつながり申す。この調子なら、二ヶ月とたたずに来月中には佐世保まで線が達するかと存じます」

 忠右衛門が現場を歩きながら、各柱の設置状況を点検していた。

「柱と柱の隔て(間隔)はただし(適切)か? 線にかかる張力は算用(計算)通りか?」

「はい、全て指図(設計・指示)どおりにございます」

 佐平は自信を持って答えた。

「これまでの試験では、この仕方(方式)が最も安んじて(安定して)いると確かめております」

「よし、ではつつがなく終わるよう、励め」

「ははっ」


 ■慶長四年三月六日(西暦1599年3月31日) 諫早城 開発局

 視察を終えた忠右衛門と源五郎は、諫早城の開発局で次の課題に向き合っていた。昼食後の静かな室内で、二人は電信機の試作品を囲んでいる。

「やはり駄目か」

 忠右衛門はため息をつき、板の上に並べられた装置を見つめた。

「源五郎、信号を送れても、強度が足りぬ。やはり無人での中継は無理であろうかの」

 源五郎は首を振りながら、銅線で巻かれた鉄心を取り上げた。

「父上、やはり導線の抵抗による熱の失が主因ですね。信号は線を伝わるごとに弱くなります。二十七町(約3km)を越えると、もはや判読できないほどに……」

 忠右衛門は静かにうなずいた。

「今の中継所同士の距離が限り(限界)であるな。それ以上だと信号が弱くなって読めぬどころか受信機が動かぬ。これが我らの直面する最も大き壁だな」

「然様。我らには『弱くなった信号を元の強さに戻す装置』が要るのです」

 源五郎は紙に簡単な図を描き始めた。それは電磁石と、その横に配置されたレバーのようなものだった。

「考えてみてください。我らは電磁石で紙に凹凸を付けあたうるのです。然らば、同じ原理を使って……」

 彼は2つの回路を描き入れた。

「弱い電流が流れると、この電磁石が動き、別の強い電流が流れる回路の切替え器を入れる。つまり、弱った信号を受け取り、それを増して先に送る装置です」

 忠右衛門の目が輝く。

「『継ぎ手』のごとく信号を受け渡すわけか。いや、『つなぎ』か……」

「『継電器』とでも名付けましょう。されど、その実現にはまだ障り(問題)があります」

「いかなる障りだ?」

 源五郎は鉄心と巻線を指し示した。

「まず、電磁石の感度にございます。今の有り様(現状)では、遠方から届く微弱な信号では電磁石を動かすのに十分な力が得られません。コイルの巻き方や鉄心の材質をさらに改良せねばなりません」

 次に、小さな真ちゅうの板を手に取った。

「そして接点の問題です。電磁石の動きを確実に次の回路の入りと切りに変え能う(られる)、安んじた(安定した)切り替えの仕組みが必要です。ただ今の素材では耐久性に欠け、信号も安んじておりません」

「ふむ、かたし題目(課題)であるな」

 忠右衛門は腕を組んで考え込んだ。

「継電器……」

 忠右衛門は、源五郎が描いた簡単な図を見つめながら、その言葉を繰り返した。それは、彼の技術者としての好奇心を強く刺激する。

「電磁石が動いて、別の回路をつなぐ。なるほど、理屈は分かる。されど、その『別』の回路を、いかにして『強い電流』に変えるのだ?」

 源五郎は、少し困った顔をした。

「そこが、また難題なのです。今の我らの電池は、改良型(ダニエル)電池が用に立つ(実用化の)域にありますが、単体では微々たる力しかありません。それを多数つなぎ合わせれば大きな力を得られますが、中継所ごとにそれほどの数の電池を置くのはうつつなし(現実的ではない)と存じます」

 電信線は、距離が長くなるにつれて抵抗が増え、信号が弱まる。

 その弱い信号をキャッチし、電磁石を動かす。その電磁石が、次の区間へ信号を送るための、より強い電流が流れる回路のスイッチを入れる。

 これが継電器の基本的な仕組みだが、その『より強い電流』をどう供給するかが課題だった。

「やはり、発電機が要るか……」

 忠右衛門はつぶやいた。発電機は改良が進んでいるとはいえ、まだ大型で、常に動かし続けるには燃料も必要だ。

「はい。小型で、続けて安んじた(安定した)電力を供する発電機が望ましいですが、ただ今の技術では……」

 源五郎は言葉を濁した。技術は日々進歩しているが、求めるレベルにはまだ遠い。

「ふむ……」

 忠右衛門は再び腕を組んだ。

 電信網の完全な無人化と効率化には、継電器と、それを動かす小型の電力源の開発が不可欠だ。それは、電信技術だけでなく、電力技術全体の進歩にかかっている。

「しかし、希望がないわけではない」

 忠右衛門は顔を上げ、源五郎を見た。

「そなたの発想はすばらしい。この『継電器』は、必ずや道を開く。まずは、電磁石の感度と接点を安んずること。これに力を入れよう。電力をいかに供するかは、また別の部署と携えて考えればよい」

「はい、父上」

 源五郎はうなずいた。父の言葉に、新たな力が湧いてくるのを感じたのである。課題は山積しているが、解決できない問題ではない。

 一歩ずつ、確実に進んでいけばよいのだ。

「佐世保までの敷設工事は滞りなく進んでおるようじゃ。この勢いを保て。加えて、この『継電器』の研究も怠るな」

「はい。必ずや、殿下のご期待に応えらるよう、精進いたします」

 源五郎は深々と頭を下げた。彼の目は、未来を見据えて輝いている。

 電信網が張り巡らされ、遠く離れた土地と瞬時に情報のやりとりができる日が来る。そのとき、肥前国は、いや、大日本国は、どれほど強大になるだろうか。

 忠右衛門は、そんな息子の姿を満足げに見つめていた。

 技術の進歩は遅々として進まないように見えても、ある日突然、飛躍的な進歩を遂げるときがある。それは、地道な研究と、新しい発想の融合から生まれるのだ。

「さてと……」

 忠右衛門は立ち上がり、窓の外に目をやった。春の陽光が、開発局の庭を明るく照らしている。


 次回予告 第869話 (仮)『守りなき竜』

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