慶長四年正月二十五日(西暦1599年2月20日) 肥前国諫早城
「あー、良い天気……」
純正は両手を頭の上で組んで伸ばし、さらに左右に倒してストレッチした。
ふうっと一息ついて縁側に座り、春の訪れを告げるかすかな梅の香りを感じながら、東アジアの情勢図を見つめる。
明は南遷して開封に都を構え、寧夏との和平、女真との5年間の休戦を結んだ。女真の休戦の目的は平和ではなく、実際は次なる戦いへの準備期間なのだ。
「殿下、科学技術省より報告がございます」
声に振り返ると、太田和忠右衛門政藤が立っていた。その手には報告書を携えている。
「おお、叔父上。何か進展でもございましたか?」
「は。半藤と杉浦による発電機の改良が功を奏し、火花の発生が大幅に抑えられましてございます」
笑顔になる純正であったが、発電機の開発は、電信や照明など、さまざまな技術の基礎となる重要な研究だった。
去年、初期改良の結果報告を受けていたが、さらに改良が進んだようである。
「それは良い話ですね。ところで、あの二人の関係はどうなりましたか? 半藤と村瀬はガス灯と炭素灯の論争でやり合っておったではありませんか」
「半藤(電灯・電気)も村瀬(ガス灯)も互いに|切磋琢磨《せっさたくま》し、良い関係を築いているようです。むしろ、それぞれの利点を生かした使い分けを提案しております」
「ふむ。まさに、それが理想ですね」
純正は立ち上がり、庭に目をやった。
梅の木々が、もうすぐ開花を迎えようとしている。技術の発展もこの梅のつぼみのように、少しずつではあるが、確実に芽吹いていたのだ。
「では、源五郎の電信の方は?」
「は。二本の電線での通信方式の実験を重ねております。短点と長点の組合せで、あらゆる文字を表現できる見通しが立ってまいりました」
純正は笑顔でうなずいた。
ん? 2本?
電線って1本じゃなかったっけ?
2本?
いや、電化製品にも……。
うーん、何かが足りない。
何だっけな……?
実演で見た57本もの電線を使う現行方式では、維持管理が煩雑すぎる。2本での通信が可能になれば、広大な領土の統治にも大きく貢献するはずだ。
「電磁石を使って信号を紙に記す仕組みも、つぶさなる(具体的な)実験が進んでおります」
忠右衛門の言葉に、純正はさらに目を輝かせた。
「ほう! それは素晴らしい! いかなる具合にございますか?」
電磁石の動きを記録につなげるアイデアは、以前から研究されていた。それが机上の空論ではなく、発電機と同様に現実味を帯びてきたのだ。
「は。電磁石の動きを用いて、硬めの紙に印をつける仕組みでございます。まだ安んじて記し|能《あた》う(安定して記録できる)よう、細やかなる整え(調整)をしておりますが、印をつけるのみは、能いましてございます」
忠右衛門はうれしそうに報告する。
長年心血を注いできた研究が、いよいよ形になろうとしているのだ。
「うべな(なるほど)。それが能えば誤りも減るであろうし、後で確かめ易しとなる。大いなる歩み(進歩)にございますね」
「ははっ! ありがとうございます、殿下。|実《げ》に使えれば(実用化できれば)、より確かなる知らせを送り能う(可能になる)でしょう」
「期待しておりますよ、叔父上」
純正は立ち上がり、忠右衛門の肩を軽くたたいた。
「ところで叔父上、いま一つ気になっている儀があるのですが」
「何でございましょう?」
「動力源にございます。発電機は改良が進んだとはいえ、まだ大き(大規模な)動力源が要りましょう? 蒸気機関のさらなる発展はいかがですか? 無駄を省きつつ小さき仕組みにするには、いまだ障り(問題)ありと聞き及んでおります」
純正の言葉に、忠右衛門はうなずいた。汽帆船は各地を航行し、スクリュープロペラ式の駆逐艦まで完成しているのだ。
蒸気機関はすでに実用的な動力として欠かせない存在になっている。
「は。殿下のご推察のとおりにございます。現状の蒸気機関は、いかんせん燃料の消費が多く、また大型化せねば十分な力を得られぬのが難点です」
忠右衛門は腕を組み、考え込む。
「円筒(シリンダー)内で蒸気を効率よく利用し、より少ない燃料で大きな力を得るための研究を重ねております。特に、蒸気を無駄なく使うための改良や、熱効率を高めるための新しい構造など……」
「なるほど。例えば、使った蒸気を冷やして水に戻す機構や、複数の円筒(シリンダー)で段階的に力を取り出す構造は、まだ難しいと?」
純正は、以前頭の中で描いた効率的な蒸気機関の構造を思い出し、言葉を選びながら尋ねた。
技術者でない純正が詳しく知っているのは、幕末の蒸気機関躍進期の歴史がたまたま好きだったからに過ぎない。
外国の事情を知らない日本は、型落ちの古い蒸気船を割高で買わされた過去があるのだ。
そのため、外輪船の時代からスクリューを経て鋼鉄艦(東)に至るまで、船舶用蒸気機関の歴史には詳しい。
特に復水器に関しては、陸上は水の補給が容易であるのに対し、船舶は効率を高めるために、蒸気を冷やす復水器の開発が必須であったのだ。
また、海水から真水をつくる装置ができあがれば、水の補給に困ることもない。
「蒸気を冷やして水に戻す……? 複数の筒で段階的に……? 申し訳ございません、それはいかなる機構にございますか?」
忠右衛門は目を丸くして尋ねる。彼の知る蒸気機関の構造とは異なる発想だったのだ。
「いや、何でもありません。ただの思いつきです。されど、蒸気を再利用したり、効率的に熱を回収したりできれば、飛躍的に性能は向上すると思ったゆえ」
忠右衛門は興奮した様子で、まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせた。
純正の言葉は、彼の頭の中でバラバラだった知識の断片を結びつけ、新たな回路を開いたようである。
「殿下、これは……真に型破りな考えやもしれませぬ! 蒸気を無駄なく使い、より多くの動力を得る……まさに、我々が求めていたものです!」
「はははっ! それはよかった。されど、あくまで考え方を示しただけで、実現には叔父上たちの力が要ります。つぶさなる(詳細な)仕組みやは皆で議論し、実験を重ねていかねばなりませんね」
「ははっ! 無論でございます! すぐにでも研究に着手いたします! ありがとうございます、殿下!」
忠右衛門は深々と頭を下げ、足早に立ち去ろうとする。一刻も早く研究室に戻り、新たな発想を検証したいのだろう。
「ああ、叔父上」
純正が呼び止めると、忠右衛門は振り返った。
「無理は禁物ですよ。休息も忘れずに」
「ははっ! ご心配なく!」
忠右衛門は満面の笑みで答え、今度こそ研究室へと急いだ。
父親は還暦をとうに過ぎても壮健で、その弟の利三郎は72歳、忠右衛門も70歳である。
史実よりはるかに医学が発展してはいるが、油断はできないのだ。
電信網が張り巡らされ、瞬時に情報が伝われば、広大な領土の統治は格段に容易になるだろう。
さらに、効率的な蒸気機関が開発されれば、産業は飛躍的に発展し、軍事力も増強される。
それは、やがて来るであろう世界規模の動乱に備えるための、強力な武器となるはずだ。
次回予告 第865話 (仮)『電信の実験とフレデリック・ヘンドリック』

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