第862話 『登州会談、決着』

 慶長四年正月二日(西暦1599年1月28日) 登州城外・会談場

「申し上げます! 急報でございます!」

 明軍の伝令の声が高らかに響いた。

「何事だ! いや待て! ホホリどの、しばし失礼を」

 ただならない様子に声を上げた李化龍は、李如松に目配せをして別室に移動した。

 ホホリはそれを見て、無表情で出された茶を飲んでいる。




「女真軍がモンゴル連合軍を大敗させました!」

 李化龍と李如松は顔を見合わせた。

 女真が和議を申し出てきた真意がここにあったのである。モンゴルに勝利した今、女真は兵を集中できる。つまり、この和議は勝者の提案なのだ。

「副都督、どう思われる?」

 総兵都督の李化龍は、同じく副総兵都督(副都督)の李如松にたずねた。

「わが軍は四万強。民兵を入れても五万を超すほどじゃ。衛所は名ばかりで、正規軍が四万としても、その実先祖代々の軍戸は半数にも満たぬ。五軍都督府は名ばかりで、徴兵して訓練を施した兵がほとんどじゃ」

「つまり?」

「今は勢いに乗っておるから良いが、女真の大軍が攻め寄せてきたならば、瓦解しないとも限らん。特に、民兵はそうじゃ。鍛えられた兵ならば、多少の兵力差は物ともせん。しかし、一度でも負ければ、後は雪崩を打ったように収まりがつかなくなる」

 戦いにおいて、数は十分条件ではあるが、必要条件ではない。

 古来、寡兵で大軍を破った例はいくつもあり、その逆もある。

 どれだけ数で勝っていても、将が無能であったり兵たんが確保できていなかったりすれば、負けるのだ。

 今回のケースで言えば、現状の明軍は兵力において優位にあり、勝ち戦続きで士気も上がっている。

 十分条件である兵力や士気において勝っているのだ。

 しかし、女真が全軍を率いてくるとなると、前提が完全に崩れてしまう。

 十分条件である数の優位がなくなり、勢いがなくなれば、当然士気も落ちる。勝ちを確信した兵士や、得るものを得た兵士が弱くなるのはそのせいだ。

 明軍の優位はなくなり、継戦は厳しくなるのだ。

「では、和議もやむなし、と?」

「致し方あるまい。こちらも余裕があるわけではないのですぞ」

 明としては登州全域を奪還できれば最良ではあるが、そのためには、これまで粘ってきた女真軍に総攻撃を仕掛けなければならない。

 相応の損害を出す覚悟が必要だ。

「いや、……待て。ならばなぜ、和議を申し出てくるのだ? モンゴルに勝ち、優位に立っているならば、和議など結ばず攻め寄せてくれば良いのだ。それを……」

 李化龍は李如松の意見に納得しつつも、疑問を拭えない。

「なるほど」

 李如松は思案げにうなずいて続ける。

「確かにおかしい。モンゴルに勝利したなら、なぜ和を結ぼうとする? むしろ、全軍を率いて攻め寄せれば勝機は高いはずだ」

「その通り。さらに言えば、なぜ蓬莱ほうらい沙門島しゃもんとうにこだわる? ただの補給拠点としては大き過ぎる。何かたくらんでいるに違いない」

 李化龍の言葉に、李如松も眉をひそめた。

 交易の拠点であれば蓬莱だけで十分だ。

 無人の島になぜこだわるのか、とホホリは言ったが、李化龍は大きなお世話だ、と言いたいのだろう。

「もしや、……」

「何ですか?」

「再戦の拠点とするつもりなのでは?」

 李化龍の言葉に、李如松も大きくうなずく。

「実は、わしも同じ考えなのです。登州と沙門島を領すれば、拠点化して備蓄もできよう。いつでも戦を始められるのだ。交易なんぞ、表向きの話でしょう」

「では、返事はどうしましょうか」

「……いずれにしても、陛下の御裁可がいるのは変わらぬ。そして、沙門島は譲れぬと伝えよう。逆に我らの拠点として備え、遼東からの補給を断ち、蓬莱を孤立させれば良い」

 なるほど、と李化龍はうなずいた。

 期限を切って和議とするのか、それとも切らないのか。

 明としては、完全に奪還はできなかったとしても、民が納得するだけの成果は上げたのである。今後は警戒しつつも、国内の統治に力を注げるのだ。

 寧夏と女真、ひとまずの脅威は去る。

「では、そう伝えましょう」

 二人は会談の場に戻った。




 ホホリは相変わらず余裕の表情を崩さない。

「お待たせした。我らの回答だが……」

「はい」

 瞑想めいそうでもしていたのだろうか。

 ホホリはつむっていた目をゆっくり開けて返事をした。

「沙門島の件は譲れませぬ。蓬莱のみならば、我ら二人で陛下に奏上し、説得かなうであろう」

 李化龍の言葉にホホリはかすかに眉を動かしたが、すぐに平静を取り戻した。

「……なるほど、良いでしょう」

「 「!」 」

 二人は驚いた。

 二つ返事で了承されたのだから、当然である。

 罠か?

 いや、何のために?

 女真が出してきた要求を明は突っぱね、妥協案ではあるが、蓬莱(登州城周辺の町)のみで了承させたのだ。

「その代わりと言っては何ですが、貴国の王に速やかに言質をもらいたい。また、まずは五年間の休戦の条約を結びたいと思いますが、良いですか?」

 やはり!

 その言葉に、李化龍と李如松は顔を見合わせた。

 女真は講和とは名ばかりで、力を蓄えて再び攻めてくるつもりなのだ。

「五年間? なぜ五年間なのですか?」

 李化龍の返事に、今度はホホリが驚いた顔をする。

「なぜ? なぜも何も、五年間の休戦の何が悪いのですか? 李都督、李副都督、この戦いの根は深い。いきなり完全な和平を結んだとしても、もろ手を挙げて互いに信頼できますか?」

 確かにホホリの言うとおり、明とヌルハチ(女真)の間には、単なる領土紛争を超えた根本的な対立があった。

 ヌルハチにとっては父祖のあだ討ちが個人的動機であり、女真族の発展が民族的動機である。

 対して明にとっては、北方異民族の台頭を抑え込む、中華帝国としての使命があったのだ。

 もっとも、これは肥前国によって打ち砕かれたのであるが、明国の国家指導者の間には、まだまだ根強い思想が残っている。

 これらの根本的対立は、一時的な停戦では解決できない。

 長い歴史の中でのお互いの不信感は、一枚の紙に書かれた条文で覆りはしないのだ。

 ゆっくりとお互いを認め合い、信頼を強めていく必要がある。

 その意味で、ホホリの発言はあながち間違ってはいない。

 戦略的な思惑としては、ヌルハチは時間稼ぎが目的で、明はコストと損失の最小化である。

 李化龍と李如松は、万暦帝に事実上『勝利』の形で報告が必要であり、ヌルハチは各部族や部下に対して、明への屈服とは見られたくないのだ。




「では、あくまで時間稼ぎではなく、真の和睦、両国の友好のための休戦であると?」

「ははははは、時間稼ぎとは手厳しい」

 李化龍の言葉に笑ってはいるが、ホホリの目は鋭い。

 しかし、すぐに笑顔に戻った。

「ええ、そのとおりです。まずは期限を決めて、戦いを止めなければなりません。その間にお互いの友好を深め、永遠の信頼の証とするのです。五年の平和が守れずして、何が和睦と言えるでしょうか」

 ……確かに。

 ホホリの理屈には一理ある。

 李化龍は李如松と顔を見合わせ、確認しながら言葉を発した。

 別室で決めた条件である。

「いいでしょう。その代わりこちらも条件を提示したい」

「何でしょうか」

「この休戦条約に、肥前国を立会人として加えたい」

「何ですと?」

 ホホリは一瞬言葉を失った。

 立ち会いに第三国を加えることではなく、肥前国の名が出たからである。まさか、自国が敗北した屈辱の相手の力を明が借りるとは。

「なぜ肥前国を?」

「理由は明白でしょう。この戦いで、肥前国は貴国と不干渉の約束を交わしている。また、わが国とも寧夏との和平を仲介してくれた。今や、東アジアにおいて最も信頼できる第三者と言えるでしょう」

 李如松も相づちを打ってうなずいた。

 ホホリには二人の真意が分からない。

 最も信頼できる第三者だと?

 仮に事実がそうであっても、貴様らの口からそれを言うか?

 名より実をとったと、ホホリはそう捉えるしかない。

「また、もし貴国が本当に平和を望むのなら、肥前国の立会いを拒む理由はないはずです」

 ホホリは眉間にしわを寄せた。

 確かに、肥前国との約束を破れば、女真は純正の怒りを買い、戦争になるかもしれない。

 もはや肥前国は、大義名分の有無にかかわらず、強者の論理でそれを作りうる存在なのであった。

「……良いでしょう。この交渉、貴国との休戦において、私はハーンより全権を委任されています。その条件で、休戦といたしましょう」




 ・休戦期間は五年間。

 ・肥前国の高官を立会人とする。

 ・登州において、沙門島は明領とし、蓬莱は満州国領とする。

 ・両軍とも、本日以降一切の軍事行動を禁ずる。条約締結後、速やかに両軍は撤退する。

 ・細部においては、上記の四項目に反しない範囲において両者で協議する。




 ホホリのあまりにも早い回答に二人は驚いたが、それでもこれで当事者同士が合意したのだ。

 会談終了後、李化龍と李如松は開封府へ行き、同時に肥前国への使者も出発したのである。




 次回予告 第863話 (仮)『開封府にて。諫早にて』

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