慶長四年正月二日(西暦1599年1月28日) 登州城外・会談場
「申し上げます! 急報でございます!」
明軍の伝令の声が高らかに響いた。
「何事だ! いや待て! ホホリどの、しばし失礼を」
ただならない様子に声を上げた李化龍は、李如松に目配せをして別室に移動した。
ホホリはそれを見て、無表情で出された茶を飲んでいる。
「女真軍がモンゴル連合軍を大敗させました!」
李化龍と李如松は顔を見合わせた。
女真が和議を申し出てきた真意がここにあったのである。モンゴルに勝利した今、女真は兵を集中できる。つまり、この和議は勝者の提案なのだ。
「副都督、どう思われる?」
総兵都督の李化龍は、同じく副総兵都督(副都督)の李如松にたずねた。
「わが軍は四万強。民兵を入れても五万を超すほどじゃ。衛所は名ばかりで、正規軍が四万としても、その実先祖代々の軍戸は半数にも満たぬ。五軍都督府は名ばかりで、徴兵して訓練を施した兵がほとんどじゃ」
「つまり?」
「今は勢いに乗っておるから良いが、女真の大軍が攻め寄せてきたならば、瓦解しないとも限らん。特に、民兵はそうじゃ。鍛えられた兵ならば、多少の兵力差は物ともせん。しかし、一度でも負ければ、後は雪崩を打ったように収まりがつかなくなる」
戦いにおいて、数は十分条件ではあるが、必要条件ではない。
古来、寡兵で大軍を破った例はいくつもあり、その逆もある。
どれだけ数で勝っていても、将が無能であったり兵たんが確保できていなかったりすれば、負けるのだ。
今回のケースで言えば、現状の明軍は兵力において優位にあり、勝ち戦続きで士気も上がっている。
十分条件である兵力や士気において勝っているのだ。
しかし、女真が全軍を率いてくるとなると、前提が完全に崩れてしまう。
十分条件である数の優位がなくなり、勢いがなくなれば、当然士気も落ちる。勝ちを確信した兵士や、得るものを得た兵士が弱くなるのはそのせいだ。
明軍の優位はなくなり、継戦は厳しくなるのだ。
「では、和議もやむなし、と?」
「致し方あるまい。こちらも余裕があるわけではないのですぞ」
明としては登州全域を奪還できれば最良ではあるが、そのためには、これまで粘ってきた女真軍に総攻撃を仕掛けなければならない。
相応の損害を出す覚悟が必要だ。
「いや、……待て。ならばなぜ、和議を申し出てくるのだ? モンゴルに勝ち、優位に立っているならば、和議など結ばず攻め寄せてくれば良いのだ。それを……」
李化龍は李如松の意見に納得しつつも、疑問を拭えない。
「なるほど」
李如松は思案げにうなずいて続ける。
「確かにおかしい。モンゴルに勝利したなら、なぜ和を結ぼうとする? むしろ、全軍を率いて攻め寄せれば勝機は高いはずだ」
「その通り。さらに言えば、なぜ蓬莱と沙門島にこだわる? ただの補給拠点としては大き過ぎる。何かたくらんでいるに違いない」
李化龍の言葉に、李如松も眉をひそめた。
交易の拠点であれば蓬莱だけで十分だ。
無人の島になぜこだわるのか、とホホリは言ったが、李化龍は大きなお世話だ、と言いたいのだろう。
「もしや、……」
「何ですか?」
「再戦の拠点とするつもりなのでは?」
李化龍の言葉に、李如松も大きくうなずく。
「実は、わしも同じ考えなのです。登州と沙門島を領すれば、拠点化して備蓄もできよう。いつでも戦を始められるのだ。交易なんぞ、表向きの話でしょう」
「では、返事はどうしましょうか」
「……いずれにしても、陛下の御裁可がいるのは変わらぬ。そして、沙門島は譲れぬと伝えよう。逆に我らの拠点として備え、遼東からの補給を断ち、蓬莱を孤立させれば良い」
なるほど、と李化龍はうなずいた。
期限を切って和議とするのか、それとも切らないのか。
明としては、完全に奪還はできなかったとしても、民が納得するだけの成果は上げたのである。今後は警戒しつつも、国内の統治に力を注げるのだ。
寧夏と女真、ひとまずの脅威は去る。
「では、そう伝えましょう」
二人は会談の場に戻った。
ホホリは相変わらず余裕の表情を崩さない。
「お待たせした。我らの回答だが……」
「はい」
瞑想でもしていたのだろうか。
ホホリはつむっていた目をゆっくり開けて返事をした。
「沙門島の件は譲れませぬ。蓬莱のみならば、我ら二人で陛下に奏上し、説得かなうであろう」
李化龍の言葉にホホリはかすかに眉を動かしたが、すぐに平静を取り戻した。
「……なるほど、良いでしょう」
「 「!」 」
二人は驚いた。
二つ返事で了承されたのだから、当然である。
罠か?
いや、何のために?
女真が出してきた要求を明は突っぱね、妥協案ではあるが、蓬莱(登州城周辺の町)のみで了承させたのだ。
「その代わりと言っては何ですが、貴国の王に速やかに言質をもらいたい。また、まずは五年間の休戦の条約を結びたいと思いますが、良いですか?」
やはり!
その言葉に、李化龍と李如松は顔を見合わせた。
女真は講和とは名ばかりで、力を蓄えて再び攻めてくるつもりなのだ。
「五年間? なぜ五年間なのですか?」
李化龍の返事に、今度はホホリが驚いた顔をする。
「なぜ? なぜも何も、五年間の休戦の何が悪いのですか? 李都督、李副都督、この戦いの根は深い。いきなり完全な和平を結んだとしても、もろ手を挙げて互いに信頼できますか?」
確かにホホリの言うとおり、明とヌルハチ(女真)の間には、単なる領土紛争を超えた根本的な対立があった。
ヌルハチにとっては父祖の仇討ちが個人的動機であり、女真族の発展が民族的動機である。
対して明にとっては、北方異民族の台頭を抑え込む、中華帝国としての使命があったのだ。
もっとも、これは肥前国によって打ち砕かれたのであるが、明国の国家指導者の間には、まだまだ根強い思想が残っている。
これらの根本的対立は、一時的な停戦では解決できない。
長い歴史の中でのお互いの不信感は、一枚の紙に書かれた条文で覆りはしないのだ。
ゆっくりとお互いを認め合い、信頼を強めていく必要がある。
その意味で、ホホリの発言はあながち間違ってはいない。
戦略的な思惑としては、ヌルハチは時間稼ぎが目的で、明はコストと損失の最小化である。
李化龍と李如松は、万暦帝に事実上『勝利』の形で報告が必要であり、ヌルハチは各部族や部下に対して、明への屈服とは見られたくないのだ。
「では、あくまで時間稼ぎではなく、真の和睦、両国の友好のための休戦であると?」
「ははははは、時間稼ぎとは手厳しい」
李化龍の言葉に笑ってはいるが、ホホリの目は鋭い。
しかし、すぐに笑顔に戻った。
「ええ、そのとおりです。まずは期限を決めて、戦いを止めなければなりません。その間にお互いの友好を深め、永遠の信頼の証とするのです。五年の平和が守れずして、何が和睦と言えるでしょうか」
……確かに。
ホホリの理屈には一理ある。
李化龍は李如松と顔を見合わせ、確認しながら言葉を発した。
別室で決めた条件である。
「いいでしょう。その代わりこちらも条件を提示したい」
「何でしょうか」
「この休戦条約に、肥前国を立会人として加えたい」
「何ですと?」
ホホリは一瞬言葉を失った。
立ち会いに第三国を加えることではなく、肥前国の名が出たからである。まさか、自国が敗北した屈辱の相手の力を明が借りるとは。
「なぜ肥前国を?」
「理由は明白でしょう。この戦いで、肥前国は貴国と不干渉の約束を交わしている。また、わが国とも寧夏との和平を仲介してくれた。今や、東アジアにおいて最も信頼できる第三者と言えるでしょう」
李如松も相づちを打ってうなずいた。
ホホリには二人の真意が分からない。
最も信頼できる第三者だと?
仮に事実がそうであっても、貴様らの口からそれを言うか?
名より実をとったと、ホホリはそう捉えるしかない。
「また、もし貴国が本当に平和を望むのなら、肥前国の立会いを拒む理由はないはずです」
ホホリは眉間にしわを寄せた。
確かに、肥前国との約束を破れば、女真は純正の怒りを買い、戦争になるかもしれない。
もはや肥前国は、大義名分の有無にかかわらず、強者の論理でそれを作りうる存在なのであった。
「……良いでしょう。この交渉、貴国との休戦において、私はハーンより全権を委任されています。その条件で、休戦といたしましょう」
・休戦期間は五年間。
・肥前国の高官を立会人とする。
・登州において、沙門島は明領とし、蓬莱は満州国領とする。
・両軍とも、本日以降一切の軍事行動を禁ずる。条約締結後、速やかに両軍は撤退する。
・細部においては、上記の四項目に反しない範囲において両者で協議する。
ホホリのあまりにも早い回答に二人は驚いたが、それでもこれで当事者同士が合意したのだ。
会談終了後、李化龍と李如松は開封府へ行き、同時に肥前国への使者も出発したのである。
次回予告 第863話 (仮)『開封府にて。諫早にて』

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