第62話 『和蘭軍艦内部の見学と高島秋帆・高野長英の来訪』(1844/10/30)

 天保十五年九月十九日(1844/10/30) 長崎 <次郎左衛門>

 水戸の徳川斉昭さんが蟄居ちっきょを命じられたのが3月だった。

 実は同じ時期に江戸城で火事が起こっていて、幕府は焼失した城の修繕費用を諸大名から集めようとしたんだけど、失敗した。

 時の老中首座は土井利位としつらで、これで幕府の威光がもう地に落ちているのまるわかり。

 藩も藩で財政が厳しいのに、知ったこっちゃないってとこかな。

 しかしそれよりまずいのが、去年のうるう9月に解任された水野忠邦が、老中、しかも首座で復帰した事だ。

 史実では、往年の面影はなく、裏切り者を失脚させるにとどまった。そのせいで土居は自ら辞任、鳥居は全ての役職を罷免されたんだ。
 
 どうかそれだけで終わってくれ……。

 ちなみにその頃となりの佐賀では、参勤交代からもどった鍋島の直正さんが意欲的に動いていた。

 オランダからモルチール砲を買い入れ、伊王島に配備。
 
 5月からは御火術方と称して、秋帆先生門下の下曽根信淳・英龍さんから習った羽室平之充、志波佐傳太の二人が兼務。

 3ポンド野戦砲1門と20ドイムモルチール砲2門、15ドイムのホーイッスル砲を鋳造。さらに200匁(0.75kg)の野戦砲20門の製造を命じている。

 イケイケだな直正さん。

 んー……でも、青銅砲はもういいかなって感じで。
 
 うちは鋳鉄砲にシフトで。一応殿には、佐賀藩の動向として報告しよう。念のため同レベルの軍備をするようにってね。

 

 ■オランダ海軍フリゲート艦 パレンバン号 艦上

「殿、あれに見えるのはなんでしょうや?」

 直正は傍らにいた、兄で執政の鍋島茂真が指差す方を見た。洋式の帆船が数隻見えたのだ。

「兄上、あれは……和蘭船ではありませぬぞ……。なんと! 大村藩の大村瓜おおむらか(五瓜を描いて、その中に五つの剣を出した5弁の『唐花』を描く)ではありませぬか!」

「なんと!」

 大村藩では捕鯨用に65トン級(約450石)の3本マストの帆船を建造しており、去年の4月に1号艦が完成した後にも、順次建造を進めていたのだ。

 そのうちの3隻を今回のオランダ軍艦の視察に使用している。

「我が藩のカッター船より大きく、しかも三本の帆柱がある……四百、五百石はあるのでは?」

 執政の茂真が言う。

 やがて大村藩の帆船はパレンバン号の近くに錨泊びょうはくし、ボートで近づいてきた。
 
 鍋島直正が軍楽隊によって迎えられて礼式に則って乗艦したのと同じように、純あきは乗艦したのだ。

「Goedemiddag, admiraal.」
 (こんにちは、提督)

「ハジメマシテ、丹後守サマ、ヨウコソ」

 純顕がオランダ船に乗るのは初めてだった。
 
 しかしその前に次郎をはじめとした転生組はもちろん、捕鯨船建造のための技術者をはじめとした多数の藩士が乗艦し、見学、調査をしていたのだ。

「! やあこれは、肥前守様ではございませぬか。その節は水戸の権中納言様をご紹介いただき、誠にありがとうございました」

「う、うむ。丹後守殿もお体はよろしいのか」

 気まずさを見せぬように、直正は冷静を装う。

「はい。おかげ様をもちまして、いっときよりは息災にございます」

「それは重畳。にしても、こたびはいかがしたのじゃ? 長崎奉行の伊沢殿より、丹後守殿の事はなにも聞いていなかったが」

 事実、長崎奉行の伊沢摂津守政義は直正に伝え忘れていたのである。伝える義務はなかった上に、大村藩と佐賀藩では親密度が違ったからだ。

「さようでございましたか。それがしも肥前守様がお越しになるとは存じ上げませんでした」

 本当は長崎奉行から聞いて知っていたのだが、純顕はあえて言わなかった。

「さようか……してこたびは、なにゆえにこの和蘭船に乗り込んできたのじゃ?」

「ははは、なに故にと仰せられても、言葉につまります」

 純顕はニコニコしながら続ける。

「我が藩は佐賀・福岡のごとく定詰にて交代で警備にはあたっておりませんが、一朝事あればせ参じ、事に臨まねばならぬという事は承知しております。そのため和蘭船のなんたるかを知ってしかるべきかと存じ、こたびの仕儀とあいなりましてございます」

 直正はしばらく黙った後に、さらに聞く。

「では聞くが、あの、船はいかがしたのじゃ? まさか和蘭から買ったわけではあるまい。いくらするかわからぬし、長崎警固の任とは言え、御公儀が黙っておらぬであろう」

「仰せの通りにございます。あれは我が領内の船大工が、このような和蘭船を真似て作ったのでございます。さすがに四年ほどかかりましたが、出来は上々にて、満足しております」

 純顕は笑顔を絶やさない。

「殿」

「なんじゃ」

 次郎が純顕に耳打ちをする。

「この軍艦は、長さおよそ三十三間(60m)ほどにて、わが艦の三倍ほどにございます。また戦道具については十八斤(約24lb・10.8kg)砲が三十六門、三十二斤(約42lb・19kg)砲が十六門ございます」

「(なんと! それほどか! 次郎、我が藩でつくる事、能うのか?)」

「(は。時はかかりますが、能うかと。時は、かかります)」

 

 その後、二人の歓迎のセレモニーが艦上で盛大に行われたが、直正は気が気ではない。
 
 史実でも備砲や帆船の操船術など細々と聞いたようだが、さらに詳しく聞いていたようだ。

 もちろん、大村藩は次郎が先頭にたって、パレンバン号の諸元を食い入るように調査した。

 オランダ海軍の面々は、まさか日本人が自力で建造できるとは考えておらず、まったく隠すことはなかった。
 
 しかし、艦長のみが大村藩の帆船をみて不気味さを覚えるのであった。

 

 ■数日後 玖島くしま

「高島秋帆にございます」

「高野長英にございます」

 城内では次郎の紹介のもと、二人が純顕との謁見を許された。秋帆は江戸でのえん罪さわぎにうんざりしていた事もあり、快く引き受けてくれた。

 長英は他家には仕えぬ、という約束を実家としていたため、仕官はしなかったが、個人的に次郎とのつきあいで藩政に携わる事になる。

 

 さらに数日後、大坂へ行っていた遣いが戻り、田中久重(からくり儀右衛門)が仕官する事になるのである。

 次回 第63話 『斉昭の蟄居が解かれ、秀才、大村に集う』

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