天正十六年二月二十五日(1587/4/2)北常陸県 那珂湊 湊御殿
那珂湊は下野国那須郡から常陸国を貫流して太平洋に注ぐ那珂川の河口部に位置し、水戸などの同河川流域と海路を結ぶターミナルとして栄えていた。
とは言っても、規模で考えれば堺よりは遙かに小さい。諫早や九州の湊町とは比べものにならない。そもそも人口が違うのだ。
当時の海運の主流は日本海側で、太平洋側が本格的に栄えるのは江戸時代に入ってからだが、それはあくまで蝦夷地と江戸を結ぶ交易路であって、近隣の海運や上方へ向かう船がない訳ではなかった。
純正はその現状を打破し、日本海側同様に太平洋側の航路も開拓しようと考え、その視察も含めて訪問したのだ。奥州の大名は大日本国に加盟してはいないが、戦争状態でもない。
船の寄港は何の問題もなく、今回の蒸気船での航海は実際にその状況を目で見て確かめるためでもあった。
「関白様、ようこそおいで下さいました。お待ちしておりました。ささ、どうぞこちらへ」
佐竹氏が治める北常陸県那珂湊で船を降り、官僚と家族とともに政庁のある湊御殿へ向かうと、三人が待っていた。
佐竹義重、宇都宮国綱、那須資晴である。
「ん? 如何なされた? 何故三人で出迎えるのだ?」
「無論、我らが領内をご視察せんがために関白殿下が御下向なされた由にて、礼に則って歓待仕
らんがためにございます」
「さ……然様か。大義であった」
「ささやかながら昼餉の用意をしております。奥方様ならびに若君、ご家族もご一緒に如何でございましょうか」
純正は少し嫌な予感がした。
「……那須殿、つかぬ事を伺うが、貴殿は今年と来年、総督として関東地方を治めるのが役目であろう? 何故吉原湊に居なかったのだ?」
純正の言葉に、那須資晴は一瞬たじろいだ。彼の表情に動揺が走る。しかし、すぐに平静を取り戻し、丁重に答えた。
「申し訳ございません、関白様。確かに某の役目は吉原湊にて関東地方の統治を執り行う事にございますが、此度は格別なる事情にてこちらに参っております」
資晴の言葉に、純正は目を細めた。何か裏があるのではないかと疑念が湧く。しかし、そのまま追及するのは得策ではない。けげんに思ったが、まずは話を聞いてみることにした。
「ほう? 格別な事情とは何ぞや?」
純正は穏やかな口調で尋ねた。佐竹義重が一歩前に出て、説明を引き継ぐ。
「実は関東の地を如何に治め、如何に栄えさせるかという事を、我らで協議を重ねておりまして。資晴殿にもご意見を伺うため、お越しいただいたのです」
「佐竹殿、俺は那須殿に聞いておる。横から話に入ってくるのは如何なものか? それとも那須殿が答えにくい事なのか?」
純正は那須資晴に聞いたのだ。なぜ聞いても居ない義重が発言するのだ? 現代でも、状況をみつつ言いたくても言わない人、今は言うべきではないと考え言わない人、様々いる。
しかし、ただ理由を聞いただけなのだ。なぜ聞かれた本人が答えない?
場の空気が一変し、純正の言葉が三人の大名たちを凍りつかせた。
佐竹義重と宇都宮国綱は互いに目配せし、那須資晴は言葉をのみ込んだまま口を閉ざす。彼らの表情には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「関白様、ご指摘誠に恐れ入ります。実のところ、我々三名で密かに相談していた案件がございまして……」
宇都宮国綱が口を開いた。
「然れば、なにゆえ那須殿が答えぬのか、と聞いておる」
同じ事を二度言わせる三人にイラッとした純正は語気を強めた。
純正の厳しい口調に、三人の大名たちは身を縮ませる。宇都宮国綱は言葉を途中で切り、那須資晴に視線を向ける。資晴は額に汗を浮かべ、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「申し訳ございません、関白様。実は……」
資晴の言葉が途切れる。彼は佐竹義重を見て、助けを求めるような目をした。義重は小さく頷き、資晴に代わって話し始めた。
「関白様、実情を申し上げますと、我ら三人で申し合うていた儀につきましては、只今の統治の仕組みに関わる、かすかなる旨(微妙な内容)にございました」
「然! れ! ば! 何故那須殿ではなく、佐竹殿が答えるのだ! と言うておる。一度ならず二度、三度も同じ事を言わすとは、この俺を愚弄しているのか?」
純正の怒りの言葉が、湊御殿の前庭に響き渡った。
三人の大名たちは、まるで雷に打たれたかのように身を震わせる。那須資晴の顔から血の気が引き、佐竹義重は言葉を失い、宇都宮国綱は目を伏せた。
しばらくして那須資晴が小さく咳払いをし、震える声で話し始める。
「関白様、お詫び申し上げます。私の不明から、このような事態を招いてしまいましてございます」
資晴の言葉に、純正は手を挙げて制した。
「託言(言い訳)は聞きとうない。お主等の行いの本意を知りたいだけじゃ」
純正の冷たい声に、三人は身を縮めた。
純正は別にせっかちではない。時におっちょこちょいな面もあるが、それはある種の許容範囲である。しかし同じ事を三度も繰り返されて、さすがに頭にきたのだ。
もはや隠し立ては許されないと悟ったのか、佐竹義重が一歩前に出た。
「関白様、私どもの不手際をお詫び申し上げます。実は、只今の総督府にて統治を執り行う仕組みでは、各々の土地のあり様に即した統治が難しいと感じております」
純正は義重の言葉を遮るが、まだ資晴が答えない理由になっていない。いい加減純正は追及するのが面倒くさくなってきた。三人の問題であるから、資晴一人が答えるべきではない、という事なのか。
それならそうと言えば良い。
「何故だ? 総督は吉原湊にあって関東全域を統べる。輪番であるがゆえ、まったく違う政は世を乱すゆえ、互に報せを送り合い、心を通わすようにすればよい。それに基づいて北常陸県(佐竹領)、下野県那須区(那須領)と宇都宮区(宇都宮領)で民のための政を行えばよい。何の不都合があるのだ?」
地方議会は、総督の領地ならびに各県から一定数選出された議員で成り立っている。これは地方の利益を第一に考える。だから吉原湊・北常陸県・下野県那須区・宇都宮区で同数の地方議会議員がいるのだ。
その下に県議会を設け、県の自治を行う。
三人は互いに顔を見合わせた。
表情には困惑と焦りが混じり、那須資晴が口を開こうとしたが、宇都宮国綱が軽く咳払いをして制する。国綱は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「関白様、ご指摘の通り、現行の制度にも利点がございます。然れど……」
国綱は言葉を切って純正の反応を窺う。
「地方の実情に即した迅速な判断が難しい場面が増えております」
「うむ。例えば?」
「たとえば、昨年の凶作の際、各地で異なる対応が必要でした。然れど総督府や地方議会での決定を待っていては……」
「待たなくても良いではないか。なぜ待つ必要があるのだ? 然様な火急の時こそ、お主らの裁量で即断即決すべきではないか」
……。
……。
……。
重苦しい沈黙が流れる中、ようやく那須資晴が口を開いた。その声は、かすかに震えていた。
「関白様の仰せの通りにございます。然れど我らには……」
資晴の言葉を遮るように、佐竹義重が一歩前に出る。その動きには、これまでの躊躇いが消えていた。
「関白様、実のところ、私らにはその権がないと考えておりました」
はあ? 純正は目を細め、義重をじっと見つめた。いったい何を言っているのだ? それでは子供の遣いではないか。何のための為政者だ。
「権がない? お主らは各々の領地の主ではないのか?」
宇都宮国綱が咳払いをして純正の問いに答える。
「確かに、我らは領主でございます。然れど、総督府の決定に反する行動は出来ませぬ」
「その通りじゃ。それが此度の件と如何に関わっておる?」
純正は手を上げ、国綱の言葉を遮った。その声は静かでありながら、威厳に満ちていた。
「お主らは何を恐れておる? 民のために正しいと思う行いをすれば良いのだ。後日、総督府や地方議会に知らせ、承認を得ればよい」
三人の顔に浮かぶ表情が、困惑から驚きへと変わっていく。那須資晴が、かすかに震える声で尋ねた。
「然れど関白様。もし私らの判が誤ったものであれば……」
「無論、その際は責を負わねばならぬ。然りとて、そのような災いの|砌《みぎり》、宴を催すなどといった愚かな事はしまい? それに切腹や改易などはない。断じてない。然れど責を負う覚悟なくして、なんの為の領主か」
三人は純正の言葉に圧倒され、しばらくの間誰も口を開けなかった。静寂の中、純正の鋭い視線が彼らに向けられたままだった。
佐竹義重が、ついに口を開いた。
「関白様の仰せはもっともでございます。我らが恐れていたのは、判を誤った際の責任の大きさでございました。然れど、それはまさに我らが背負うべき責務であると、今改めて思い知りました」
那須資晴も宇都宮国綱も、同じようにうなずいては納得した表情である。
「よし、ではこれで落着であるな。腹が減った。続きは昼餉の際にでもやるとしよう」
「はは、そう思いまして用意しております」
「うむ。馳走になる」
純正は厳しい話のために家族を少し離れた場所に居させたので呼び戻し、広間へ向かう。
今となってはどうでもよいと純正は思っていたが、北条が服属するという時に、それと前後して佐竹・宇都宮も服属したが、北条への寝返りで本領安堵の密約を結んでいたのだ。
それが発覚したときに二人は顔面蒼白となったが、それ以後、もしかすると萎縮していたのかもしれない。純正は当時の話をしようか迷ったが、結局しなかった。
もはや、まさか謀反など起こすまい。先のことを考えようと思っていた。
次は、蝦夷地(北加伊道)である。
次回 第734話 (仮)『北加伊道地方総督、松前慶広』
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