天正元年(1572) 二月二十一日 肥前松浦郡 浦村 日高城(唐津市浦字浦川内) 小佐々純正
発 治部大丞 宛 権中納言
秘メ 織田軍 二日 越前ニ 討チ入リケリ
杣山城ニハ 六日ニ 掛カリケリ
城兵 善ク争フモ 翌七日 未明 夜襲ニテ 抜カレケリ
兵ハ チリジリニ 落チユキテ 将 背イテハ 勢イ 留マラズ
シカシテ 一乗谷 十二日 ニハ 抜カレケリ 秘メ
「うま! うますぎるぞ!」
様々な海の幸がならんでいるが、唐津といえばイカである。
俺は日高城主、日高資のもてなしを受けながら、舌鼓をうつ。傍らには義理の従兄弟となった波多鎮がいて、世間話をしたり、酒を酌み交わして領内の話をしている。
少し後になって岸岳城で所用を済ませてきた波多志摩守が合流した。志摩守は資と年も同じで、隠居して同じく後進の指導にあたっている。
そして波多鎮の義理の大叔父でもある。鎮は先代である波多盛の娘の嫁ぎ先である、有馬氏からの外孫であり、養嗣子として迎えられて家督を継いだ。
日高氏は岸岳城主である波多氏の重臣であったが、波多氏の後継問題で身の危険を感じて逃亡し、そのまま小佐々家の重臣となっていた。その際に波多志摩守とその息子三人を連れてきたのだ。
外務次官であったが、今は隠居して息子の喜に継がせている。
跡目問題はどうなったかというと、波多家が小佐々の保護国となって併合されたので、俺の許可がなければ勝手には相続できないようになった。
叔父である忠右衛門藤政の娘、糸が鎮に嫁いでからは不穏分子などもいない。家督相続の問題となっていた義母は心を病んだが、今は別邸で領内の政治に一切関わりを持っていない。
「下野守(波多鎮)、どうだ? つつがなく領内はまとまっておるか?」
「は、ありがとう存じます。おかげ様をもちまして特に諍いもなく、領民みな健勝にて健やかに暮らしておりまする」
「はは、そうか、それはなによりだ」
「御屋形様、その……」
「なんだ?」
「いえ、その、下野守は仰々しく存じます。どうか、鎮とお呼びください」
「はははは、そうか、あいわかった。そうするといたそう」
酒は飲んでいるが、酩酊するまでは飲んでいない。
しかし、激務とはいえ、昼間から酒が飲めるのはいいな。そういえば戦前の海軍には名前の通り酒保があって、酒が置いてあった。
なんでなくなったんだ?
発 権中納言 宛 治部大丞
秘メ マヅハ 祝着至極ニテ 祝イノ 言葉ヲ 贈ルベシ シカシテ 越前ノ 治
ツクヅクト(十分に) 心オクヨウ(注意するように) オ伝エ イタスベシ
マタ 武田ノ 領国ニ 金山衆ヲ オクル ユエ
イカヨウナ 石ニ土 打チ出ヅルカ 改ム(調べる) ベシ 秘メ 唐津
俺は領内はもとより、可能な限り金山衆や大学の地質学者(の卵のようなもの)を総動員して、各地の鉱物資源などの探索をさせていた。
もちろん織田家はあまりやり過ぎると拡大してしまうから、浅井に六角、徳川と、そして今後は武田がメインの投資案件となるだろう。
なぜならば、武田が一番不安定な要素だからだ。
上杉は謙信が健在で、北条は氏政にスムーズに代替わりした。年齢という部分ではリードしていても、武田家中が本当にまとまっているか、怪しい。
信玄が存命中はなりを潜めていても、死んだとたんに反勝頼として(狩猟民族)派閥が乱立するかもしれない。
そうなる前に経済的に自立できるように、がっつり投資しなくてはいけないのだ。
「さて、武田にこのような援助をしているわけだが、特に異論はないよな? 事前にいっておったし、なにか懸念する事はあるか?」
いつもの如く付いてきている戦略会議室のメンバーに俺は尋ねる。俺が連れてきた訳ではない。自分の時間が欲しいものだが、そうもいかない。
戦国大名は本当にブラックな職業だ。
しかし、みんなには週休二日や労働時間の上限などを決めている。そうはいっても、やはりやらなければならない事の前には二徹三徹するときもある。
この辺は、現代と変わらないんだよね。
「は、難(問題)なしにございます。武田の力を強める事は、思い比ぶれば(比較すれば・相対的に)織田の力を抑える事になり申す。この方(今後)のわが家中の事を案ずれば、然るべき(当然の)ご沙汰かと存じます」
直茂がニコニコしながら答える。
直茂は織田支援反対派だったもんなあ。
でも、今となっては俺も少し意味が分かってきた。ここは戦国時代。俺が考えている事を、相手も考えているとは言えないのだ。
「して御屋形様、織田をはじめ、他の御家中への根回しはすんでいますので?」
と発言したのは日高資である。
「?」
俺は箸をとめ、くいっとジョッキに残ったビールを飲み干し、全員を見渡した。直茂をはじめ誰もが首を横に振る。
領内の主要な城には氷室を作って、冷えた酒を飲めるようにしてある。自分の為じゃないよ! あくまで福利厚生!
「いけませぬなぁ。喜め、外務省において三番手を気取るのであれば、これくらいの事、まえもって献策いたすべきであろうに。まだまだ荷が重いか。自らの事で手一杯ならば、ただの役人で良いのだ」
資はあぐらを組んでいる右の太ももをパンっと叩いて言った。日高城の宴の間は座敷である。宴会は座敷でもいい。気楽だ。
「お待ちください甲斐守様(資)、こたびの件、ことさら(わざわざ)織田に報せる要なしと考え報せておりませなんだ。それがなにゆえに、いかぬのでしょうか」
直茂が尋ねる。
「ふふふふふ、確かに、報せる要もなければ、報せた方が良いともいえるな。報せずに織田が何と言うて来てもそも知らず(問題外)。然りとて怪しがらるる要(疑われる必要)もなし」
俺はイカの刺身の一切れを口に含みながら、直茂達は資の話に耳を傾ける。
「戦はせずに越したことはない。そうでございましょう? 御屋形様。そのために我ら外務省がありまする。……失礼、それがし隠居の身で言葉が過ぎましてございます」
要するに、別にやらなくてもいいけど、やっといた方が後々面倒くさい事にならないよって事を言いたかったんだろうと思う。
「良い、さすがである。どうだ甲斐守(資)よ、志摩守(波多志摩守)もそうだが、まだまだ隠居するには早かろう?」
「御屋形様のそのお言葉、感謝のいたりにございます。然りながら寄る年波には勝てず、酒も随分と弱くなり申した。なにとぞ、ご容赦いただきますよう、お願いいたします」
資は志摩守の顔をチラッと見る。志摩守は黙ってうなずく。
「左様か。すまぬ、余計な事を申したな。ささ、今宵は二人に久方ぶりに逢うたのだ。よく食べ、よく飲もう」
うーん。やっぱり無理か。しょうがないな。この前風邪で寝込んだっていってたし。
「左衛門大夫様(直茂)、あのご老人お二人は、どのようなお人なのですか?」
二人が厠へ行っている隙に、黒田官兵衛、宇喜多直家、土居清良が尋ねている。
「ああ、三人は知らぬのだな。われらも今はこれほどの大身であるが、そうなるまで小佐々家を、内に外に引き張りけり(引っ張ってきた)お二人だ。わたしなど、まだまだ到底及ばぬよ」
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