慶応五(明治二)年六月七日(1869年7月15日) 京都 貴族院
やべえ、言い過ぎたか……。
いや、恐れながらって言ったし、議会じゃないからオレが発言しても問題ないはずだ。
殿に迷惑かけたらいかんけど、ここで言わないとズルズルいってしまう。
何? 解散権? 何の権限で?
将軍の権限で解散させられたらどうなる?
幕府に不都合な法案があったら、その都度解散じゃねえか。
それに、各藩の藩主を解散のたびに議員辞職させたら、どうするんだ? 選挙でもするのか?
「上様の御前であるぞ。今の言葉、不敬の極みと知っての事か。左衛門佐、ただでは済まぬぞ」
西周が告知した概要は次の通りである。
第1章 基本原則
第1条(三権分立の原則) 国家の統治権は、立法権、行政権、司法権に分離し、各権力は独立してその任務を遂行する。
第2条(権力の配分) 立法権は議政院に、行政権は政府に、司法権は当分の間各藩に属する。
第2章 天皇の権限
第3条(天皇の地位) 天皇は国家の象徴的地位に置かれ、山城国一円を御領とする。
第4条(裁可権) 議政院において議定された法度は、政府を経て天皇の裁可を受ける。
~中略~
第9条(議政院との関係) 大君は議政院上院の総頭(議長)を務め、上院もしくは下院の解散権を有する。
~後略~
「中納言(慶喜)様、分を越えた物言いだと存じますが、それがしあえて申し上げました。貴族院は中納言様の奏上にて設けられし官府にございましょう。公方様のご一存にて解散なされるとは、これまでの議論は一体いかなるものにございましょうや」
「議論、とな。左衛門佐、そなたらの議論がこれまで何を生んだ。いたずらに時を費やし、国論を二分しただけではないか。上様の解散権は茶番を終わらせるためのもの。国が道を誤ったときに正すための、最後の決断にござる」
次郎は少しもひるまない。
慶喜が振りかざす大義名分を、静かに切り返したのだ。
「中納言よ。ことさら事を荒立てるでない。余の望みはつつがなく国事が進む事ぞ。心得違いをするでない」
「はは」
「恐れながら申し上げます。その、国を誤らせるほどの議論しかできぬ議会を設けられましたのは、中納言様ご自身ではございませぬか。しかして責を我らにのみ帰するとは、いささか筋違いと存じまする」
慶喜の眉がピクリと動いた。
次郎の指摘は、彼の論理の中心にある、最大の矛盾を白日の下にさらしたのである。
議会の設立を主導し、不完全なまま進行させたのは他の誰でもない、慶喜自身なのだ。
慶喜の表情から笑みが消えたが、もはや議論の場で次郎を屈服させるのは諦めている。
彼の目に宿るのは政敵を前にした冷徹さではなかった。
「なるほど。されど口先だけの理屈はもうよい。お主が何と言おうと、議会が働いて(機能して)おらぬ事は誰の目にも明らかなる事実。さればこそ、上様は乱れを収めるためご決断なされたのだ。上様のご決断に臣下の身で異を唱える事、それ自体が反逆であるとなにゆえ分からぬ」
あーもう面倒くさい。
くそだなー。
議会も堂々巡りだし、上野介は徳川脳だから説得なんて無理ゲーだし。
「承知いたしました。さようでございますか。……あー面倒くさ。殿、帰りましょう。良いですか」
「……うむ。そう言うと思うておった。されば中納言様、それがし、ならびに左衛門佐も件の草案承知いたしましたので、退座いたしたく存じます。よろしいでしょうか」
次郎の投げやりな言葉と純顕の突然の退席で、議場は凍りつく。
頑なに抵抗していた次郎が全てを認めて席を立つ――それは明確な敗北に見えた。
慶喜は真意を探るために次郎を見つめたが、何の変化もない顔を確認すると、静かに息を吐いて言葉を発する。
「草案を承知したと申すか。よろしい。これ以上、議事を滞らせるわけにはいかぬゆえな。退座を許す」
慶喜は勝利を誇示せず、ただ事実として次郎の降伏を受け入れた。
その態度は、公議政体党の議員たちに絶対的な安心感を与えるには十分である。
「ああそうそう、木戸殿、小松殿。かくのごとき仕儀にて、われらは今後いっさい与り知らぬゆえ、お好きになさるがよい」
次郎は今まで沈黙を守っていた席に目をやった。
長州藩の木戸孝允と薩摩藩の小松帯刀に向けて、わざと聞こえるように言い放ったのである。
突然名指しされた木戸と帯刀は、驚いて顔を見合わせた。
次郎の言葉の意味が分からない。
これまでの共闘を一方的に放棄するような物言いだが、裏切りとも取れる言葉であった。
一体どういう意味だ?
与り知らぬとは、味方なのか、敵なのか?
議会が将軍の管理となる以上、ここにいても仕方がない。
我らも帰ったらどうだ、の意味か?
しかしそれでは振り出しに戻る。
いや、議会そのものがないのだから、朝敵にはならぬ……。
国許に帰って戦備えをしろというのだろうか……。
「加えて中納言様、ファンドの儀ならびにフランスからの借款の儀。諸外国への技術の助けの代。その代の金の受け渡し。諸々ございますが、全て引き上げまする。また、ただ今幕府に供しております職人全て、これも同じく引き上げます事、ご高承くださいますようお願い申し上げます」
純顕は慶喜に向き直ると、まるで帳場の勘定を読み上げるかのように淡々とした口調で続けた。
その声は静かであったが、議場の隅々にまで染み渡る。
要するに諸外国は大村藩の技術力に対価を支払い、さらに大村藩の将来に投資したのであるから、幕府にはいっさい渡さないと明言したのだ。
慶喜の顔から血の気が引いていくのが分かる。
小栗上野介は息をのみ、立ち上がらんばかりの衝撃を受けていた。
このままでは徳川幕府の近代化計画の息の根を止めてしまう。
政治的な駆け引きなどではない。
経済と技術、近代国家の生命線を断ち切る実利的な脅しであった。
慶喜はわなわなと震える拳を握りしめ、絞り出すように言う。その声には先ほどまでの余裕はまったくない。
「六衛督(純顕)殿……。その言葉、謀反と承るより他ないが、相違ござらぬか」
しかし、その発言が何の意味も持たないのは慶喜自身が一番理解していた。
大村湾に浮かぶ鋼鉄の装甲艦隊に、幕府の海軍力では到底太刀打ちできない。
「とんでもない事でございます。本来我が家中が全てちょうだいすべき代にございます。列強はあくまで我が家中の将来に資を投じておるのです。謀反などありえませぬ。ゆえにご安心いただきたい。あくまで火の粉がかからねば、にございますが」
慶喜は、完全に言葉を失った。
次回予告 第478話 『慶喜の王手』
将軍家茂と慶喜は、議題草案を提示する。次郎は「茶番」と反論するが、慶喜は将軍の権威で押し切ろうとする。
草案を承知したかに見えた次郎と純顕だが、突如、幕府への経済・技術支援の全面停止を通告。
徳川の近代化計画の生命線を断つ経済的な「最後通牒」は、慶喜を完膚なきまでに沈黙させた。
次回、薩長はどうでるのか? 幕府の譲歩はあるのだろうか? 次郎や純顕は受け入れる?

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