令和9年5月(2027年5月) 国会議事堂
4月の衝突事件から1か月が経過しても国会の熱気は収まらない。
折からの裏金問題や様々な政策への批判が、各党の党首から政権与党である自由保守党の総裁へ、矢継ぎ早に続いている状態であった。
SNSが普及した現在では、国会中継やちょっとした議員の一挙手一投足までもが情報として開示されている状況である。
「日本はスパイ天国じゃないって政府が否定してるけど、現実見ろよ! 中国のスパイだらけじゃん!」
「スパイ防止法に反対してる奴らは全員スパイか工作員だろwww」
「日本新生党頑張れ! スパイ防止法早く作ってくれ! 日本を守れるのは新生党だけ!」
「反対する奴はスパイ、もしくはスパイから金を受け取ってる」
「国会議員の半分近くが死刑になる状態なのかな?」
「中国人スパイを一掃してください」
「スパイ防止法で自保70%、立革95%、新風80%、創明・新時代100%の議員が○刑になる」
「柳井マジで無能すぎる。なんで辞任しないの? 恥知らずかよ」
「裏金問題で国民にウソをついて、まだ政権にしがみつくとか図々しすぎ」
「選挙で3連敗してるのに責任取らないとか終わってる」
「自保党もう終わりだな。次の選挙で政権交代確実」
「旧安川派の金権政治まだ続けるつもり? 国民はもう惑わされないぞ」
「政治資金規制法改正も骨抜きにして、本当に腐ってる」
「今の自創政府ならむしろテロが起こってほしいと願うばかり」
様々な突き上げがある中で、やはり1番の問題は尖閣であった。
質問に立ったのは、少数野党である日本新生党の党首、橘孝太郎である。橘は長身細身で鋭い眼光を持つ男であった。その弁舌は国民の不満と不安を的確に捉え、増幅させる力を持っている。
「総理にお伺いしたい。先月の尖閣沖における中国海警船による巡視船への衝突事件。これは明白な我が国主権への侵害行為です。しかし、総理が下した決断は、遺憾の意の表明と抗議に留まりました。なぜ、海上警備行動の発令を見送ったのか。国民が納得できる言葉で、もう一度ご説明いただきたい」
橘の声は静かだが議場全体に響き渡る。ヤジは飛ばない。与野党の議員たちが固唾をのんで、柳井の答弁を待っていた。
「我が国の領海内で起きた、断じて許容できない事案であると認識しております」
柳井は用意された答弁書に目を落としながら、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「しかし中国側の、我が国に最初の軍事行動を取らせ、それを口実に事態をエスカレートさせようとする狙いは明白です。その挑発に乗れば国益を損なうと判断いたしました。外交ルートを通じた厳重な抗議と、再発防止を強く求めるのが現時点での最適解であると……」
「最適解ですか」
橘は柳井の言葉を遮った。
「現場で命を懸けて領海を守る海上保安官が、意図的に船体をぶつけられて負傷者まで出かねない状況に陥ったのです。それでもなお、相手の意図を推し量って行動をためらうのが、一国の指導者として正しい判断だとお考えなのですか。国民の生命、財産、そして領土を守る国家の最も基本的な責務を、果たしていると言えるのですか」
橘の追及は、自由保守党政権が長年抱えてきた安全保障政策の根幹を揺さぶる内容だった。
対話と協調。
聞こえは良いが、圧倒的な力で現状変更を試みる相手には通用しないのではないか。その疑念が国民の間に急速に広がっていたのである。
「主権侵害に対し、遺憾表明と抗議だけで済ませる政府にはこの国を任せられません。柳井総理、あなたには国家を守る気概がない」
橘が言い放った言葉はテレビ中継を通じて全国に届けられた。それは多くの国民が抱いていた不満を代弁する一撃となり、この日を境に世論は大きく動き始める。
世論調査の内閣支持率は軒並み20%を割り込み、危険水域に突入した。
オールドメディアと呼ばれるテレビや新聞による偏向報道が指摘され、SNSでは政権与党とメディアによる世論誘導の疑惑が公然と批判されている。
不支持の理由は『安全保障政策への不安』と『指導力の欠如』が突出していた。
加えて経済政策の不透明さと、減税と積極財政に消極的な姿勢が追い打ちをかけて内閣の不信へとつながっている。
一方で、日本新生党の支持率は面白いほど上昇を続けた。
「断固たる国家主権の行使」を掲げる彼らの主張は、これまでの政治に物足りなさを感じていた層だけでなく、ごく普通に日々の安全を願う国民の心にも響いたのである。
■令和9年7月15日(2027年7月15日) 都内ホテル・大宴会場
解散総選挙がスタートして2週間を過ぎ、選挙戦は中盤に差し掛かった。
柳井は経団連が主催する大規模な経済シンポジウムに来賓として招かれている。
厳しい選挙戦の最中であっても、こうした経済界とのつながりのアピールは、自由保守党の支持基盤を固めるうえで不可欠な日程なのだ。
約20分間のスピーチを終えた柳井は、鳴り響く拍手の中、控室へと向かうロビーを歩いていた。
周囲はSPや秘書官、そして挨拶をしようと集まった財界人や記者たちでごった返している。
SPたちは、柳井を中心に『ボックス』と呼ばれる防護隊形を組み、神経を張り詰めさせていた。彼らの目は絶えず外周に向けられ、群衆全員の手元や表情の微細な変化を捉えようと、極度の集中状態にある。
政治家が有権者や支持者と触れ合うこの瞬間こそが、警備上、最も危険な時間帯だった。握手を求める手、声をかける口、その全てが潜在的な脅威となり得る。
――そのときだった。
記者団の一番前にいた腕章をつけたカメラマンが、バランスを崩して大きくよろめく。
密集した空間では日常的に起こりうる、ごく自然なアクシデントに見えた。
「危ない!」
直近にいたSPの一人が柳井の前に自らの体を滑り込ませようと、コンマ数秒の速さで反応した。SPはこうした偶発的な事象からさえも要人を隔離しなければならない。
しかし、それは犯人の計画だった。
カメラマンの転倒は、SPの注意を意図的に引きつけるための陽動だったのである。SPの意識がその一点に集中した、まさにその0.5秒にも満たない時間――。
カメラマンのすぐ後ろ、人の壁に隠れていた小柄な男が、一歩前に踏み出した。
SPのボックスフォーメーションに生じた、ほんの一瞬の人間一人分の隙間。男はよろめくカメラマンの体で完全に死角となりながら、その空間に滑り込んだ。
男は先端に極細の針が付いたボールペン型の器具を握っている。
銃声はない。衝撃もない。
男は柳井の脇腹にその器具を押し当てただけだった。高圧ガスによって、致死性の神経毒が瞬時に柳井の体内に注入される。旧ソ連のKGBが開発したとされる暗殺用具の進化版だった。
男は即座に後退し、再び人混みの中へ紛れ込もうとする。
「総理!」
警護課長は外周の混乱ではなく、常に保護対象である柳井の表情と挙動だけを注視していた。柳井の足がもつれたのを見逃さない。
「敵(ターゲット)だ! 確保!」
警護課長の絶叫と同時に、陽動に一瞬気を取られたSPたちが我に返って男に飛びかかったが、男は確保される寸前に口の中に隠していたカプセルをかみ砕いて絶命した。
ロビーは一瞬にしてパニックに陥る。
「総理! しっかりしてください!」
秘書官がようやく柳井の異変に気づき、崩れ落ちる体を支える。しかし、柳井の体はすでにぐったりとしており、急速に意識を失っていった。
「救急車を! いや、ドクターヘリを要請しろ! 至急だ!」
SPたちの怒号が響き渡る。
犯人を捕らえ、いや、自決したが、保護対象を守り抜く彼らの最も重要な任務は失敗に終わったのであった。
次回予告 第16話 (仮)『国会の嵐(後編)~暗殺と変革の始まり~』

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