遡ること慶長五年六月(1600年7月) ネーデルラント連邦共和国 ハーグ
ハーグのビネンホフにある共和国議事堂の一室で、ネーデルラントで最も力を持つ2人の男が、1枚の報告書を前に腕組みをしていた。
1人は連邦共和国総督、マウリッツ・ファン・ナッサウ。
欧州屈指の軍事戦術家である彼の眉間には、難解な戦況図を睨むときと同じ、深いシワが刻まれている。
もう1人は、法律顧問のヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト。
共和国の政治と外交を先代ウィレムの代から支えてきた男である。
この老練な政治家もまた、普段の冷静さを失い、あり得ない財政支出の計算に頭を悩ませていた。
2人の視線の先にあるのは、はるか東方の国、日本からもたらされた『火山の冬』に関する科学的予測報告書である。
「……馬鹿げた内容だな」
オルデンバルネフェルトが、ついに沈黙を破って言葉を続ける。
「地球の裏側で山が火を噴いたから、我らのライ麦が育たぬと? 確証のない情報を根拠に国庫を空にするほどの穀物を買い占めろと言うのですか。投機も大概にせねば、民はおろか、商人たちからの信頼も失いますぞ」
「だが、オルデンバルネフェルト、万が一真実ならばどうなる」
マウリッツが低い声で応じた。
「スペインも我らと同じく飢えるだろう。だが、これはどちらが先に倒れるかの消耗戦だ。食糧対策に失敗すれば、我々は自らの弱さによって戦争に敗れる」
その表情は厳しさを増した。
兵糧の確保は武器弾薬の確保と同義であり、国内の暴動こそが最も恐るべき敵なのである。
スペインをはじめとした他国からの軍事侵攻ではなく、飢饉による国家崩壊の危険性を示していたのだ。
2人の議論は、堂々巡りを繰り返している。
そこへ扉をノックして入ってきたのはフレデリックであった。そばには各分野の専門家数名が控えている。
「総督、法律顧問殿。お話は伺いました」
フレデリックは、2人が見ていた報告書をチラッと見ると迷いなく断言する。
「これは賭けではありません。科学的根拠に基づく、極めて確度の高い未来予測です。そして、我々がこれを乗り越えれば、スペインに対する共和国の優位は決定的となるのではありませんか」
オルデンバルネフェルトが、フレデリックの自信に満ちた言葉に、わずかに眉をひそめる。
「殿下。殿下とその周りにいる者たちの優秀さは認めましょう。だが、これは次元が違う話だ」
「いいえ、同じです」
フレデリックは即答した。
「我々が新しい軍事技術で敵と戦うのも、新しい船で海を渡るのも、全ては正確な計算と予測に基づいています。日本の科学技術省は、我々と同じかそれ以上の方法で、地球自体を計算したに過ぎません。これは新しい形の戦争で、銃や大砲ではなく食糧と情報で戦うのです」
フレデリックの言葉には、揺るぎない確信があった。
マウリッツは、弟とその仲間たちがこの10年で成し遂げた、常識では考えられない技術革新の数々を思い起こしている。
彼らが言うのなら、あるいは……。
オルデンバルネフェルトの現実主義と、マウリッツの軍事的懸念。その間を、フレデリックの持つ未来への確信が繋いだ。
「……よろしい」
やがてオルデンバルネフェルトが、重い決断を下した。
「殿下の言葉を信じるとして、国家予算規模の膨大な資金が必要となります。当然議会の承認を得なければなりません。総督閣下、あなたからも、国家秩序維持の観点からの必要性を強く訴えていただきたい」
「承知した」
マウリッツはうなずいた。
オランダは、3人の指導者の名において、見えざる敵との戦いに挑むことを決断したのである。
純正は同様に、イギリスやフランスをはじめとした全世界の友好国にも同じ書状を送っていたのであった。
■同時期 ポルトガル リスボン
国王セバスティアン1世は、日本の大使がもたらした『火山の冬』の警告に、純粋な知的好奇心を刺激されていた。
地球の裏側の出来事が、季節の巡りさえ変えてしまう。
友邦の君主、小佐々純正が率いる国は、常にポルトガルの想像を超越していた。
彼は玉座から身を乗り出しながら、日本の科学技術省から来た研究員の説明に聞き入っている。
「素晴らしい。平九郎陛下の友情と知見に心から感謝する。対策には我が国も全面的に協力しよう」
セバスティアンが快諾したその時である。
玉座の傍らに控えていた枢機卿が、静かに1歩前に出た。
「陛下。日本の警告は非常に興味深い。ですがその言葉を鵜呑みにする前に、我らが昨年から抱える疑念を晴らしていただかねばなりませんぞ」
蒸気機関。
日本が30年前に開発したドニ・パパンのレベルに、ポルトガルはようやく達しようとしていたのである。
枢機卿が話すと、謁見の間の明るい雰囲気が一変して重苦しくなった。
ポルトガルの誰もが経験した衝撃と屈辱。長年の友である日本に裏切られたのではないかとの、国家的な疑念である。
彼は日本の特使に視線を向けたまま、静かに続けた。
「我らが40年を費やしても成し得ない技術を、なぜネーデルラントが成し遂げられるのか。我らはネーデルラントにも問いましたが『独自開発』との答えしかいただいておりません。大使、我々にはどうしても理解できないのです」
その問いはセバスティアン自身の問いでもあった。
彼は苦悩の色を浮かべ、大使の答えを待っている。
「お気持ちは、拝察します」
駐ポルトガル日本大使の松浦九郎親は、静かに頭を下げた。
「ですが、その件に関しましては、我が政府の公式見解が全てにございます」
「……またその言葉か」
セバスティアンは、深くため息をついた。
「まあ、良い。余は平九郎殿を信じておる。火山の冬への対策は約束通り進めよう。だが、蒸気機関の件は国家の威信に関わる問題だ。陛下には、改めて我々が納得できる形での説明を願いたいと、そうお伝え願いたい」
謁見は表面上の友好関係を保ったまま、しかし両国の間に1つの決定的なわだかまりを残して、幕を閉じた。
謁見の間から自室に戻ったセバスティアンは、重い気持ちで窓辺に立っている。
テージョ川のきらめきも、今は彼の心を晴らしてはくれない。
その時、窓の下に広がる宮殿の庭園から澄んだ笑い声が聞こえてきた。
妻であるカトリーヌ・ド・ブルボンが、まだ幼い王子の手を引いて散策を楽しんでいる。風に乗って、彼女の愛情に満ちた声が微かに届いた。
「そう、お上手。あなたはこの美しい国の、そして世界の王になるのですよ」
セバスティアンは、その光景に思わず口元を緩ませる。
あの子が継ぐべき、大ポルトガル帝国の栄光。そして純正と共に語り合った、新しい世界の秩序。それを守るためにも、ポルトガルの力は、断じて他国に劣るわけにはいかない。
同じ頃、枢機卿は自らの執務室に、腹心の貴族たちを集めていた。
「聞いたか、諸君。日本の答えを。これ以上問いただしても無意味だ」
1人の貴族が悔しそうに言ったが、別の1人が反論する。
「しかし彼らが独自開発と言い張る以上、それを覆す証拠がない」
「証拠がないのなら、我らの目で探しに行くまでだ」
枢機卿の言葉に、全員の視線が集まる。
「陛下に進言するのだ。我が国の最高の技師と学者を集め、大規模な公式技術視察団をオランダへ派遣すると。表向きは彼らの発展を学ぶ姿勢でな」
別の貴族が、その意図を察して続ける。
「なるほど。その後に技術の源泉を徹底的に探るわけですね」
「その通りだ。もし日本の影が少しでもちらつけば、それこそ真の友好とは何かを問いただす、絶対的な切り札となる。まずは、動かぬ証拠を掴むのが先決だ」
日本とオランダを明確に敵視しているわけではない。
世界の大国としてのプライドを傷つけられた焦りと、真相を究明しようとする、冷徹で現実的な国家戦略の策定であった。
次回予告 第902話 (仮)『東からの船』

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