慶長五年四月二十五日(西暦1600年6月26日) 美濃 岐阜城
大阪での過酷な裁定から2日が経過し、信則たちは故郷の岐阜へ戻ることを許された。
それは温情ではなく、越前への移住準備である。
最後の務めを果たすためのものであった。
岐阜城下は肥前国の役人によって完全に管理下に置かれていたが、安堵に満ちた活気が戻り始めている。
肥前国から運ばれてきた米や塩が配給され、昨日まで飢えに苦しんでいた人々は、ようやく人心地ついた表情を浮かべていたのだ。
民は新しい支配者を、飢えからの解放者として何の迷いもなく受け入れている。
それは織田家の者にとって、自分たちの時代の完全な終わりを告げる光景だった。
信則は、城の一室でぼんやりと庭を眺めている。
兄・信秀は、京の六条河原で斬首され、武井十左衛門も同じ運命を辿った。
蒲生氏郷や堀秀政といった、これまで織田家を支えてきた重臣たちも、数日のうちにそれぞれの移住先へ旅立つことになっている。
もう、二度と会うことはないかもしれない。
二百五十二石。
それは祖父・信長によって一時は天下に覇を唱えた織田家の、成れの果てだった。
「左衛門様」
氏郷が静かに部屋に入ってきた。
その手には、湯気の立つ薬湯の椀がある。
「忠三郎か。すまぬな、気遣いは無用だ」
「そう仰らず。お疲れが溜まっておいででしょう」
氏郷は信則の側に座り、薬湯を差し出した。
疲れ切ってどこか悲しそうではあったが、それでもまだ役目を果たそうとしている感じがする。
「祖父上様のご容態は、如何か」
信則は祖父・信長のことを尋ねた。
意識がもうろうとして寝起きを続ける祖父は、この一連の騒動を知らない。それが、せめてもの救いかもしれなかった。
「オットー殿と弦斎殿が、つきっきりで治療にあたっておられます。されど、未だ……」
氏郷が言葉を濁した、その時だった――。
城代として留まっていた肥前国の役人が、慌てた様子で部屋へ駆け込んできた。
「左衛門様、蒲生殿! 中将様が……!」
役人の言葉に信則と氏郷は顔を見合わせ、すぐさま立ち上がった。
胸に、言いようのない予感がよぎる。
2人は役人の先導で信長の居室へと急いだ。
障子を開けると、信じられない光景がそこにあった。
これまでただ横たわっているだけだった信長が、自らの力でゆっくりと、震える腕で半身を起こそうとしていたのだ。
その動きはひどく緩慢で、衰弱しきっていることは明らかである。
しかし、それは紛れもなく彼自身の意志によるものだった。
「祖父上……?」
信則の声は震えていた。
信長はゆっくりと顔を上げる。
その目はまだ虚ろで、焦点が定まっていない。
だが、彼はそこにいる信則と氏郷の存在を認識したようだった。薄く開かれた唇から、乾いた、かすれた声が漏れた。
「……ここは……」
それは、半年にわたって誰も聞くことのなかった、織田信長の声だった。
「上様! お気づきになられましたか!」
氏郷が感極まった声で駆け寄ろうとするのを、オットーが静かに手で制した。
「お静かに。まだ、意識が完全に戻ったわけではありませぬ。刺激が強すぎます」
金髪に青い目。
そこから発せられた流暢な日本語に、氏郷は戸惑いを隠せない。
信長の視線が部屋の中をさまよい、そして、信則の顔を捉えた。
「……三法師……ではないな。……左衛門か。……大きゅうなったな」
「は、はい……祖父上」
信則は涙がこみ上げてくるのを必死にこらえた。
半年前まで普通に過ごしていたのだ。『大きゅうなったな』などと、まだ意識がはっきりしていないのだろう。
それdも祖父は自分を認識している。長い昏睡から、ついに目覚めたのだ。
信則はその実感を噛み締めている。
「何があった……。わしは……如何ほど……」
信長の問いに、誰も答えることができない。
この数か月で起きた、あまりにも過酷な現実を、今この場で伝えることなどできるはずもなかった。
信則は、覚悟を決めた。
信長が目覚めた以上、全てを話さねばならない。
枕元に膝をつき、ゆっくりと、言葉を選びながら語り始めた。
肥前国との決別による経済制裁と兄・信秀の決起。そして、その敗北と死がもたらした織田家中の解体と、二百五十二石の現在の状況。
信則の話が進むにつれて、部屋の空気は重くなっていく。
氏郷は顔を伏せ、オットーと弦斎も、厳しい表情で聞き入っている。
全てを聞き終えた信長は、何も言わなかった。
目を閉じ、ただ静かに呼吸を繰り返している。
その表情からは、怒りも、悲しみも、絶望も読み取れない。まるで、遠い昔の出来事を聞いているかのようだった。
しばらくして、信長がゆっくり目を開けた。
さっきまでのぼんやりした目つきは、もうそこにはない。
全てを理解し、受け入れた落ち着いた目をしてる。
長く寝てたせいで気力を失ってたはずが、頭が鮮明になり、やせ細った体からも何か鋭い雰囲気が立ち上ってきていた。
信長は、部屋にいる者たち一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡す。
そして静かに、しかし部屋の隅々まで響き渡る声で、こう呟いた。
「……是非もなし……」
その言葉は、孫たちの行動の結末と時代の移り変わりを、ただ事実として受け入れる言葉だった。
過去を悔やみ、今後を心配する気持ちはそこにはない。今をそのまま受け入れる、潔い静けさがあるだけだった。
次回予告 第894話 『純正と信長』

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