慶応四年四月十八日(1868年5月10日)
小御所での会議が混乱のうちに終わった翌朝、京の空には、しとしとと降り続いた春雨の名残である湿った空気が漂っていた。
洛中を騒がせた火事は、結局のところ、大きな延焼を見せることなく、いずれも小規模なボヤ程度の騒ぎで鎮火していたのである。
人的な被害は一人もなく、建物の損害も、壁や戸の一部が黒く煤けた程度に留まっていた。
純顕と次郎は藩邸に使いをやって調べたが痕跡はない。
そのため安政の地震の際に使用された消化器を各地に配り、消火活動を助けたのである。
しかし、物理的な被害の少なさとは裏腹に、この不可解な事件が京の人々の心に残した動揺は大きかった。
佐幕、尊皇、それぞれの派閥の拠点が一夜にして同時に狙われたという事実は、都に潜む見えざる敵の存在を、誰の目にも明らかにしたのだ。
市中は厳戒態勢が敷かれ、会津・桑名藩士や所司代配下の役人たちが、物々しい雰囲気で往来を固めている。
そんな中、各派閥の代表たちは、それぞれの拠点で事件の対応に追われていた。
■薩摩藩邸
藩邸では島津久光と忠義父子、小松帯刀と西郷隆盛が、国許からの電信と京で集めた情報を突き合わせていた。
藩邸の被害は裏門の門柱が焦げただけであった。あまりにも軽微な被害は、逆に彼らの疑念を増幅させている。
「こいは、慶喜の罠に相違なかじゃろう。我らを挑発し、兵を動かしたとこいを叩くつもりであったに違いなか」
久光は、そう断じた。
彼の目には、今回の事件が、小御所会議で論理的に追い詰められつつあった慶喜の、盤面を引っくり返すための策謀と映っている。
「されど国父様。幕府ん屯所も焼けちょります。自らん拠点を焼いてまで、事を構ゆっ利がありもんそか」
小松は冷静に反論した。
自作自演にしては、あまりに手が込みすぎている。
その矛盾が、彼の思考を混乱させていた。
西郷は、黙って腕を組み、ただ一点を見つめている。彼の脳裏には、この不可解な事件を引き起こせるだけの知恵と力を持つ、ある一つの藩の姿が浮かんでいた。
■長州藩邸
長州藩邸もまた、同じような緊張した空気に満ちていた。被害は薩摩藩邸よりもさらに軽微で、外塀の一部が煤で黒ずんだ程度に過ぎない。
周布政之助は、まるで計算し尽くされたかのようなこの被害の軽さに、犯人の底の見えない計画性を感じ取り、胸の奥で苛立ちが渦巻いていた。
「我らを嘲笑うにもほどがある。これは我らの力量を測っているのか。それとも、幕府との間に不和の種を蒔こうとする、何者かの謀なのか」
その傍らで久坂玄瑞は静かに考え込んでいた。
犯人は一体何者なのか。幕府の差し金か、薩摩の仕業か、それとも、あの常識を超えた力を持つ大村の策略か。
いずれにしても、動機と実際の行動との間には、どうしても埋めることのできない矛盾が生じてしまう。この事件は、単なる敵愾心や憎悪の感情から起こったものではない。
もっと冷酷で、より大きな野望を実現するために周到に仕組まれた謀略である——直感がそう告げていた。
一方、慶喜もまた対応に苦慮していた。
禁裏御守衛総督として直ちに犯人捜索と治安維持の強化を宣言し、市中の薩長系の浪士や素性の知れぬ者たちを、次々と捕縛し始めたのである。
表向きは京の安寧を守るための毅然とした対応であった。
しかし、まったく犯人像がつかめない。
実のところ、慶喜は予期せぬ事件を最大限に利用し、反対勢力の一掃を図ったのである。
しかし、迂闊には動けない。
反幕勢力が犯人なら、慶喜の動きを全て読んだ上で、次の手を打ってくるかもしれないからだ。
そんな疑心暗鬼が洛中を支配する中、各藩の使者が、探りを入れるように、ある場所へと向かっていた。
昨夜の事件で、唯一、全くの無傷であった場所。大村藩の京屋敷である。
■大村藩邸
屋敷の広間に通された薩摩の小松帯刀と長州の周布政之助は、穏やかな表情で茶を勧める純顕と、その隣に座る次郎を前に、言葉を選んでいた。
「丹後守様におかれましては、此度の放火による失もなく何よりにございます。昨夜は、さぞご心配なされた事と存じます」
小松が口火を切った。
その言葉は丁寧であったが、視線は純顕ではなく、次郎に向けられていたのである。
「お心遣いかたじけない。我らも何ゆえ失がなかったのか、いぶかしく思っているところなのだ」
純顕は小松の疑念を察しながらも、穏やかに応じた。
次に問いかけたのは周布であった。
もはや建前を取り繕うことをやめ、単刀直入に問いかける。
「丹後守様、蔵人殿。此度の件、あまりに不可解。天気を読み、失(被害)をもっとも少なく留め、我らの間に不信の種をまく。斯様な芸当ができるのは、優れた報せの網(情報網)を持ち、物事を俯瞰して見る知恵を持つ者。……率直に申し上げて、それがしには、蔵人殿をおいて他に思いつきませぬ」
周布の言葉は、非難というよりは、問いかけに近い。
お前ほどの知恵と力があれば、これくらいのことは可能であろう。ならば、その意図は何なのか。
それを知りたい、という探るような響きがあった。
純顕が何かを言いかける前に、これまで黙っていた次郎が、静かに顔を上げた。
「周布殿のお言葉、我が家中への過分な覚え(評価)と受け取っておきましょう。然れど、一つだけ申し上げたい。我らが、周布度のお考えの如き『知恵』を持つのであれば、何ゆえ斯様な『無駄』を致さねばならぬのでしょう」
次郎の声は静かだったが、その場にいた全員の耳にはっきりと届いた。
「もし我らが、皆様の間に不信を生みたいのであれば、火付けなどの疎かで拙き術など選びませぬ。例えば偽の電信で各藩の間に誤解を生じさせる。あるいは為替を操り京や大坂の経済を一日で狂わす。他にも……」
小松も周布も息をのんだ。
次郎が語る内容は彼らの想像を遥かに超えるものであったが、大村藩の技術力を考えれば、決して不可能ではないと理解できたのである。
「斯程の騒ぎを起こして我らに如何なる利があるのか、それがしには皆目見当がつきませぬ。周布殿、小松殿、御二方にはお分かりになりますか」
この問いかけは脅しではない。
絶対的な自信に裏打ちされた、純粋な論理による反論であった。
大村藩の技術を考慮すれば、今回の事件はあまりに非効率で、中途半端な策である。その事実が、大村藩の潔白を何よりも雄弁に物語っていた。
小松と周布は、もはや何も言うことができない。
彼らはその答えに納得せざるを得なかった。
では、一体誰が、こんな回りくどく、そして不気味な事件を計画したのか。
使者たちが退室した後、広間には純顕と次郎だけが残された。
「殿。疑いは一時は晴れましょう。然れど犯人が見つからぬ限り、互いの疑心いや増すばかり。加えて、いずれ必ずや武による衝突に至りまする。それを防ぐには、我らの手で真相を突き止めるしかございません」
次郎の目には、これから始まる犯人捜しへの全く新しい戦いへの決意が宿っていた。
「犯人は、幕府でも薩長でもないやもしれません。然らばその当て所(目的)は如何に?」
「うむ」
純顕は、庭に降る雨を見つめながら、静かにつぶやいた。
数日後、実行犯と思われる男が見つかった。
上野国の元裕福な豪農。
解雇された琉球王国首里王府の元貿易事務担当。
没落した下関の廻船問屋一族の若旦那。
貧しい朝廷雅楽演奏者の家系。
全くなんの関連もない4名であった。
次回予告 第436話 (仮)『次郎の捜査と一石』

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