慶長四年六月四日(西暦1599年7月25日) アスト部領域 リンダン大ハーン即位式典
春の草原に清らかな風が吹いている。
小さな丘の上には、簡素ながらも厳かな祭壇が設けられ、その周囲をチャハル部とアスト部の部族民が囲んでいた。
参列者の顔には、悲しみと希望が入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。
祭壇の前には、モンゴルの伝統衣装をまとったリンダンが立っていた。わずか9歳ではあるが、その姿にはすでに凜とした、大ハーンとしての威厳が漂っている。
アスト部のハーンであるノムダラ・フルチ・ノヤンの姿もある。彼はリンダンの側に立ち、式典を見守っていた。
オルジェイが、厳かに即位の儀を執り行う。
「天の意思により、そして祖先チンギス・ハーンの血を受け継ぎし者として、我らチャハル部のリンダンを、全モンゴルの大ハーンとしてここに推戴する!」
オルジェイの声が草原に響き渡った。集まった部族民は一斉にひざまずき、新しい大ハーンに忠誠を誓う。
わずか9歳の子供を君主として擁立するのか?
歴史的に幼児を傀儡としてきた事実は多々あるが、ことモンゴルに関してはチンギス統原理があり、チンギス・ハーンとその男系子孫であるアルタン・ウルクによってのみ継承されてきたのである。
15世紀にはその原理を破って君主となった例もあったが、諸部族の反感を買って即位の翌年に殺されているのだ。
「チンギス・ハーン万歳! 大ハーン万歳!」
歓声がわき起こり、草原の鳥たちが驚いて飛び立つ。
リンダンは静かに玉座に座り、集まった人々を見渡した。彼の目は、遠く女真族の領域へと向けられている。
この瞬間、リンダンは単なるチャハル部の長ではなく、モンゴル帝国の後継者、そしてヌルハチにとっての最大の敵となったのだ。
式典の後、リンダンはノムダラ・フルチ・ノヤンと語り合った。
「アスト部の厚意、心より感謝いたします。貴殿の支援がなければ、即位の儀は執り行えませんでした」
「大ハーン、何を仰せられます。我らモンゴルの民は、今こそ1つになるべきとき。ブヤン・セチェン・ハーンの遺志を継ぎ、立ち上がられた貴殿を、我々が支えるのは当然です」
ノムダラは包み込むような笑顔で、力強く答えた。
9歳という若年ながら、リンダンの才器を見抜いていたのだ。
「しかし、我らの力だけではヌルハチには対抗できません。他の部族からの支援が必要です。古くから女真と交流のあったオンリュートの諸部族は、あちら側につく可能性が高い。特にホルチン部は、こちらが知らせを送ったにもかかわらず、返書もないのです」
リンダンのチャハル部を保護し、後見となったアスト部のノムダラであったが、彼1人ではリンダンを擁立することはできないのだ。
ハラチン部・トゥメト部・ヨンシエブ部・ウリャンカイ部を糾合し、オルドス部とも結んでハルハ部を助け、オンリュート諸部族の女真接近を可能な限り防がなくてはならない。
ハルハ部は女真と戦闘中のために即位式典に参加できなかったが、オンリュート諸部族以外は参列している。
もっとも、9歳の子供を本気で擁立するかどうかは別として、傀儡として自分の権力を握ろうとしている者も多い。
・ハラチン部のバイフンダイ(1548年生~ クンドゥレン・ハーン)
・トゥメト部のナムタイ・セチェン・ハーン
・ヨンシエブ部のエンケダラ・ダイチン・ハーン
・ウリャンカイ部のバトゥ・トグス・ハーン
・オルドス部のホジョクト・ジノン(晋王)・ハーン
麾下の部族長も数多く参列したが、その多くはリンダンの品定めであり、本心から大ハーンだと認めている者はいなかったのだ。
リンダンを担ぎ上げて明や女真、そして他のモンゴル部族との交渉を有利に進めようとする者。
単に略奪の機会をうかがっている者。
あるいは、リンダンを傀儡として、自分がモンゴルの実権を握ろうと画策する者もいる。
ノムダラ・フルチ・ノヤンは、そうした腹の探り合いの雰囲気を肌で感じていた。
彼はリンダンの後ろ盾として式典を取り仕切り、他の部族長たちとあいさつを交わしながら、彼らの真意を見極めようとする。
「アスト部のノムダラ殿。貴殿は大ハーンのご後見。ご即位、誠におめでとうございます」
トゥメト部のナムタイ・セチェン・ハーンが、恭しい態度で近づいてきた。その顔には笑みが浮かんでいるが、目は全く笑っていない。
「いやいや、ナムタイ殿。これはリンダン殿下が天の意思により、大ハーンの位に就かれたまでのこと。私などがどうこうできるものではございません」
ノムダラは謙遜しながら答える。ナムタイはトゥメト部のハーンではあったが、他の部族がそれを認めているわけではない。
本来ハーンとは唯一無二の存在であり、だからこそ、その下に集結していたのだ。それが、いつのまにか誰もがハーンを名乗り、その権威は失墜していた。
「それにしても、ヌルハチめ。チャハル部を襲うとは、いかなる了見か。モンゴルの誇りを踏みにじった罪は重い」
ナムタイは憎々しげに言った。モンゴルの部族長たちの間には、女真族に対する根強い反感があったのである。
「まさに。しかし、我らモンゴル諸部族がバラバラであったからこそ、ヌルハチはつけ込んだのです。今こそ、大ハーンのもとに1つになり、やつらに我らの力を見せつけるときではありませんか」
ノムダラはリンダンの即位を正当化し、他の部族の協力を呼びかける。
「1つになる、か。言うは易し、行うは難し」
ヨンシエブ部のエンケダラ・ダイチン・ハーンが、冷ややかな声で割り込んできた。彼は現実主義者であり、感情論だけではヌルハチに対抗できない事実を知っている。
「エンケダラ殿。確かに容易ではございません。しかし、共通の敵であるヌルハチを前に、我らが争っている場合ではないでしょう」
「オルドス部は寧夏と同盟を結んでおるし、ハルハ部は女真と戦っておりますな。ウリャンカイ部は……」
エンケダラは他の部族の現状を挙げ、モンゴル全体が複雑な状況にある点を指摘する。
「それに、この幼き御方が、本当に大ハーンの任を果たせるのか……」
エンケダラはリンダンをちらりと見た。その目には、隠しきれない侮蔑の色が浮かんでいる。
「エンケダラ殿! 大ハーンの御前であるぞ!」
オルジェイが思わず声を荒らげた。しかし、エンケダラは動じない。
「真実を述べて何が悪い。我らの未来がかかっておるのだ。感情だけで戦えるほど、ヌルハチは甘くない」
場の空気が一瞬にして凍りつく。他の部族長たちも、静かに二人のやりとりを見守っていた。
「エンケダラ殿のお言葉、もっともである」
予想外の声に、全員が振り返った。リンダンが立ち上がり、エンケダラに向かって歩み寄っていったのだ。
「私はまだ幼い。経験も浅い。大ハーンの重責を担えるか、不安がないと言えばうそになる」
リンダンの言葉に、エンケダラの表情が少し和らいだ。素直に自分の弱さを認める姿勢は、彼の予想を裏切ったのだ。
「しかし、祖父上の遺志を継ぎ、モンゴルの誇りを取り戻す決意に偽りはない。そして、私は信じている。困難なときこそ、我らモンゴルの民は1つになれると」
リンダンは真っすぐな目でエンケダラを見つめた。その瞳には、幼さの中にも強い意志の光が宿っている。
「貴殿の現実的な視点が、私には必要なのです。どうか、私を支えていただきたい。もし、これはここにいる全ての長に言いたいのですが、私が頼りないと思ったら、いつでも引きずり下ろせばいい」
リンダンの言葉は、エンケダラだけでなく、他の部族長たちの心にも響いた。
幼いながらも自分の弱さを認め、協力を求める姿勢は、彼らが期待していた「傀儡」とは全く違っていたのだ。
「……大ハーン。私の無礼をお許しください」
エンケダラは頭を下げた。
「貴殿の言葉、心に響きました。微力ながら、お力添えいたしましょう」
今は、従った方がよいか。
それがエンケダラの出した結論である。
深々と頭を下げたせいで、リンダンはその表情を感じ取れなかった。エンケダラは、リンダンを一度は大ハーンと呼んだが、すぐに貴殿と呼び直している。
しかし、これでモンゴルが1つになったわけではない。ホルチン部をはじめ、女真族に近い部族は警戒を解いていないだろうし、他の部族長たちもまだ様子見の段階だ。
リンダンは、即位式典に参列した部族長それぞれと目を合わせ、静かに語りかけた。
「ヌルハチは強い。1人では、女真には勝てない。しかし、我らモンゴルが1つになれば、ヤツらを打ち破れる。失われた故郷を取り戻し、再び広大な草原にモンゴルの旗を掲げるのだ」
彼の言葉は、集まった人々の心に希望の火をともした。多くの者が、リンダンの言葉に心を動かされ、モンゴル再興の大義のもとに集結すると誓ったのである。
夕暮れのとき、即位式典は終わりを告げた。周囲の空気は、表面的な盛り上がりの下に漂う緊張と警戒心で満ちている。
リンダンは自らのゲルに戻ると、側近のオルジェイと二人きりになった。
「諸部族の態度はお見通しでしょう」
オルジェイが静かに言った。
「ヤツらは儀式に参列しましたが、多くは様子見の姿勢です。特にヨンシエブ部のエンケダラは、あからさまに不満そうでした。ああは言っていましたが、どこまで信じていいか分かりません」
リンダンは冷静にうなずいた。
その顔には9歳とは思えない表情が浮かんでいる。
「当然だ。ヤツらは本当は、自分こそがチンギスの後継者だと思っている。だが、血統では我らに及ばぬと知っているから、年齢で私を見下しているのだ。しかし、ハラチン、トゥメトの両部族が友好的なのは救いだ」
遠くでは各部族の長たちが談笑していたが、彼らの間にはすでに権力闘争の種がまかれていたのである。
「私が傀儡になると思っているなら、大きな間違いだ」
少年は歯を食いしばった。
次回予告 第871話 (仮)『遠国からの知らせ』

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