第406話 『研究会のその後とパリデート』

 慶応三年五月十八日(1867年6月20日)フランス・パリ

「確かにその面は無きにしも非ずでしょう」

 渋沢が答え、通訳がフランス人に伝えている。

「武士の身分の者が、商人風情町人風情と下に見ている風潮が、産業の発展を阻害してきたと言われても、反論はできません。然れど我らは今、その制約を乗り越えようとしていますし、出来ると信じております」

 しばらくの間をおいて渋沢は続ける。

「武士の持つ道徳心と商人の持つ実務能力を融合させることで、西洋に追いつき、さらには追い越すことを目指しています」

 研究会が終わり、次郎は渋沢と五代を大村パビリオン内の小さな休憩スペースに招いた。

 パリのホテルで大規模な会合を開くことは現実的に難しかったが、既に確保していた万博会場内のスペースなら、三人で落ち着いて話すことができた。

「篤太夫、才助、今日はお疲れ様であった。研究会は予想以上に盛り上がったな」

 次郎がお茶を勧めながら言った。朝方から始まった研究会は熱を帯び、昼過ぎになっていたのである。

「次郎様のおかげです。私のような渡欧経験もフランス語の知識もない者が、このような場で意見を述べることができたのは、大村家中の支援あればこそです」

 渋沢は感謝の意を示した。

「オイも(私も)お礼申し上げもす(ます)。実は、上海でん(での)経験はあってん(あっても)、ヨーロッパははいめっで(初めてで)、戸惑うことも多かったっ(かったん)です。次郎様ん(の)ような心得のある人ん助けがなかれば、こげん(こんな)機会は得られもはんじゃした(得られませんでした)」

 五代も頭を下げた。

「いやいや、オレも日本の将来を考えるとき、2人のような識者との意見交換は非常に大事だと思っているよ」

 次郎は二人に向き直った。

「渋沢殿、株式会社設立のための具体的な方法について、もう少し詳しく聞かせてもらえんか。滞在中に見聞できた範囲でかまわん」

 正直なところ、経済……財務はお里の分野である。

 しかし、渋沢栄一と五代友厚という日本経済史に名を残す2人の、現在の考えを聞いておく必要があるとも思ったのだ。

「無論です。私はまだ実際の運営を見たわけではありませんが、フランスとベルギーの銀行関係者から話を聞きました。特に出資者の有限責任という概念は、武士の投資参加には欠かせない要素だと思います」

 渋沢は自分の理解の範囲で説明した。

「出資額以上の責任を負わなくて良いという制度があれば、武士も恥を恐れずに出資できるのです」

「なるほど。実はわが家中でも、藩内の産業育成のための『藩営商社』のようなものはあるのだ。藩が主体となりつつも、藩士や商人も出資できる仕組みだが、いつまでも藩が主体ではいかん。民の力で産業を盛り上げていかねばな」

「然うです! まさに、その通りにございます。それは素晴らしい発想です」

 渋沢は目を輝かせた。

 大村藩では次郎やお里が先導しなくても、大浦屋お慶や小曽根乾堂が、事実上の株式会社を運営していたのだ。

 もっとも、大株主はお慶と乾堂、そして大村藩と次郎の私費である。

 藩営商社にしても、株主にお慶と乾堂の名があったのだ。

「私も帰国後、同様の仕組みを提案したいと考えています。我が国の将来を考えるとき、各藩がそのような先進的な取り組みを始めることが重要です。特に大村藩の技術力は、産業の基盤として申し分ありません」

「実は薩摩でん同じ構想がありもす」

 五代が加わった。

「オイはこいまで上海を通じて得た知見から、日本でん工場によっ(よる)大量生産を実現すべきじゃち考えちょいもす(考えています)。特に造船所ん設立は急務じゃ」

「オレも同じ考えだ」

 次郎はうなずいた。

「船舶は貿易の基盤であり、国防の要でもあるからな。自前の造船技術を持つことは、国の独立にとって不可欠だ」

 トントントン……。

 ノックの音がした。

「ん、何だ?」

 次郎は立ち上がり、入り口に向かって行ってドアを開ける。

 そこには化粧をした和装のお里がいた。

「え? お前、あおああうう!」

 やってしまった。

 やらかしてしまった。

 この日の午後、お里とパリ市内を見て回る約束をしていたのだ。

 万博の出し物の準備や展示、説明も重要だが、休日も必要だし、癒やしも必要だ。

 だから次郎からお里を誘っていたんだが、誘った方が忘れてしまったのである。

 その様子を察したのか、お里の顔がだんだんと険しくなっていく。

「まさかジロちゃん、自分で言っておいて、忘れてたとか、言わないよね?」

「え? いや、まさかあ~。そんなはずはない、待って、ちょっと待ってて」

「才助、篤太夫、つもる話は多々あるが、重要案件なのだ。この話はまたでよいか?」

「え、ええ……。無論です。構いません」

「オイも、障りありもはん」

 それを聞くと次郎はさっと踵を返してドアに向かい、お里と消えていった。

「なあ渋沢どん、オイは昔から思うちょったんじゃが、あん二人、何か違わんか?」

「ん? 何かとは、何ですか?」

「いやあ、ないちゆか(何というか)、日本人離れしちょっちゅうか(しているというか)。まるで二人の西洋人を見ちょっ(見ている)感じがすっどな(感じがするんだよな)」

「ああ、それは私も感じておりました。夫婦円満、妻が夫を想い、夫が妻を想うのは良きことなれど、あの二人は何と言うか、別物ですね」

 当然である。

 ■パリ市中

 お里の表情は険しい。よほど怒っているのだろう、次郎から少し距離を取って歩いている。

「お里、ごめんっ。本当に忘れていたわけじゃないんだよ……」

「じゃあ何なの? 約束の時間に来なかったのは、忘れてたからじゃないの?」

「いや……あれはその……研究会が白熱して……そうだ! 才助と篤太夫が悪いんだよ」

 見苦しい……。

「……まったく。あのね、ジロちゃん。私も忙しいのよ? パリに来てから、ずっとあなたのサポートに回って、自分の時間なんてほとんどなかったじゃない。それであなたが私のために時間をつくってデートしようていったとき、私、どんだけ嬉しかったか」

 お里の言葉には理があった。

 彼女は日本パビリオンの準備から運営まで、写真術の実演にも携わり、次郎や隼人、廉之助の支えとなってきたのだ。

 そんな中で、ようやく二人きりの時間を持とうと約束したのに、その約束を次郎が忘れていたのだから、怒るのも当然だろう。

「本当にごめん。今日は一日、お前の好きなようにしよう。どこに行きたい?」

 お里はしばらく黙っていたが、やがて少し表情を和らげた。

「せっかくパリに来たんだから……ルーヴル美術館に行きたいな」

「よし、じゃあルーヴルだ」

 次郎は弾む声で言い、お里の手を掴んだ。

 少し強引なくらいに。

 お里は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうな表情になった。

「Where is the Louvre Museum?」(英語)

(ルーヴル美術館はどこですか?)

「?」

「Waar is het Louvre?」(オランダ語)

(ルーヴル美術館はどこですか?)

「? ?」

 ただでさえ珍しい和装の男女である。

 奇異に映るのは仕方ない。

 道行く人は、理解できない言葉を喋る男を見て笑っている。

「Où se trouve le musée du Louvre ?」

(ルーヴル美術館はどこですか?)

「Oh, alors vous pouvez marcher tout droit le long de cette rivière et traverser le pont Royale et vous le verrez. Je peux vous comprendre, mais je ne vous ai jamais vus habillés comme ça.」

(ああ、それならこの川沿いにまっすぐ歩いて、ロワイヤル橋渡ったら見えるよ。なんだいあんたら、話はつうじるけど、まあ、見た事ない格好してるね)

「Merci, monsieur. Oui, je viens d’un pays d’Asie appelé le Japon. A bientôt donc.」

(ありがとう、ムッシュ。うん、アジアの日本って国から来たんです。それじゃあ)

「ジロちゃん、こっち。川沿いに歩いて、橋渡ったら見えてくるって」

「お、おう。あの、なんかゴメンな」

「ううん、いいの」

 次郎は英語は堪能で、オランダ語も日常会話以上は話せたが、フランス語はボンジュールとムッシュとMadamくらいしか知らない。

 対してお里は英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語と堪能だったのだ。

 お里は次郎の手を引いて、軽やかな足取りでセーヌ川沿いの道を歩き出した。

 パリの街並みは、次郎の知る江戸とは全く異なる。

 石造りの建物が並び、広い通りには馬車が行き交い、道行く人々の服装も色とりどりだ。喧騒の中にも洗練された雰囲気が漂っている。

「ねえ、ジロちゃん。あそこのお店、美味しそうなパンがいっぱいあるよ。ちょっと寄ってみる?」

「おお、うん、寄ろう」

 二人は小さなパン屋に立ち寄った。

 店内には焼きたてのパンの香ばしい匂いが充満している。お里は店員と流暢なフランス語でやり取りし、いくつかのパンを選んだ。

 次郎は、お里が異国の言葉を自在に操る姿を改めてすごいと感じた。彼女の語学力は、大村藩の国際的な活動において、どれほど大きな助けとなってきたことか。

 パン屋を出ると、二人は再びセーヌ川沿いを歩き始めた。焼きたてのパンをかじりながら、他愛もない会話を交わす。

 万博での成功、故郷の大村のこと、そして二人の子供たちのこと。異国の地で、二人きりで過ごす時間は、何よりも次郎にとって心安らぐひとときだった。

 お里、ありがとう。

 やっぱりオレにはお前が必要だよ。

 ……いや、お静、お前ももちろん。

 2人とも必要だよ。

「はっくしゅん!」

 次回予告 第407話(仮)『鉄を繋ぐ火花』

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