慶応三年五月二十二日(1867年6月24日)パリ
大村パビリオンでは、電話機の実演が始まった。
「Hallo! Kunt u mij horen?」
(もしもし! 聞こえますか?)
離れた場所のもう一台の電話機からオランダ語で話しかけると、受話器を持つ人物の表情が驚きに変わった。
「Ja! Ik kan u heel goed horen! Dit is ongelooflijk!」
(はい! 非常によく聞こえます! これは信じられない!)
その声に、会場はどよめきに包まれた。
続いてフランス語・英語・ドイツ語等の主要言語での通話が実施される。
その都度受話器から聞こえてくる人間の声に、見学者たちは驚きと興奮の声を上げた。
電信は急速に普及し、一般人でも使えるレベルになっていたが、遠隔地との音声通信は、当時の人々にとっては想像もつかない技術だった。
ビジネス、軍事、そして日常生活。あらゆる分野に革命をもたらす技術の芽生えを、人々は目の当たりにしたのである。
電話機の実演に続き、電磁波の送受信装置のデモンストレーションが行われた。
これは、パビリオン内の特設ブースで行われたため、限られた関係者のみが見学できた。
装置は、巨大なコイルと火花放電装置から構成されている。スイッチを入れると、火花が飛び散り、その瞬間、離れた場所に置かれた受信機が反応するのだ。
受信機には光るランプを取り付けていて、火花が飛ぶたびに点滅した。
「これを、我々は電磁波と呼んでいます。空間を伝わり、壁も通り抜けます」
廉之助が説明するが、その原理を完全に理解する者はいなかった。しかし、目に見えない波が情報を伝達する仕組みに、技術者たちは強い関心を示したのである。
特に、エコール・ポリテクニークの技術者たちは、熱心に質問を重ねた。
彼らはマクスウェルの電磁場理論を学び始めていたが、その実証を目の当たりにしたのは初めてだったからだ。
盗難事件は、表向きは伏せられたままである。
■パリ郊外の安宿
2人のドイツ人技術者、シュミットとクラウスが、眉間に深いシワを刻んで座っている。
彼らの目の前には、先日苦労して入手した日本の『新型機関』に関する記述書があった。
その横には、額に汗をにじませた日本語通訳が小さな辞書を何度もめくっている。
史実とは違って日本とドイツはまだ正式な国交がなく、通訳の語学力も、専門用語に関しては心もとなかったのだ。
シュミット:「もう一度最初の部分を頼む。『ナイネンキカン』……いや、先ほどは何と言ったかな?」
通訳:「は、はい……ええと、『ナイネンキカン』は……『内部を冷やす機械』、つまり『冷却機関』であると。その一種である、と記されております」
シュミットはクラウスと顔を見合わせた。
クラウス:「冷却機関? エンジンが、か? 冷やして動力を得るとでも言うのか?」
通訳:「はあ……そう……書かれております。続けて、『密閉された冷却室の内部にて、揮発油と呼ばれる液体と水を混ぜ合わせ、瞬時に凍結させる。これにより生じる冷気の力を直接利用して機械を動かす仕組みである』と……」
シュミット:「待って、待ってくれ! 揮発油……ベンジンに近い物質だろうか……それに水を混ぜて……凍らせる? 冷気で動かす?」
「その『凍結』という言葉、本当にそれで合っているのかね?」
キツネのような冷徹なまなざしの情報部員が、威圧的に尋ねた。
通訳は辞書を指さし、自信なさげにうなずく。
「『凍結』……ええ、氷になる、その意味と把握しています……間違いは……」
通訳の言葉にクラウスが大きなため息をついた。
「まるで錬金術だな。いや、それ以下かもしれん。それで、その『4つの動き』とやらはどうなっているんだ?」
技術者2人と通訳の悪戦苦闘は続く……。
リリエンタール兄弟は、万博会場で日本の技術を見学し続けていた。
「兄さん、日本人たちの技術は本当にすごいね。僕たちの知っている技術とは全く違う……」
「ああ、グスタフ。特にあの電磁波の技術は……もしあれが実用化されれば、世界は大きく変わるだろう」
彼らは、日本の技術が切り開く未来の大きな可能性に感銘を受けていた。そして、いつの日か空を飛ぶ技術を自分たちの手で成し遂げる夢を、一層強く胸に抱いたのである。
――その夜。
「ボンジュール、次郎殿。久しぶりですね」
次郎は驚きの表情を浮かべた。
そこに立っていたのは、かつて日本に駐在していたフランス公使、シャルル・デュシェーヌ・ド・ベルクールである。
現在はチュニス総領事を務めているが、パリ万博のために一時帰国していたようだ。
「ベルクール殿! お久しぶりです。パリにいらしていたとは」
「私も驚きました。次郎殿も万博に参加なさっていたんですね」
2人は互いに握手を交わした。
ベルクールは日本滞在中、次郎とも親交があった。国益のために時には衝突もしたが、大村藩の開明的な姿勢に好意的だった外交官である。
「少し話せる場所はありますか?」
ベルクールの表情が真剣になる。
次郎は即座に状況を理解し、隼人に目配せして、プライベートな会話ができる小部屋へと案内した。
部屋に入るとベルクールは声を落とした。
「昨夜の出来事について、心からおわび申し上げます」
「何の話でしょう?」
次郎は平静を装いながら問いかけた。
「パビリオンでの……盗難事件です」
ベルクールは周囲を確認してから続ける。
「万博警備の責任者から報告を受けました。フランス政府としては、この事態を極めて深刻に受け止めています。開催国として、参加国の安全と財産を守れなかった点は恥ずべき失態です」
次郎は沈黙したまま、ベルクールの言葉を待った。
「私はナポレオン3世陛下の非公式な特使として、この件についておわびに参りました。陛下も日本の技術に深く感銘を受けておられ、この事態を非常に遺憾に思っておられます」
「ベルクール殿、我々としても、このような事態を公にするつもりはありません。万博の名誉を傷つける事態は避けなければなりませんからね」
ベルクールはほっとした表情を見せた。
「次郎殿の寛大なお心遣いに、感謝いたします。我々にも何かお力になれる点がありましたら……」
次郎は内心満足した。
計画の重要な部分—フランスとの外交カードを得る—が実現しつつあったのである。
「実は」
次郎は少し笑みを浮かべた。
「盗まれた品は、真の技術を反映していません」
「どういうことですか?」
「我々は技術スパイの可能性を予測していました。展示しているのは実際に動作する製品ですが、盗まれた設計図や部品は意図的に作られた『教育用』のモデルなのです。それらを使って製造しようとしても、正しく機能しません」
ベルクールは一瞬驚いたあと、笑みを浮かべた。
「なるほど……さすが次郎殿ですね。私が聞いた情報では、犯人はプロイセン関係者だと思われます」
「我々もそう考えています」
「では、その件については……」
「大きな問題ではありません。むしろ、このような形でフランス政府に誠意を示していただけて、感謝しています」
ベルクールはほっとした様子で言った。
「では、この件は水面下で解決した、との認識で進めます。ただ、今後のために警備を強化します。目立たない形で」
「ありがとうございます」
会話が一段落すると、ベルクールは別の話題に移った。
「ところで、次郎殿。明後日、甲吉郎様向けに小さな晩餐会を用意しています。ナポレオン3世陛下の側近も出席予定です。もちろん、次郎殿にも同席していただければ」
「喜んで」
日本の幕府との晩餐会は開催されたが、一家中の大村藩が晩餐会の主賓とは、かなりの厚遇である。
「それでは、明後日お会いしましょう。今日の電話技術の実演は素晴らしかった。パリ中が話題にしています」
ベルクールが去った後、隼人が部屋に入ってきた。
「あれは……ベルクール公使ではないですか?」
「ああ、彼が非公式に謝罪に来たんだよ。フランス政府はすでに盗難を把握していたみたいだね」
「作戦は成功ですね」
「ああ」
次回予告 第405話 (仮)『武士の商人化、商人の武士化』

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