第392話 『喜望峰沖の嵐』

 慶応二年一月六日(1867年2月12日)喜望峰沖

 大村藩海軍艦艇『知行』を旗艦とした日本国万博遣欧艦隊は、南緯三十八度、喜望峰沖の海上を進んでいた。

 夕暮れの空は一面灰色の雲に覆われ、海面は不自然なほど静まり返っている。

「嵐の前の静けさだな……」

 知行の艦橋で誰かが呟く。

 不安を感じさせる、どこか不気味な静寂が艦隊全体を包み込んでいた。

「心配か?」

 艦長の顕武は、舵輪を握っている当直士官に尋ねる。

「いえ、それがしは……」

「隠さずとも良い。この時期に嵐が来たのなら、それは運が悪いとしか言いようがない。されど、恐れることはない。恐れても何も変わらん。我らは日々訓練に励んできたではないか。それをすべて出して乗り切れば良いのだ」

「はっ」

 そうは言ったものの、バタヴィアでの嵐も四苦八苦したのだ。

 喜望峰回りはさらに強い嵐がふくという。

 艦橋の窓から見える景色は、まるで水墨画のように灰色一色に染まっている。海と空の境界線さえ、ぼんやりと曖昧になっていた。

「この『知行』は『大成』と同型艦、『大成』は同じ海域を通ってオランダから大村に来たのだ。必ず絶えうる。万全の備えをもって臨むのだ」

 そう断言した顕武であったが、気がかりなのは知行だけではない。後方では補給艦に加え、潜水艦と水雷艇を曳航している。それらの安全も確保しなければならない。

 いや、オレが他の艦を案ずるなどおこがましい。

 オレは『知行』のことのみ考えれば良いのだ。

 他の艦は隼人助様や父上が考えること。

 南緯38度の海域――。

 大村海軍旗艦『知行』の気圧計の針が29.2インチを指した。

「艦長、気圧が29.2インチを下回りました」

 気圧計を監視していた航海士の声が、緊迫した艦橋内に響いた。この数値は、明らかに通常値を下回っている。

「くそ。まじか(父親の口癖がうつった。いないときに使う)」

 通常値とは1気圧(約29.92インチ)。

 それ以下、下がっているということは、低気圧で嵐が近づいている予兆の一つである。

 顕武は即座に気圧計に目を向けるが、針はやはり29.2インチを下回っていた。

 艦橋の窓からは、次第に荒れ始める海面が見える。

 白波が立ち始め、波は刻一刻と高さを増しているのだ。

 この海域は「Roaring Forties(怒れる40度)」と呼ばれ、強い西風と荒波で悪名高い。

 かろうじて38度。

 揺れは穏やかだったが、顕武は経験からこの先に待ち受けているものを察していた。

 波の高さが増すにつれ、水平線は徐々に視界から消えていく。灰色の海と空が溶け合い、その境界線は曖昧になっていった。

 ごおおおお……。

 遠雷のような音が響き、艦は徐々に揺れ始めた。

 顕武は手すりを掴み、足を踏ん張る。まだ大きな揺れではないが、これが時間とともに激しくなることは目に見えていた。

 あの音は嵐の前触れだ。

 すでに艦は大きく揺れ始めており、艦橋内の乗組員たちは手すりや壁を支えにしている。

「曳航索の張力が限界です!」

 航海長の叫び声に、顕武は後方を振り返る。潜水艦『大鯨』を繋ぐ索具が、まるで弓の弦のように張り詰めていた。

「このままでは持ちません! 切断しますか!?」

 顕武は歯を食いしばる。

 切断すれば潜水艦は自力航行を強いられる。海面下に潜航は可能だが、この荒天下での離脱は危険を伴う。

 しかし、切断しなければ『知行』はともかく、『大鯨』の船体に影響があるかもしれない。

「艦長! いかがいたしましょう!」

 航海長の声が、荒れ狂う風の音に消されそうになる。

 次郎は一瞬目を閉じ、すぐに開いた。

「追い波で防げんか?」

 波を受け流すように艦の向きを変えることで、曳航索への負担を軽減できる。

 しかし逆にリスクもある。

「できなくはありませんが! ブローチングの危険もあります!」

 操艦が困難になる上に、横滑りして波と平行になる危険性があるのだ。

「航海長! もしこのまま『大鯨』のみ漂流したら、どのあたりになるか!」

 嵐の際のシミュレーションはしていたが、できれば考えたくないことであった。

「わかりませんが! 運が良ければポートエリザベスかイーストロンドン! 悪ければ……プリンスエドワードかクローゼあたりかと! しかし、いずれにしても両艦とも危険です!」

「ぐ……」

 顕武は考えたが、『知行』だけの話ではない。

 新鋭潜水艦『大鯨』と水雷艇『神雷』のことも踏まえれば、独断での判断はできない。

「しばし待て! 沙汰を受けてまいる」

 顕武は航海長に操舵を任せ、士官室に向かい父である次郎の裁可を仰ごうとした。

 その瞬間――。

「顕武! 如何じゃ!」

 走り込んできた次郎と鉢合わせした。

「……切れ!」

「然れど父上! それでは『大鯨』は間違いなく漂流します!」

「ではこのままにしておくのか? よほど危ういではないか!」

 そう叫ぶ次郎の形相を、顕武は初めて見た。

「良いか! オレが好き好んで言っておると思うか? すでに甲吉郎様にもお伝えし、許しを得た。お前はもし、殿や甲吉郎様、修理様と戦場で窮地に陥ったとき、共倒れを選ぶのか! それに漂流したとて死ぬとは限らん!」

「ははっ! ……航海長! 曳航索を切断せよ!」

 次回予告 第393話 (仮)『大鯨と神雷』

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