慶応二年一月六日(1867年2月12日)喜望峰沖
大村藩海軍艦艇『知行』を旗艦とした日本国万博遣欧艦隊は、南緯三十八度、喜望峰沖の海上を進んでいた。
夕暮れの空は一面灰色の雲に覆われ、海面は不自然なほど静まり返っている。
「嵐の前の静けさだな……」
知行の艦橋で誰かが呟く。
不安を感じさせる、どこか不気味な静寂が艦隊全体を包み込んでいた。
「心配か?」
艦長の顕武は、舵輪を握っている当直士官に尋ねる。
「いえ、それがしは……」
「隠さずとも良い。この時期に嵐が来たのなら、それは運が悪いとしか言いようがない。されど、恐れることはない。恐れても何も変わらん。我らは日々訓練に励んできたではないか。それをすべて出して乗り切れば良いのだ」
「はっ」
そうは言ったものの、バタヴィアでの嵐も四苦八苦したのだ。
喜望峰回りはさらに強い嵐がふくという。
艦橋の窓から見える景色は、まるで水墨画のように灰色一色に染まっている。海と空の境界線さえ、ぼんやりと曖昧になっていた。
「この『知行』は『大成』と同型艦、『大成』は同じ海域を通ってオランダから大村に来たのだ。必ず絶えうる。万全の備えをもって臨むのだ」
そう断言した顕武であったが、気がかりなのは知行だけではない。後方では補給艦に加え、潜水艦と水雷艇を曳航している。それらの安全も確保しなければならない。
いや、オレが他の艦を案ずるなどおこがましい。
オレは『知行』のことのみ考えれば良いのだ。
他の艦は隼人助様や父上が考えること。
南緯38度の海域――。
大村海軍旗艦『知行』の気圧計の針が29.2インチを指した。
「艦長、気圧が29.2インチを下回りました」
気圧計を監視していた航海士の声が、緊迫した艦橋内に響いた。この数値は、明らかに通常値を下回っている。
「くそ。まじか(父親の口癖がうつった。いないときに使う)」
通常値とは1気圧(約29.92インチ)。
それ以下、下がっているということは、低気圧で嵐が近づいている予兆の一つである。
顕武は即座に気圧計に目を向けるが、針はやはり29.2インチを下回っていた。
艦橋の窓からは、次第に荒れ始める海面が見える。
白波が立ち始め、波は刻一刻と高さを増しているのだ。
この海域は「Roaring Forties(怒れる40度)」と呼ばれ、強い西風と荒波で悪名高い。
かろうじて38度。
揺れは穏やかだったが、顕武は経験からこの先に待ち受けているものを察していた。
波の高さが増すにつれ、水平線は徐々に視界から消えていく。灰色の海と空が溶け合い、その境界線は曖昧になっていった。
ごおおおお……。
遠雷のような音が響き、艦は徐々に揺れ始めた。
顕武は手すりを掴み、足を踏ん張る。まだ大きな揺れではないが、これが時間とともに激しくなることは目に見えていた。
あの音は嵐の前触れだ。
すでに艦は大きく揺れ始めており、艦橋内の乗組員たちは手すりや壁を支えにしている。
「曳航索の張力が限界です!」
航海長の叫び声に、顕武は後方を振り返る。潜水艦『大鯨』を繋ぐ索具が、まるで弓の弦のように張り詰めていた。
「このままでは持ちません! 切断しますか!?」
顕武は歯を食いしばる。
切断すれば潜水艦は自力航行を強いられる。海面下に潜航は可能だが、この荒天下での離脱は危険を伴う。
しかし、切断しなければ『知行』はともかく、『大鯨』の船体に影響があるかもしれない。
「艦長! いかがいたしましょう!」
航海長の声が、荒れ狂う風の音に消されそうになる。
次郎は一瞬目を閉じ、すぐに開いた。
「追い波で防げんか?」
波を受け流すように艦の向きを変えることで、曳航索への負担を軽減できる。
しかし逆にリスクもある。
「できなくはありませんが! ブローチングの危険もあります!」
操艦が困難になる上に、横滑りして波と平行になる危険性があるのだ。
「航海長! もしこのまま『大鯨』のみ漂流したら、どのあたりになるか!」
嵐の際のシミュレーションはしていたが、できれば考えたくないことであった。
「わかりませんが! 運が良ければポートエリザベスかイーストロンドン! 悪ければ……プリンスエドワードかクローゼあたりかと! しかし、いずれにしても両艦とも危険です!」
「ぐ……」
顕武は考えたが、『知行』だけの話ではない。
新鋭潜水艦『大鯨』と水雷艇『神雷』のことも踏まえれば、独断での判断はできない。
「しばし待て! 沙汰を受けてまいる」
顕武は航海長に操舵を任せ、士官室に向かい父である次郎の裁可を仰ごうとした。
その瞬間――。
「顕武! 如何じゃ!」
走り込んできた次郎と鉢合わせした。
「……切れ!」
「然れど父上! それでは『大鯨』は間違いなく漂流します!」
「ではこのままにしておくのか? よほど危ういではないか!」
そう叫ぶ次郎の形相を、顕武は初めて見た。
「良いか! オレが好き好んで言っておると思うか? すでに甲吉郎様にもお伝えし、許しを得た。お前はもし、殿や甲吉郎様、修理様と戦場で窮地に陥ったとき、共倒れを選ぶのか! それに漂流したとて死ぬとは限らん!」
「ははっ! ……航海長! 曳航索を切断せよ!」
次回予告 第393話 (仮)『大鯨と神雷』

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