第480話 『鋼鉄の恫喝(どうかつ)』

 慶応五(明治二)年六月十一日(18 慶応五(明治二)年六月十一日(1869年7月19日) 大坂城

 ――発 天保山台場守備隊長 宛 大阪城代

 本日巳刻みのこく(午前10時前後)沖合に大村軍艦十数隻現る。

 中黒旗なし日章旗と藩旗のみ。

 意図不明指示を乞う――




 大坂城代の牧野貞直は、天保山台場からの電信を受けて驚きのあまり立ちすくんだ。

 城内の広間は騒然となる。

 事前の連絡もなく大村の大艦隊が大阪湾沖に現れたのだ。

「直ちに江戸と京都へ電信を送る。天保山ならびに他の守備隊に動くなと伝えよ。加えて小舟を出し、意図を確かめさせよ」

「ははっ」




 ■大村藩第一艦隊旗艦『知行』艦上

 陸地の混乱を次郎は艦橋から双眼鏡で静かに眺めていた。

 表情は静かな海面のように穏やかで、感情の高ぶりなど少しもない。

 艦隊司令の江頭隼之助が海図を前に報告する。

「御家老様。艦隊は予定通り大阪湾中央部に展開いたしました。神戸の外国人居留地からも、十分に威容を視認できるはずです」

「うむ」

 次郎は短く応じた。

「幕府からは何かあるか」

「今のところ一切ありませぬ。ただ遠巻きにこちらをうかがっているのみの様子」

 完全に次郎の計算通りであった。

 意図が分からない以上、幕府は即座に対応できない。

 家茂は京都にあって、慶喜や海舟も将軍上洛のために随行していたが、正確な情報がない限り、軽々しくは動けないのだ。




 ■同日 神戸外国人居留地

 大阪湾の異変は、神戸に領事館を置く列強の知るところともなっていた。高台に陣取った各国の領事や駐在武官たちは、競うように望遠鏡を沖合へ向ける。

「あれがイギリスを破った大村艦隊か……。確かもう一個艦隊保有していると聞く」
 
 駐在武官が、驚嘆の声を上げる。

 視線の先では大村艦隊が蒸気を上げ、一糸乱れぬ陣形で湾内をゆっくりと航行していた。計算され尽くした見事なまでの示威行動である。

「? 何だ? 幕府海軍の旗が掲揚されていない。まさか、大村藩が幕府の統制下にはないという、内外に向けた意志表示なのか?」




 ■京都 長州藩邸

 大村艦隊の大阪湾沖への登場は、京の薩長さっちょうをも揺るがした。

「次郎様が、幕府海軍の旗を降ろして大阪湾に……。一体、どういうおつもりだ」

 木戸孝允は、報告書を握りしめる。

 つい先日まで慎重に事を運ぶと、藩内の意見をまとめた矢先の出来事であった。

「さすが次郎様、面白いじゃないか。また盤面がひっくり返った」

 高杉晋作は、不敵な笑みを浮かべている。

「幕府も薩摩も下手に動けないゆえ、皆が次郎様の次の一手を待つしかない。まさに、天下の重しだ」

 久坂玄瑞も同意する。

「ああ。我らが動くべきときではない。大村藩の真意が明らかになるまで、静観するべきだ。下手に動けば、我らが真っ先に潰されかねん。それよりも岩倉様に会いに行こう」

「おお、そうであった」

 久坂の提案に2人はうなずいて藩邸を後にした。




 次郎の存在が、良くも悪くも全ての勢力の行動を縛り付けていたのである。




 ■京都 薩摩藩邸

 長州藩の面々が冷静であったのに対し、薩摩藩邸では真逆の反応であった。

 武力倒幕を進めるうえで新たな大義を得るために、江戸での騒乱を画策していたからである。

「……こいは、いかん」

 西郷隆盛は、苦々しい表情でつぶやいた。

 今、江戸で騒乱を実行に移せば、幕府はもとより大村藩からも世を乱す勢力と取られかねない。
 
「我らん動きを、完全に読まれとったとしか思えもはん。こん有り様で江戸で事を起こせば……敵になりかねん」

 大久保利通が厳しい顔で分析した。

「大村藩の真意を確かむっまでは、何もできもはん。策は、全て白紙に戻すしかなか」

 小松帯刀の言葉に、西郷も大久保もうなずくしかなかった。




 ■小浜藩邸

「何じゃと! ?」

 供回りから電信を受け取った慶喜は自分の目を疑った。

 藩邸には小栗上野介と勝海舟が滞在しており、上野介とは今後の財政を、勝とは幕府艦隊を率いての天覧海上演習実施の計画を練っている最中であった。

「上野介、安房守。これを見ろ」

 慶喜は苦々しい顔で2人に電信紙を突き出した。

 小栗は内容を一読して眉をひそめ、勝は険しい顔で黙り込む。

「……穏やかではありませぬな」

 小栗が静かに言った。勝は腕を組んだままだ。

「旗を降ろした、すなわち今の幕府には従えませぬと示しているに他なりませんな」

 勝の言葉に部屋の空気が凍りついたが、慶喜は間を置かずに言葉を発する。

「馬鹿な。従わぬとは、戦をしかけるわけでもなかろう」

「然に候」

 勝はすぐさま反論した。

「あの方はさように短慮ではございませぬ。戦など、もっとも忌むべきものとお考えでありましょう」

 慶喜は深く息を吸い込み、吐いた。

「お主は随分と左衛門佐を買っているようじゃの」

「無論にございます。今の日本を、この先背負っていくに欠かせぬ人物にございます」

 明らかに慶喜の機嫌が悪い。

 次郎の能力は買っているが、言動に許容できない部分が随所にあるのだ。

「されどその欠かせぬ男が、幕府に牙をむいておるではないか」

 慶喜は勝への不快感を隠さないが、勝は少しも動じない。

「牙ではなく、問いにございます。今の幕府に、このまま行くのか、本当にそれで良いのかと問うておるのです」

「さりとて」

 今度は上野介が発言した。

「障りとなるのは、大村艦隊が大阪の海の上におることは、実のところ封じておるのと同じにございます。捨て置けば我が国の商いの動きは一日で立ち行かなくなるまするぞ」

 小栗の指摘は、現実的な脅威を突きつけていた。

「さればこそ真意を問わねばなりますまい。こたび艦隊を遣わしたるは、いかなる仕儀かと」

 勝が冷静に発言し、慶喜は黙って聞いている。




 勝の言うとおりだ。

 下手に兵を動かせば、いかがなる?

 ここは大阪、それこそ諸外国の目がある。幕府海軍が赴けば、悪い印象を与えかねん。さりとて捨て置けば、上野介の申すとおり立ち行かなくなるであろう。

 それに動いたとて……。(幕府海軍に何ができる?)




 慶喜の脳裏に最悪のシナリオがよぎったが、無理やり頭の奥底に押し込めた。

「ならば誰が問うのだ。下手に使者を出して……(追い返されでもすれば幕府の威信は地に落ちる)。それに左衛門佐がかようなことをしておいて、幕府の使者に会うであろうか」

 次郎は門前払いはしないだろうと、慶喜も分かっていた。

 しかし、絶対はないのである。

「然に候。なればこそ、相手を知る者が要りまする。ここは、それがしにお任せいただけませぬか」

 勝の目に迷いはなかった。

 慶喜はしばらく勝の顔を見つめた後、静かに告げる。

「相分かった。お主に任す。しかと左衛門佐の本意を探ってまいれ」

「はは」




 ■京都御所

「い、岩倉よ……。これはいったい、いかなることでありましゃるか」

「関白様、お静かにあそばしませ。さきに奏上いたしましたように、左衛門佐殿(次郎)はただの演習だと申しておりましゃる。何も案ずることはないと」

 二条斉敬は大阪からの知らせを聞いて、気が気ではない。

 彼の脳裏には、数日前に慶喜の甘言に乗り、結果的に今まで朝廷を支えてきた次郎、ならびに大村藩の意向を退けた自分たちの姿が焼き付いていた。

 あの判断が、この事態を招いたのではないか。

「演習でありましゃるか? そもじ(あなた)は、本気で申しておるのかえ?」

 二条の声は裏返っている。

「幕府の旗を降ろしたは、わもじ(私)らへの当てつけではあらしゃいませぬか。中納言(慶喜)の策に乗ったわもじら(我ら)を、裏切り者と断じておるのでありましゃる。軍艦の砲がいつ御所へ向くか……」

 彼は疑い目で、あまりに落ち着き払っている岩倉を見た。

 岩倉だけが、全てを知っているように見えるのである。

「岩倉よ! そもじは左衛門佐と通じておるのではあるまいな!」

 絶叫にも似た問いに、岩倉は表情一つ変えなかった。

 沈黙が二条の恐怖を一層深いものにしている。

「通じるも何も、もう三十年以上前から懇意にしておりましゃる。そこまでわもじをお疑いであらしゃるなら、この岩倉、身命を賭して左衛門佐殿に本意を聞いてまいりましゃるぞ」




 一刻(2時間)もしないうちに、岩倉は大阪へ向かった。




 次回予告 第481話 『第二の矢』

 幕府の旗を降ろした次郎率いる大村艦隊が、突如大阪湾に出現。

 意図不明の武力示威は、薩長の策を頓挫させ、幕府と朝廷に激震を走らせる。

 事態を打開すべく、幕府からは勝海舟が、朝廷からは岩倉具視が、次郎の真意を問うため大阪へ向かうことを決意した。

 次回、鋼鉄の咆哮ほうこうが大阪湾を震わせ、大村海軍海兵隊の軍靴が京を目指す。

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