慶長八年五月二十五日(西暦1603年7月4日) フランス ラ・ロシェル港
3国をつなぐ電撃の結婚式が終わって、リスボンを発った蒸気船は北海をめざして航路を取っていた。
ビスケー湾は夏とはいえ海煙が濃く、陰鬱な灰色の波が船体を洗っている。
フレデリックとセバスティアンを乗せた純正一行は、リスボンで石炭の補給を済ませていた。ラ・ロシェルには外交目的があって寄港していたのである。
蒸気船が実用化されて数か月で日本とヨーロッパとの往来が可能になったとは言え、そうそう何度も訪問できるわけではない。
2度目の渡欧であったが、純正は通商関係にあるフランスのアンリ4世とその後継者や取り巻き、イギリスも同様に観察・分析する必要があると感じていたのだ。
会談の申し出にはアンリ4世も快く応じてくれている。
蒸気船が入港すると、港には予想以上の人々が集まっていた。
異国からやってきた煙を吐く巨船に、地元の商人や市民は驚きを隠せない。
純正は下船を許可したとき、港の奥に馬車が停まっているのを目にした。
脇に立つ兵士の制服はフランス王国の紋章を帯びている。やがて馬車から降り立った人物は、既に名をはせた王であった。鋭くも温和なまなざしを持つフランス国王アンリ4世である。
「遠方からの客人を歓迎できて大変名誉に思います」
アンリは自国港に到着した日本の皇帝を、大げさにではなく、あくまで自然に迎えて敬意を示した。その態度はセバスティアンの勧めもあったのだろう。
やがて市庁の一室に、純正、セバスティアン1世、アンリ4世が集まった。
「お目にかかれて光栄です、平九郎陛下」
「こちらこそ、アンリ4世陛下」
整備の行き届いた港湾設備や働く人々の装いや振る舞いを見て、国民の生活が安定しているのがわかる。火山の冬の影響はあったのだろうが、ポルトガルからの支援でしのげているようだ。
「実は陛下、折入って会っていただきたい人がいるのです」
「ほう、誰ですか?」
「私からもお願いします」
テーブルを挟んで談笑していた純正は、2人に請われて承諾したが、現れたのは意外な人物だった。
「現スペイン国王の、フェリペ3世陛下です」
セバスティアンの声に、純正の眉がピクリと動いた。
「フェリペ3世……国王自らがか……」
数年前、スペインは特使をリスボンの日本大使館に送り込んで和睦を探った。
しかし肥前国の実情を知らないまま、時代遅れの提案を持ち込んだだけに終わったのである。鼻で笑われた外交は、宮廷で『惨敗の外交』とささやかれる一件となっていた。
その記憶を知る純正は息を整え、短く告げる。
「前に使者を寄こしたが、無知と傲慢をさらしただけだったな」
セバスティアンとアンリもその過去を承知していた。
今回は使者ではなく、国王自身が来ている。それは、かつての失敗を乗り越える覚悟と同時に、亡国を避ける必死さの表れに違いなかった。
フェリペ3世が入室すると、場は重い沈黙に包まれる。
父の代からの懸案であった日本との関係正常化は、あまりに重い責務であった。
国王としての威厳を保とうとする豪華な衣装が、むしろ憔悴を際立たせている。
その視線は、部屋の上座に座る3人の王に向けられた。
主催者であるフランス王アンリ4世と、縁戚ではあるが疎遠になっているポルトガル王セバスティアン1世。さらに中央に座っているのは帝国の支配者、小佐々純正である。
フェリペ3世の目は釘づけになった。この男が父の代に帝国の栄光を東の海で打ち砕いたのである。
重い沈黙を破ったのは、会談の主催者であるアンリ4世だった。
「フェリペ陛下、長旅ご苦労でした。さあ座ってください。貴殿の願いもあって余とセバスティアン陛下が段取りをしました。後は両国の話ですので口出しはしません。じっくりとお話しください」
アンリは上座の純正から見て右手に座っていたが、左手のセバスティアンの隣を指さして着座を促した。
この状況では明らかにアンリ4世の方が格上であり、セバスティアンもしかりである。
スペインはアジア・太平洋地域から駆逐されて久しく、新大陸ではインカ・アステカの反乱で副王領は半壊状態にあった。
さらにアルマダの敗戦やオランダが南北合同して独立した経緯がある。極めつきは地中海諸島やイタリア南部での独立の機運が高まりであった。
新大陸ではイギリスにフロリダを割譲している。軍事費の増大と収入源の枯渇に、スペインは凋落の一途をたどっていたのだ。
対してアンリ4世のフランスは、宗教戦争の終結と経済復興政策の成功、中央集権化の進展で国内は安定している。スペインの弱体化と相対的に反ハプスブルク同盟の盟主としての地位も取り沙汰されるなかで、オランダとの協調関係の構築も見えてきた。
しかし、アンリはおくびにも出さない。平静を装っておごらずに丁寧に接していた。
アンリ4世が事実上の中立を宣言すると、部屋の空気はさらに重くなる。
全ての視線がフェリペ3世に注がれた。
彼は一度固く目を閉じて長く息を吐き出す。
そして意を決して純正に向かってゆっくりと歩み寄った。数歩の距離が永遠に感じられたかもしれない。
純正の目の前で立ち止まると、フェリペ3世はスペイン国王として、いやハプスブルク家の長として、考えうる限り最大の屈辱的な行為に及ぶ。
深々と頭を下げたのだ。
「平九郎陛下。私は……我がスペインは、貴国との長きにわたる敵対関係を清算し、和平を乞うためにここに来ました」
一人称の『余』さえ使わない。
本心かどうかは別として、へりくだっているのは明らかである。
『乞う』とフェリペは言った。
震えてはいたが、はっきりと発言したのである。
一国の王が、ましてやかつてポルトガルと世界を二分した世界帝国スペインの王が、公の場で使うにはあまりにも重い言葉であった。
純正は冷ややかに見下ろしたまま動かない。
「和平を乞う、か。6年前、貴国の使者が我が大使に述べ立てた戯言とは、大きな違いだな」
その言葉は、鋭い刃物のようにフェリペ3世のプライドを切り裂いた。
「あの時、貴国はまだ自らが世界の中心だと信じていた。無知と傲慢の代償を、今ここで支払う覚悟があって来たのだろうな」
純正の目は、一切の情を映していない。
「顔を上げよ。王が頭を垂れる姿は見苦しい。貴殿がここにいるのは、覚悟があるからだろう」
フェリペ3世は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、屈辱とわずかに安心した表情が浮かんでいる。
おのれ、見ておれ。今だけだ。今だけだ……。
純正は続けた。
「よかろう。我が国も無益な争いは望まない。だが、和平には明確な条件がある。これは交渉の材料ではない。貴国が受け入れるか、拒むか、それだけの話だ」
彼は懐から一枚の紙を取り出し、テーブルの中央に滑らせた。
「第一にスペインは、アジア・太平洋全域における全ての領土権益を、公式かつ永久に放棄せよ」
6年前、スペインが最も恐れていた領土の割譲である。
それが現実として突きつけられた。
しかし割譲も何も、既に何年も前から大日本帝国民が多数入植済みで、行政が行き届いている地域である。
トルデシリャス条約やサラゴサ条約など、純正の知ったことではない。
純正は構わずに続ける。
提示した残りの条件は次のとおりであった。
・今後、アジア太平洋海域における軍事拠点の設営と、規模にかかわらず艦隊の派遣を永久に禁ずる。
・我が国の交易路・交易船・交易商団の安全の保障は必ずせよ。
・新大陸におけるインカ・アステカの権利を認めよ。
・過去、我が国に対して行われた全ての敵対行為に対する相応の賠償金を支払え。
6年前、グスマン特使が必死に避けようとした賠償金である。
その全てを、純正は増幅して目の前に突きつけたのだ。
提示された全ての要求は、あまりに厳しい内容である。アンリとセバスティアンは、その厳しさに息をのんだ。
しかし、彼らは口を開かない。
勝利者が敗者へ示す当然の権利だと、2人は理解していたのだ。
純正は言葉を発さずにスペイン王の返答を静かに待つ。
これは、6年前の交渉の続きではない。
旧時代の覇者が、新たな時代の支配者に、その地位を明け渡すための儀式であった。
おのれ、おのれ、おのれ……。
この屈辱、絶対に忘れぬぞ!
次回予告 第918話 (仮)『北海への航路』

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