第915話 『純勝の恋と再びのコンスタンティノープル』

  慶長八年三月十六日(西暦1603年4月27日) リスボン

「は? 何だって? もう1回言ってみろ」

「いえ、ですから父上、某……」

「ああもう! はっきり申せ!」




 どうした?

 いつになくモジモジしている。

 まあこいつのことだから、案外大したことないかもな。




 歓迎祝賀会のなか、トイレに行った際に純勝が告白してきたのだ。

「実は……好きな娘ができました」

「!」




 何て?

 いや、好きな子って、ここポルトガルよ?




「いや……お前、歳を考えろ。それにいったい誰を……」

 純勝は宴席会場の隅を指さした。

 年齢は17~18歳だろうか。

 まだ社交界デビューしたばかりの初々しい女の子である。




 いやそれ、犯罪……いや、犯罪にはならないか。




 きらびやかなドレスをまとった貴婦人たちの輪から少し離れた場所に、少女はいた。

 他の令嬢みたいな華美な装飾はなく、質素なドレスを身につけている。

 しかし、その立ち姿にはりんとした気品があった。伏せられた長いまつ毛が、白いほおに影を落とす。彼女の周りだけが、宴の騒がしさから切り離された静寂に満ちていたのだ。

「あそこの娘か……。いつの間に知り合った」

 純正の声にはあきれと困惑が混じっていた。

 皇太子の立場を考えれば、あまりにも軽率な行動である。しかし純勝の表情を見れば、ただの火遊びではないのは確かだ。その瞳には、今までにない真剣な光が宿っている。

「先ほど、少しだけ言葉を交わしました。マルガリーダと……そう、言っていました」

 純勝の声はわずかに上ずっていた。

 顔も紅潮している。言いたくない告白の気まずさのなかに、胸を躍らせる何かを感じさせるのだ。

 たった一度の短い会話で、完全に心を奪われた様子が見て取れる。




 オレはこめかみを押さえた。

 頭が痛い。

 息子の恋心を否定するつもりはないけど、ここは異国の地で、しかも相手は現地の貴族じゃないか。身分も家柄も何にも分からないんだぞ。




「マルガリーダ……。どこの家の者か、聞いたのか」

「いえ、そこまでは。ただ、他の方々とは少し違う様子でしたから、おそらくは……」

 純勝は口ごもった。

 おそらくはそれほど高い身分ではないのだろうと、彼自身も感じ取っているのだ。

 それが事実であれば、問題はさらに複雑になる。

 大日本帝国の皇太子が、ポルトガルの下級貴族の娘に懸想する。政略の道具にされる可能性も、外交問題に発展する危険性も十分にあった。

「いいか、純勝。お前の気持ちは分かった。されど急いてはならん。立場をよく考えろ。この件はオレが預かる」

 純正は強い口調で息子を諭した。今は宴の最中であり、ここで長く立ち話をするのは目立つ。

「今は席に戻れ。決して、自分から彼女に近づいてはならん。良いな」

「……はい」

 純勝はしぶしぶながらも、父の命令にうなずいた。

 彼はもう一度名残惜しそうにカタリナの方へ視線を送ると、静かに宴の輪の中へ戻っていく。




「さて、中座して申し訳ない」

 席に戻った純正は、何事もなかったように会話を再開させた。

 昨日のフレデリックとセバスティアンの娘ならば、同じ文化圏で身元がはっきりしている。

 それならばどんなに楽か。

 ため息をするわけにもいかず、純正は適当に周囲の会話に相づちをうった。

「それにしても……さすがに宗教関係者は少ないようですが、いろんな方が集まっていらっしゃるのでしょう? 皆さんきらびやかで……」

「そうですね。今回は国をあげての祝賀会ですから、噂を聞いて国中から貴族や名士が集まっております」

 !

 純正はひらめいた。

「確かに……ん? あの女性は……まだ若い。20歳前に見えますが、どちらかの貴族ですかな?」

 やんわりと聞いてみたのだ。

 来賓の詳細を聞くならセバスティアンが一番である。

「ああ……あの子ですか……。あの子は……」

 なぜか分からないが、セバスティアンは口ごもって言いづらそうである。

「? どうかされましたか? 何か特別なことでも?」

「……いいでしょう。あの子は私と公妾こうしょうとの間の娘なのです。今日が社交界のデビューと聞いておりましたが、いやはや……。まあ、何と申しましょうか。若気……ではありませんな、お恥ずかしい。しかし……貴国には側室やそばめのしきたりがあるとか。陛下におかれては別段珍しくもありませんでしょう」




 何だって?

 いや、まじか。

 ああそうだ。キリスト教国では一夫一婦制だから、側室なんていないんだ。




 しかし実際には、王侯貴族の間では公妾の存在が半ば公然と認められていた。

 王妃とは別に、王が寵愛ちょうあいする女性に与える公式な地位である。

 彼女たちは宮廷で一定の影響力を持ち、その子供は庶子とされた。庶子は通常、王位継承権を持たない。ただしその代わり、貴族の称号や財産を与えられるのが通例であった。

 厳格な一夫一婦制の建前と、王の権力の現実が生み出したヨーロッパ特有の慣習なのである。

 ただ問題は、息子の一目ぼれの相手が、よりにもよって国王の娘である事実だ。

「何と……それは驚きました。セバスティアン陛下のご息女でいらっしゃいましたか」

 純正は内心の動揺を隠し、平静を装って言った。セバスティアンが口ごもった理由も理解できる。庶子である娘を、異国の皇帝にどう説明すべきか迷ったのだろう。

 しかし純正にとってはむしろ好機であった。

「陛下。打ち明けていただき、感謝いたします。我が国では、確かに側室の制度がございます。生まれた子の身分に違いはあれど、父親の血を引く子である事実は変わりありません」

 純正はセバスティアンの目をまっすぐに見て続けた。

「率直に申し上げます。実は先ほど、我が息子が、ご息女であるマルガリーダ嬢に心を奪われたと、私に打ち明けてまいりました」

「な……何と!」

 今度はセバスティアンが驚く番であった。彼の顔に、困惑と期待が入り混じった複雑な表情が浮かぶ。

「もちろん、皇太子の立場でありながら、あまりに唐突な話であるのは承知しております。しかし、息子の様子は真剣でした。もし、この縁が結ばれるならば、これほど両国の絆を深めるものはないと考えますが、いかがでしょうか」

 下級貴族の娘であれば、反対せざるを得なかった。

 しかし、相手が国王の娘となれば話は全く違う。

 庶子の立場はこの際小さな問題であった。

 いや、むしろ正妃の子でないからこそ、他国へ嫁がせる際の政治的障害も少ない。

 セバスティアンは、純正の言葉の意図を瞬時に理解した。

 彼の脳裏では、政治的な計算が高速で回転する。

 日本との血縁関係は、彼の進める近代化改革にとって、何物にも代えがたい強力な後ろ盾となる。

「……平九郎陛下。そのお言葉、本当ですか」

「無論です。この縁談、前向きにご検討いただきたい」

 2人の指導者の視線が、熱を帯びて交錯した。

 純勝の淡い恋心は、今や両国の未来を左右する、重大な外交案件へと姿を変えようとしていたのである。




 ■オスマン帝国 コンスタンティノープル

 両国の首脳がしっかりと視線を交わしたその頃、地中海を越えたコンスタンティノープルでもまた、静かな歴史の転機が訪れていた。

 宮殿付近の練兵場には、数百メートル離れて電信の送受信装置が設置されている。




 ――東方よりの光――




 取り付けられた鍵を押すと、奥に置かれた針が一定の間隔で震え、紙片に細かな点と線を刻む。

 日本から持ち込まれた電信機の実演であった。

 中浦ジュリアンが説明を加え、フレデリックが通訳を挟みながら仕組みを語る。

「ご覧のとおりでございます。送信の符号は瞬時に遠方へ届き、受信機ではこのとおり、紙に記録されます。風も嵐も関わりませぬ。国境も海も問わず、情報は1日にして数百、数千メンハレ(約45km)をつなぐのです」

 続いて机の上に置かれたもう1つの品に視線が移る。

 磨き上げられた銃身に鉄の輝きを宿す、雷管式のライフル銃であった。

 フレデリックが説明を続ける。

「こちらは我らが提供を約する新式の火器でございます。従来の火縄や火打ち石と異なり、雷管をたたいて着火させます。湿気や風に左右されず、迅速な射撃が可能となるでしょう」

 横に立つ兵士へ目配せすると、標的として設置された木板に銃口を向けて一発を撃ち込んだ。すると火花とともに雷鳴にも似た音が空気を揺らし、木板には深々と大きな穴が空いたのである。火薬の匂いが漂い、廷臣たちがざわつく。

 ハサン・パシャは深くうなずき、ゆっくりと口を開いた。

「……確かに見事な技術だ。これがあればワラキアでの戦いに大いに役立つ。電信も軍の命脈を保つに違いない。承知した。この協定、帝国として正式に認めよう」

 その一言は厚い石造りの宮廷の壁を越え、彼方にあるリスボン、そして江戸の宮廷へと響くであろう歴史的な合意であった。



 こうして、西と東の2つの都では同時に、大きな転換点が芽吹いていた。リスボンでは純勝の恋がはからずも外交の新しい道を開き、コンスタンティノープルでは電信と新兵器の登場が巨大帝国を動かしたのである。

 双方の動きはやがて一本の線となり、リスボンからインド洋へ。

 オランダからオスマン帝国を介してインドへ。

 そしてさらに東方へ延びる「大東方電信」へと結実していく。




 次回予告 第916話 (仮)『正式合意とアッバース1世。復興タウングー朝』

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