第893話 『覚醒』

 慶長五年四月二十五日(西暦1600年6月26日)美濃 岐阜城

 大阪での過酷な裁定から2日が経過し、信則たちは故郷の岐阜へ戻ることを許された。

 温情ではない。

 越前への移住準備で最後の務めを果たすためである。

 岐阜城下は肥前国の役人によって完全に管理下に置かれていたが、安堵あんどに満ちた活気が戻り始めている。

 肥前国から運ばれてきた米や塩が十分に配給されているので、飢えに苦しんでいた人々は、ようやく人心地ついた表情を浮かべていたのだ。

 民は新しい支配者を、飢えからの解放者として何の迷いもなく受け入れている。

 織田家の者にとって、自分たちの時代の完全な終わりを告げる光景だった。


 信則は城の一室でぼんやりと庭を眺めている。

 兄である信秀は、京の六条河原で斬首された。

 武井十左衛門も同じ運命をたどっている。

 蒲生氏郷や堀秀政などの織田家を支えてきた重臣たちも、数日のうちにそれぞれの移住先へ旅立つ段取りになっていた。

 もう二度と会わないかもしれない。

 二百五十二石。

 それが祖父・信長によって一時は天下に覇を唱えた織田家の、成れの果てだった。

「左衛門様」

 氏郷が静かに部屋に入ってきた。

 手には湯気の立つ薬湯のわんがある。

「忠三郎か。すまぬな、気遣いは無用だ」

「そう仰らず。お疲れが溜まっておいででしょう」

 氏郷は信則の側に座って薬湯を差し出した。

 疲れ切ってどこか悲しそうではあったが、それでもまだ役目を果たそうとしている感じがする。

「祖父上様のご容態は、如何いかがか」

 信則は祖父・信長について尋ねた。

 意識がもうろうとしながら寝起きを続けてきた信長は、この一連の騒動を知らない。それがせめてもの救いかもしれなかった。

「オットー殿と弦斎殿が、つきっきりで治療にあたっておられます。されど、未だ……」

 氏郷が言葉を濁したその時だった――。


 城代として留まっていた肥前国の役人が、慌てた様子で部屋へ駆け込んできた。

「左衛門様、蒲生殿! 中将様が……!」

 役人の言葉に信則と氏郷は顔を見合わせ、すぐさま立ち上がった。

 胸に、言いようのない予感がよぎる。

 2人は役人の先導で信長の居室へと急いだ。


 障子を開けると、信じられない光景がそこにあった。

 これまでただ横たわっているだけだった信長が、自らの力でゆっくりと、震える腕で半身を起こそうとしていたのだ。

 動きはひどく緩慢で衰弱しているのは明らかである。

 しかし、それは紛れもなく彼自身の意志であった。

「祖父上……?」

 信則の声は震えていた。

 信長はゆっくりと顔を上げる。

 目はまだうつろで焦点が定まっていない。

 だが、彼は信則と氏郷の存在を認識したようだった。薄く開かれた唇から、乾いた、かすれた声が漏れた。

「……ここは……」

 それは、半年にわたって誰も聞かなかった、織田信長の声だった。

「上様! お気づきになりましたか!」

 氏郷が感極まった声で駆け寄ろうとするのを、オットーが静かに手で制した。

「お静かに。まだ、意識が完全に戻ったわけではありませぬ。刺激が強すぎます」

 金髪に青い目。

 そこから発せられた流暢りゅうちょうな日本語に、氏郷は戸惑いを隠せない。

 信長の視線が部屋の中をさまよい、そして、信則の顔を捉えた。

「……三法師……ではないな。……左衛門か。……大きゅうなったな」

「は、はい……祖父上」

 信則は涙がこみ上げてくるのを必死にこらえた。

 半年前までは普通に過ごしていたのだ。『大きゅうなったな』などと、意識がはっきりしていないのに違いない。

 そう思っている。

 それでも祖父は自分を認識している。長い意識障害からついに目覚めたのだ。

 信則はその実感をかみ締めている。

「何があった……。わしは……如何いかほど……」

 信長の問いに誰も答えられない。

 この数か月で起きたあまりにも過酷な現実を、今この場で伝えるなどできるはずもなかった。


 信則は覚悟を決めた。

 信長が目覚めた以上、全てを話さねばならない。

 枕元に膝をつき、言葉を選びながら語り始めた。

 肥前国との決別による経済制裁と兄・信秀の決起。そして、その敗北と死がもたらした織田家中の解体と、二百五十二石の現在の状況。

 信則の話が進むにつれて、部屋の空気は重くなっていく。

 氏郷は顔を伏せ、オットーと弦斎も厳しい表情で聞き入っている。

 全てを聞き終えた信長は、何も言わなかった。

 目を閉じ、ただ静かに呼吸を繰り返している。

 その表情からは、怒りも悲しみも、絶望も読み取れない。まるで、遠い昔の出来事を聞いているかのようだった。

 しばらくして、信長がゆっくり目を開けた。

 さっきまでのぼんやりした目つきは、もうそこにはない。

 全てを理解し、受け入れた落ち着いた目をしている。

 長く寝ていたせいで気力を失っていたはずが、頭がさえ渡り、やせ細った体からも何か鋭い雰囲気が立ち上ってきていた。

 信長は、部屋にいる者たち一人ひとりの顔を順番に見渡す。

 そして静かに、しかし部屋の隅々まで響き渡る声でつぶやいた。

「……是非もなし……」

 その言葉は、孫たちの行動の結末と時代の移り変わりを、ただ事実として受け入れる言葉だった。

 過去を悔やみ、今後を心配する気持ちはない。今をそのまま受け入れる、潔い静けさがあるだけだった。


 次回予告 第894話 『純正と信長』

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