慶長三年十一月二十八日(西暦1598年12月26日) 大越国 東京(トンキン・ハノイ)
「何? 肥前国から使者が来たと? ふむ、お通しせよ」
後期後黎朝の都、トンキンの宮殿で、丞相である鄭松は使者の謁見を受けた。
「よくぞ来られた。肥前国からはるばるご苦労である」
鄭松は穏やかな口調で答えた。
数年前に鄭松は肥前国に使者を送り、交易を求めていた。しかし、当時は国内が安定していなかったために、純正は正式な交易を見送っていたのだ。
その後、国内の安定化に伴い、民間での交易はなされていたが、公式な国交は開かれていなかった。
「肥前国であり大日本国関白太政大臣殿下より、書状をお預かりしております」
使者は丁寧に頭をさげ、書面を開いて読み上げる。
鄭松の横にいる通訳官が日本語をベトナム語に訳していた。
大越国(ベトナムの正規王朝・後期後黎朝)は南部の広南国(名目上は大越国だが、実際は独立政権)と交易している。
また、非公式ではあったが民間で日本との交易はなされていたので通訳が存在したのだ。
「ほう……」
鄭松は使者の口上と書状の内容を聞き終えた後、短く相づちをうった。
使者が読み上げる口上の書面には、肥前国からの正式な国交樹立と交易開始の提案が記されていた。
さらに、莫朝への対応にも言及されている。
「黎朝の正統性を認め、交易を始めたいと……」
鄭松の目が輝いた。肥前国との交易は、大越国の発展に大きく寄与するはずだ。
「これはありがたい申し出だ。ぜひとも受け入れたい」
鄭松は側近に目配せし、返書の準備を指示した。肥前国との国交樹立は、莫朝との戦いにおいても大きな意味を持つ。
「御使者殿、これは、肥前国はわが国が、簒奪王朝である莫氏を攻めるのを認めて、支援すると受け取っても良いのかな?」
三国志の曹操に例えられる鄭松は、穏やかな表情の中にも鋭さが見え隠れしている。
「はい、されど……」
「されど?」
鄭松は首をかしげる。
「あくまで、わが国は他国の戦には首を突っ込みません。盛んに交易し、経済的な支援はいたしますが、兵を送り、戦うことはいたしませぬ」
「当然だな。利もなく兵を出すなど愚の骨頂」
「ただし、莫氏は明の支援を受けていたと聞き及んでおります。今、明は力を失っておりますが、再び力を増して貴国に圧をくわえるならば、それもやぶさかではないと仰せにございました」
「おお! これは力強い! 御使者殿、今宵は宴を用意しておる。存分に楽しんで行かれるが良い!」
鄭松は上機嫌で答えた。
この後、肥前国との交易で力を蓄えた後期後黎朝は北進し、ついに莫朝を滅ぼすのであるが、それはまた先の話である。
■開封府
「李化龍、李如松よ、登州の戦況はどうなのだ?」
万暦帝は宮殿の朝議の場で登州戦線の戦況を聞いている。
「陛下、わが軍は河間府を取り戻し、青州から北上して登州を取り戻しつつありますが……」
「が、何だ?」
「蓬莱に陣を敷いた女真軍は粘り強く、また沙門島からの補給もあって攻めあぐねております」
李化龍が青州から攻め上がり、李如松が河間府を取り戻した。
「しかしながら、徐々にこちらが優位になりつつあります。補給はあっても援軍がなければ籠城は下策。本来とるべき策ではございません。女真がそれをとったのは他に策がないため。さらに女真は、もともと守戦が得意ではありません」
「では、どれほどで落とせるか?」
李化龍と李如松は顔を見合わせた。
答えにくい質問である。
「……陛下、あと二月もあれば、可能かと存じます」
簡単に答えられる質問ではない。状況は刻一刻と変わるからだ。しかしそれでも、万暦帝は答えを欲していた。
「よし、では頼むぞ。天朝の未来は両将軍にかかっている」
「ははっ」
陛下、と李化龍が話を続けた。
「何だ李化龍よ、まだあるのか?」
「は。登州奪還と沙門島の敵の殲滅には、どうしても海軍の力が必要となります。強力な火器はもちろんですが、海戦に優れた船が多くいるのです」
「何が言いたいのだ?」
「わが国は先の肥前国との戦より、兵力を大幅に抑えなければならなくなりました。もっとも、それによって国内産業の振興と安定に力を入れられたのは事実です。しかし……」
李化龍が口ごもっているのをみて、李如松が続けた。
「そのため、海軍の弱体化を招いたのも事実です。現に十分な海軍がないために、女真の沙門島上陸を許し、拠点とされてしまったのです。厳しい状況だとは思いますが、肥前国に条約の撤廃もしくは、せめて往時の山東水師程度の保有を」
実際は、少し違う。
確かに肥前国と明国との間に結ばれた講和条約に、明国の軍事力を抑制する条文は存在した。往時の海軍力には遠く及ばないのも事実である。
しかしそれでも、浙江・福建・広東の水師をかき集めて北上させれば、女真との戦況にも変化があったかもしれないのだ。
陸軍と海軍のそれぞれの兵力の上限を定めた条文ではあったが、その内訳をどうするかまでは規定されていなかった。
そこで明は、国内の安定と産業の振興のために海軍予算を大幅に減らし、その予算を内政に振り分けたのである。
つまり、条文に関係なく海軍は弱体化していたのだ。
ここで明の予算配分の是非はあまり関係がない。限られた資源を有効活用するために、優先順位を決めて投下するのは理の当然だからだ。
沿岸の警備、つまり海軍はその予算の枠から外れたのである。
「陛下、よろしいでしょうか」
「何だ、礼部尚書」
顧憲成が話に入ってきた。
「軍備の条項に関しましては一考の余地があるかと思われます」
降伏の際の交渉に臨んだのは顧憲成であり、賠償金の分割払いに応じさせるために、軍備縮小案を自ら肥前国に提示したのだ。
金がないから一括は無理だ、分割にしてくれ。その代わりといってはなんだが、金がかかる軍備は縮小させる。
つじつまの合う話であった。
「実際に予算を投じるかは別です。ここで女真の来襲を理由に撤廃もしくは改定ができれば、将来的な軍備の拡張に障害がなくなります。陸軍も同じです。今や寧夏と和議を結んだとはいえ、いつ何時攻め入ってくるか分かりません」
要するに明国内の予算配分とは関係なく、条文の削除もしくは改定で、今後の軍備再建をやりやすくしようというのだ。
成功してもしなくても、害はない。
「分かった。予算は戸部尚書(財政他担当)と話して決めるが良い。交渉は礼部尚書(顧憲成)に任せた」
「ははっ」
次回予告 第859話 (仮)『ブイグ・ハーンと後のクンドゥレン・ハーン』

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