第396話 第一次信長包囲網……ならず?

第一次信長包囲網……ならず? 新たなる戦乱の幕開け
第一次信長包囲網……ならず?

 元亀元年 四月

 結局連合軍は義景に打撃を与えることなく、浅井長政は朝倉義景と和議を結び、近江へ戻った。

 それに対し信長は何も言わなかった。義景は目の上のたんこぶであったが、いますぐに排除しなければならない敵ではない。

 それに加賀の一向一揆にしても、田植えで一旦加賀に戻ったが、終わればまた越前に侵入してくるかもしれない。

 稲刈りが終わった後でも同様である。義景が国境を越えて進軍してくることはないのだ。

 しかし、これは石山本願寺の動き次第である。

 一度目は長政の調略で朝倉を攻撃するような動きをしたものの、本願寺が反信長を掲げるなら、朝倉を攻める必要はない。

 むしろ攻めないようにして、朝倉を動きやすくするであろう。

 その時、信長の越前からの撤退と前後して、三好三人衆と三好一族である三好長治、十河存保、安宅信康が摂津に上陸した。

 篠原長房とあわせて野田城、福島城を築き、畿内での影響力を再び盛り返そうとしたのである。

 これは……三好三人衆というのは、馬鹿なのか? 

 そう純正は考えずにはいられなかった。いや、それとも勝てると思ったのだろうか。そもそもしっかり通告文は届いたのか?

 ……何度も確認している。
 
 当然、伊予路と土佐路から、各一個旅団を侵攻させた。讃岐は問題ない。海賊衆と沿岸部の国人を調略していたので、まとまった兵など集まるはずもないからだ。

 しかも摂津に上陸するのに大半の兵を率いているのだ。戦になどならない。

 純正はまさか、と思っていたが、歴史は純正の知っている通りに動いた。時を同じくして、延暦寺、紀伊の雑賀衆がいっせいに信長に反旗を翻したのだ。

 史実より四ヶ月から半年ほど早い開戦である。史実では足利義昭を奉じて討伐軍を率いた信長と、三好三人衆との間で野田城・福島城の戦いが発生する。

 どうみても劣勢なのに、それでも信長に反旗を翻すという事は、信長になにか相当な恨みでもあるのだろうか。

 史実での戦いは終始織田軍が優勢に進めるが、石山本願寺が突如織田軍に反旗を翻し攻撃を開始。

 そして琵琶湖西岸を南下する浅井・朝倉連合軍に対するべく信長は撤退を余儀なくされるのだ。この戦いで、重臣の森可成と弟の信治が交戦して戦死するはずであった。

 しかし今世では、六角承禎はすでに織田の支配下にあり、浅井長政は裏切らず、北近江にて朝倉の動きを牽制している。

 そのため金ケ崎の戦い(?)は起きたが姉川は発生していない。森兄弟も生きているのだ。織田軍の損害はない。

 もちろん志賀の陣も発生しない。

 この状況なら信長は撤退するほどではないのだが、本願寺の要請で北伊勢の長島一向一揆衆が蜂起したのだ。そして信長の弟の信興が討たれた。

 各地で反信長の気運が高まり、抵抗勢力が生まれていく。

 もしやこれを狙っていたのだろうか? 純正にしてみれば、勝算というにはあまりにもデタラメで、ずさんとしか言い様がない。

 小佐々軍という重要な要素が抜け落ちている。

 それとも小佐々軍が四国を制圧するより前に、信長が和議を申し入れてくる、そして有利な条件で停戦しよう、とでも考えてたのだろうか?

 確かに信長にしてみれば、史実よりも劣勢ではないが、各方面に敵を抱えていることに変わりはない。

 ともあれ、そんな反信長勢力の動きとは関係なく、白地城と吉野城は小佐々軍の手に落ちた。

 讃岐・伊予・阿波・土佐を結ぶ要衝である白地城でさえ、五百程度の守備兵であった。吉野城にいたっては三百だ。

 信長は確かに、伊勢をはじめとした各方面に兵を割かなければならなかったが、摂津から撤退しなければいけないほどの決定打ではなかったのだ。

 三好勢にしてみれば、畿内にいくら拠点をつくり勢いが高まっても、本拠地はあくまで四国である。その四国の統治が立ちゆかなくなれば、畿内どころではない。

 四国あってこその畿内なのだ。

 そもそも参戦するべき(包囲網の主力になるべき)ではなかったし、決断するのも遅かった。結果的に一月もたたずに、日和佐城と重清城が、純正に降った。

 ■肥前 佐世保湊

 1,000人を超える人員の宿舎を用意するのは簡単ではなかったが、数十カ所に分散してなんとか確保した。それでも一般の旅行客を断るなど制限を加えなければならなかった。

 1週間ほど前からわかっていたので、肥前佐世保にくる旅行者がいれば、宿泊費や領内の飲食店で優遇を受けられるようにした。

 なるべく他の宿に泊まってもらうなどしたのだ。

 寺などを宿泊施設にすれば楽だったのだが、仏教とキリスト教は反目はしていないとはいえ、偏見がまったくないかというと、そうでもない。

 どうしても風呂や食事、要は寝食をともにするのは耐えられない、という人たちも一定数以上いたのだ。

 時間をかけて純正が説得を試みれば、なんとかなったかもしれない。しかし付け焼き刃で対応しては、ポルトガル側に伝わるのはわかりきっている。

 ここはキリシタン中心に対応させた方が無難である。現在のように差別なく接する事ができるまでには、まだ時間がかかるだろう。

 純正はあまりやりたくはなかったが、大学生や関係者もポルトガル語が話せる人間を、通訳として臨時に採用するしかなかった。

 宿所や飲食店、行く先々でどうしても必要になるからだ。言葉の壁はいらぬトラブルを招きかねない。

 艦隊司令をはじめとした艦長や士官のみを歓待すればよい、という考えもあったが、純正には下士官や兵たちも歓待することで、上級士官の印象も良くしたいとの思惑もあった。
 
 艦隊はマラッカからマニラ、マカオから台湾を経て琉球、そして種子島を通ってきた。

 マニラの情勢はともかく、台湾の状況は知らないだろう。ポルトガル人の上陸の痕跡はあるが、町を築いて繁栄しているという報告はない。

 純正としても、ポルトガルの内情やスペインに対する感情、そして東南アジアにおける利権に関する問題。知っておくべき事がたくさんあったのだ。

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