第468話 『悪魔の証明』 

 慶応五(明治二)年四月一日(1869年5月12日)

「……そうか。出納帳を、か」

 慶喜の声は意外なほど落ち着いていた。

「金の出入りが真でも案ずるには及ばん」

 最初は驚きを隠せなかったが、じっくり考えた慶喜の答えはこうである。

 ――幕府の極秘たる出納帳を盗み出したる大罪人、国家を揺るがす死罪をも免れぬ大罪である。

 幕府の財政赤字自体は大問題である。

 しかし大村藩に提示された数字が、真実か否かはもはや二の次であった。

 太田和次郎左衛門は、自らの首に縄をかけるに等しい愚行を犯したのだ。

 慶喜の脳裏には、反撃の筋道がはっきりと描かれ始めていた。これは窮地ではない。好機である、と。

「掃部頭、丹後守、栄一よ、聞くのだ」

 慶喜は、先ほど思い描いた策の骨子を3人に語って聞かせた。

 詮議の場で大村藩の不法行為を暴き、彼らを国賊として断罪する。そうなれば次郎と大村藩の立場は悪化して、日本公論会の勢いを削ぎ、議会の主導権を握れるというのだ。 

 栄一は静かに耳を傾けていたが、すべてを聞き終えると、深く一礼して口を開いた。

「中納言様の御慧眼、誠に恐れ入ります。なれど、その策には一つ、改める余地がございます」

「ほう、申してみよ」

「議会の場におきまして、我らが不法をとがめても、左衛門佐様は巧みにかわすでしょう。むしろ我らが問うべきはただ一つ。その帳簿は、一体いずこで手に入れたものか、にございます。加えてこう続けるのです。『もしそれが真であると主張なさるなら、その出所を明らかにされたい』と」

 慶喜は膝を打った。

「なるほど! 見事である」

「左衛門佐様は、真の入手経路を口が裂けても言えませぬ。言えば、その瞬間に彼のお方は国法を犯した大罪人となります。さりとて言わねば、帳簿は『出所の分からぬ怪しき文書』となり、証拠としての価を失う。いずれに転んでも、我らが議会を先導するは必定にございます」

 それは、相手に選択を迫って、自ら墓穴を掘らせる極めて巧妙な罠であった。数字の議論を避け、相手の正当性そのものを問う。まさに起死回生の一手である。

「見事だ栄一。その策、そっくり採るといたす。掃部頭、丹後守もよいか、抜かりなく準備いたせ」

 渋沢としては苦渋の提案であった。

 世話になった次郎を窮地に落としかねないのである。

 しかし胸中には、次郎なら何とかしてくれるのではないかとの、淡い期待もあったのだ。

 ■数日後 詮議方

 議場に漂う空気は、以前にも増して張り詰めている。

 各藩の代表たちは、固唾をのんで公議政体党の第一声に注目していた。

 重苦しい沈黙を破り、加藤丹後守がゆっくりと口を開く。

「各々方、先日の議論、我らも熟考いたしました。左衛門佐殿が幕府の差配を憂い、出納帳の提出を求められた儀と志は心得ましてございます」

 その穏やかな口ぶりに、議場がわずかにどよめいた。誰もが厳しい反論を予想していたからである。

「さりながら、一つ、我らには解せぬ儀がございます」

 丹後守は一呼吸置くと、その視線をまっすぐに次郎へと向けた。

「左衛門佐殿は、あたかも幕府の財政が破綻しておるかのような物言いでございました。さりながら我らが極秘の帳簿の内実を、なにゆえ貴殿がさほどに確信を持っておられるのか。もしや我らの知らぬ間に、すでに出納帳をご覧になったのではありますまいか」

 口調は静かだが、鋭い刃のように議場の空気を切り裂いた。すかさず、井伊直憲が追撃する。

「丹後守の申す通り。我らが国家の極秘なる帳簿の旨(内容)を、なにゆえ貴殿が断じることができるのか。その根拠を、この場にて明示らかにしていただきたい」

 議場の全ての視線が、次郎の一点に集中する。

 どう答えるのか?

 固唾をのんで、誰もが彼の次の言葉を待っていた。

 しかし、次郎はまったく動揺していない。

 まるで想定内かのように落ち着き払っている。

「掃部頭(井伊)殿、丹後守(加藤)殿。それがしは幕府の帳簿を不法に手に入れたなどと、一言も申しておりませぬ」

 次郎は静かに答えた。

「ほう、さらばいずこで手に入れたのでございますか。まさか天から降ってきたとでも仰せであるまいな」

 井伊直憲はそう問い詰めるて、渋沢が描いた筋書き通りに次郎を追い詰めていく。

 次郎はその挑発に乗ることなく、ゆっくりと懐から一冊の帳面を取り出した。

 それは、助三郎が手に入れた写しそのものである。

「これは、先日、とある場所で拾ったものにございます」

 次郎の言葉に議場は水を打ったように静まりかえった。

「拾っただと?」

「馬鹿な」

「ふざけておるのか」

 非難と嘲笑の声が飛び交う。

 井伊直憲は、あまりに荒唐無稽な言い分に一瞬言葉を失ったが、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべた。

「拾った、と仰せか。さような子供の言い訳が、この議会の場で通用するとお思いか。出所もわからぬ拾い物の怪文書を根拠に、幕府の差配を論じておられたとは、驚き入るほかない!」

 公議政体党の議員たちから、同意の笑いが起こる。

 形勢は完全に徳川方に傾いたかに見えた。

 しかし、次郎は変わらず、まったく動揺してない。

 少しも臆することなく、静かに言葉を続ける。

 この男、一体何を考えている?

「井伊殿の仰る通り。これは拾いものゆえ、真実の帳簿である確証はございませぬ。あるいは、幕府を陥れるために何者かが作った偽の文書やもしれませぬ」

 次郎はそう言うと、議場にいる全ての議員を見回した。

「さればこそ、万が一、万が一にもこの拾いものが真実であったならば、それは国家の一大事。我らが幕府の財政は、すでに破綻しておるということになる。我らは、その万が一を憂いているのです。ゆえに幕府に公式の出納帳をご提出いただき、この拾いものが偽りであると証明していただきたい。そう願っておるだけのこと」

 その瞬間、議場の空気が再び変わった。

 嘲笑していた者たちの顔から笑みが消える。

 次郎は相手の土俵から巧みに降りて、ボールを再び幕府側へと投げ返したのだ。

『拾ったものだから真偽を確かめたい』

 この謙虚な姿勢の前では、幕府は『偽物だ』とただ否定するだけでは済まされない。

『偽物だと言うなら、本物を出して証明せよ』という、あまりにも正当な要求に答えなければならなくなるのだ。

 井伊直憲と加藤丹後守は、顔面蒼白であった。栄一の策を、さらにその上を行く奇策で返されたのである。

 膠着した空気を破ったのは、中立の立場を取っていたある藩の老練な代表であった。

「もはや、この詮議方で議論を尽くすは叶いますまい。幕府には出納帳を提出していただき、その後の決議によって、本会議への付託と為す。ごれでいかがにございましょうや」

 その発言を皮切りに、同様の声が次々と上がった。

 幕府への出納帳提出、可決。

 再審議により決議により本会議への付託の可否を問う、可決。

 数日後、幕府は出納帳を出さざるを得なくなり、可決されて法案は本会議への付託の運びとなった。

 幕府除目詮議方も、同様である。

 次回予告 第469話 (仮)『採決の日』

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