慶長七年九月二十五日(西暦1602年10月11日) リスボン
「陛下、枢機卿の弁護人はどうなさいますか」
法務大臣が羊皮紙に目を通しながら口を開いた。
教皇特使がローマへ帰国してから2週間が過ぎ、リベイラ宮殿では特別法廷の準備が本格化している。王の執務室にはフレデリックと数名の法務官僚が集まり、裁判の詳細を検討していた。
「当然用意しなければならん。公正な裁判でなければ意味がない」
セバスティアンの返答は即座だった。
机の上には分厚い書類が山積みされ、証拠品を整理した木箱が壁際に並んでいる。彼は勝利を確信していたが、それは証拠の確実性に基づいていた。
「枢機卿側が選んだ弁護人に十分な準備期間を与える。証拠の整理はどうなっているのだ?」
王の言葉に法務官僚が分厚い書類を示す。
毒薬の瓶は小さな青いガラス製で、ロウで封印されていた。
「毒殺未遂事件では、枢機卿の私室から発見された毒薬の瓶とそれを調達した商人の証言書。さらに枢機卿の側近が自白した詳細な計画書があります」
商人の証言書には、枢機卿が金貨を積んで毒薬の調達を依頼した詳細が記されていた。側近の自白調書は十数枚に及び、計画の全容が克明に記録されている。
「馬車事故を装った暗殺計画では、実行犯3名の自白調書、事前に枢機卿邸で行われた密会の目撃証言、そして計画の詳細を記した枢機卿直筆の指示書があります」
「暴動の扇動に関しては?」
「枢機卿が各教会に送った扇動文書の原本、それを受け取った神父たちの証言、さらに暴動参加者の中から枢機卿の使者と直接接触した者の証言も得ています」
「これほど完璧な証拠がそろった裁判は、ネーデルラントでも珍しいですね」
フレデリックが感心して言った。
セバスティアンはふうっと一息ついて窓の外を見つめる。
リスボンの港には日ごろと変わりなく商船が出入りしていたが、オランダやイギリス、フランスの船が多く、スペインの船は激減していた。
「枢機卿の有罪は疑いようがありません」
「だからこそ、手続きは完璧でなければなりません。後世の歴史家が、この裁判を『王の報復』ではなく『正義の実現』と記録するために」
フレデリックの言葉にセバスティアンは確固たる意志を込めて答えた。窓の外では港に停泊する商船のマストが夕日に照らされて金色に輝いている。
侍従が部屋に入ってきたが、その足音は慌ただしい。
重要な知らせを運んできたのではないかと予感させた。
「陛下、ローマから使者が到着しております」
「なに?」
セバスティアンは顔をしかめた。
面倒なのが本音だろう。
「いえ、今度は教皇庁ではなく、別の筋からです」
「? 別の筋とは」
「商人組合の代表だそうです。イタリア各都市の商人たちが連名で、陛下との謁見を求めております」
それを聞いてフレデリックが興味深そうに言う。
「商人たちが動き出しましたね。彼らは利に聡い。教皇庁の権威失墜を見て、実利を取る判断をしたのでしょう」
「通せ」
セバスティアンは即座に命じた。
謁見の間に現れたのは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェの商人組合を代表する三名である。
彼らは教皇庁の使者とは対照的に実務的で率直な態度を示した。質素だが上質な服装に身を包み、商人特有の計算高い目つきをしている。実際に目で見てセバスティアンを品定めしているのだろうか。
「セバスティアン1世陛下、我々は陛下の改革を支持いたします」
ヴェネツィア商人の代表が口火を切った。
その声には迷いがなく、長年の商取引で培われた交渉術の巧みさがうかがえる。
「教会の腐敗は、我々商人にとっても長年の悩みの種でした。不当な寄付の強要や商取引への過度な介入、そして何より法の不平等な適用には我慢ができません」
さらにジェノヴァの代表が続ける。
「聖職者だけが特別扱いされる現状では、公正な商取引など夢のまた夢」
フィレンツェの代表もうなずいている。
「陛下の政教分離政策こそが、真の法治国家への道筋に他なりません。我々は、陛下との貿易関係をさらに拡大したいと考えております。ローマ教皇庁がどんな圧力をかけようとも、商売に宗教を持ち込むつもりはありません」
フィレンツェの代表の『圧力をかけようとも』『持ち込むつもりはありません』の言葉に、セバスティアンは満足そうにほほえんだ。
商人たちの支持は、経済面での孤立回避を意味する。
「諸君の支持に感謝する。ポルトガルは常に、公正で開かれた貿易を約束しよう」
セバスティアンの言葉に3人の商人代表は安心して深く頭を下げた。
彼らが最も恐れていたのは王によるカトリック商人の取引制限である。しかし王は、その懸念を完全に払拭したのである。
「陛下、我々もまた、陛下の賢明なるご判断に感謝いたします。つきましては、具体的な提案がございます」
ヴェネツィアの商人が一歩前に進み出た。
「我々ヴェネツィア商人は、長年レヴァントを介して東方との交易を担ってまいりました。しかし、オスマンの締め付けは年々厳しくなり、かつての利益は見る影もありません。それに比べ、陛下が喜望峰経由でもたらされる香辛料は、我々の仕入れ値よりも安価で、品質も安定している」
彼はいったん話を止めてセバスティアンの目を真っすぐに見つめた。
「ですが、我々が真に求めているのはそれだけではありません。ブラジル産の砂糖や東方よりもたらされる絹や陶磁器。あれらは我々が知る産物とは次元が違う代物です。安定取引が可能なのは、ヨーロッパ広しといえど、リスボンの港をおいて他にありません。その代わりにヴェネツィアのガラス製品やジェノヴァの金融サービス、フィレンツェの毛織物を提供いたします」
双方にとって大きな利益となる取引、そう締めくくった。
「陛下、これで欧州における経済的な孤立は避けられますね」
「うむ、ありがたい話だ。俗な言い方だが、何にしても金はかかりますからね」
セバスティアンがやれやれ、とジェスチャーするとフレデリックは続けた。
「実は陛下。すでに本国では実施していて、フランスとも話は済んでいるのですが、陛下と今後のポルトガル王国にとって重要な提案があるんです」
「ほう? なんですか」
着々と裁判の準備が続くなか、フレデリックは大規模な提案をする。
次回予告 第910話 (仮)『オランダからの大提案と』

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