慶長七年(西暦1602年)一月 ポルトガル王国・リスボン
アムステルダムから帰国した視察団の報告は、リベイラ宮殿を未曾有の衝撃と混乱に陥れた。
謁見の間は重く冷たい沈黙に支配されている。
玉座の前に整列した重臣たちの顔には、焦りと屈辱、そして日本とオランダに対する明確な敵意が刻まれていたのだ。
造船技師ロポ・デ・アルメイダが報告を始めるが、その声はアムステルダムで受けた衝撃から立ち直れず、力なく震えている。
「陛下……我々が目撃したのは、もはや技術と呼べる代物ではございません。魔法、あるいは悪魔の所業です」
アルメイダは語り続ける。
巨大なスチームハンマーが灼熱の鉄塊を紙の如く打ち延ばしていく光景を、彼は目の当たりにしたのだ。
寸分の狂いもなく鋼材を削り出す複数の自動機械が、生物の動きを思わせる動作をしている。
建造中の蒸気船の船内では、人の理解を超えた複雑怪奇な蒸気機関が息づいていた。
技術的な解説ではない。
自らの無力さを告白する悲痛な叫びだった。
「我々が知る人の世のいかなる知識をもっても、あの機械群は生み出せません。技術には段階があります。しかしネーデルラントにあったのは、全ての『過程』が抜け落ちた完成された『結果』のみ。まさに天から降った知恵そのものでした」
視察団に同行したイエズス会の神父が続ける。
「我々はフレデリック殿に問いただしました。なぜこれほどの力を持ちながら秘匿したのか、と。しかし彼は悪びれもせず言い放ちました。『世界技術協力機構において、我々は貴国と同じ情報に触れたはず』だと……」
謁見の間に抑えきれない怒りのどよめきが広がった。
その言葉が意味する侮辱を理解できない者はいない。同じ機会を与えられながら、絶望的な差が生まれていたのである。
明らかな実力基盤の違いであった。
沈黙を保っていた王国宰相の枢機卿が、待っていたとばかりに一歩前に進み出る。
「陛下、これでお分かりでしょう。もはやいかなる弁明も必要ありません。これは異教の帝国と、それに与する裏切り者による、我らカトリック世界に対する明確な敵意の表明ではありませんか!」
その声は謁見の間全体に響き渡った。
「彼らは我々を欺き、友情の甘言の裏で着々と牙を研いでいたのです! このまま座して死を待てば、神聖なるポルトガル王国の名が廃ります!」
枢機卿の扇動に他の重臣たちが次々と同調する。
「その通りだ! 日本との友好は偽りであった!」
「直ちにオランダ船を拿捕し、奴らの富を奪い返すべきだ!」
「戦争だ! 神の敵を討ち滅ぼす聖戦だ!」
主戦論の嵐が吹き荒れる中、セバスティアン1世はただ一人、玉座で唇を固く結んでいる。
表情は冷静で、あるのは冷たい怒りだけだった。ゆっくりと立ち上がり、興奮する臣下たちを鋭い目で見つめる。
「黙れ」
王の低く厳しい声が響く。
「拿捕? できるのか? 戦争? 勝てるのか? 聖戦? バカバカしい。神父、フレデリク殿は確かに互いに技術を開示しあったと言ったのだろう?」
「は、はい。間違いございません」
神父の震え声に、セバスティアンは深いため息をついた。
「そうか……では枢機卿」
彼は目を閉じてしばらく考えた。
なぜだ。なぜ同じ情報に触れながら差が生まれたのか。なぜ我が国の者たちは目の前にある危機を危機として認識できなかったのか。
「それが事実ならば、なぜ日本とネーデルラントの裏切りになるのだ? なぜ我々を騙し、牙を研いでいたと結論づけるのだ? 答えよ。異教の帝国だと? 余のこれまでの治世を否定するのか」
枢機卿の顔が蒼白になった。
セバスティアンの鋭い問いかけに言葉を失い、謁見の間に緊張が走る。
「そ、それは……陛下。滅相もございません」
枢機卿は震えた声で答える。
「同じ情報を得ながら、彼らだけがこれほどの成果を上げた。つまり……」
「つまり?」
セバスティアンの声は冷ややかだった。
「彼らが我々に重要な部分を隠していたに違いないのです! 完全な情報開示などありえません!」
王は深いため息をついた。
「枢機卿よ、貴公の言葉とも思えぬ。『違いない』? 『あり得ない』? 仮定の話をしても仕方なかろう? もし日本とネーデルラントが情報を隠していたなら、なぜフレデリク殿は堂々と『同じ情報に触れたはず』などと言えるのだ?」
枢機卿は王の論理的な追及に言葉を失い、顔を赤らめた。
しかし彼は引き下がろうとしない。
「それは……彼らの狡猾さの証拠です! 堂々と嘘をついて我々を油断させたのです!」
「嘘?」
セバスティアンは立ち上がり、枢機卿の前に歩み寄った。
「では証拠を示せ。彼らが嘘をついた証拠を」
「証拠など……しかし状況が全てを物語っているではありませんか!」
「状況?」
彼の声はさらに冷たくなった。
「状況が物語っているのは、我々の無能さだけではないのか?」
無能?
ポルトガル王国の国王が、自らも含めて、無能だと?
静寂につつまれた広間で、セバスティアンは海洋貿易大臣を見据えた。
「大臣よ、世界技術協力機構で得た蒸気機関の情報を、我が国の技術者たちはどう評価したのだ?」
「それは……」
『興味深いが実用性に疑問がある』
『従来の帆船で十分』
『費用対効果が見込めない』
これがポルトガルの技術者のほとんどの意見であった。
「そうか」
セバスティアンは苦笑した。
「つまり我々は、宝の山を前にして『石ころだ』と判断したのだな。一方ネーデルラントは同じ宝を見て、その価値を理解し、磨き上げた」
アルメイダが上ずった声で答える。
「しかし陛下、我々には彼らほどの……」
「技術的基盤がない? そう言いたいのか?」
セバスティアンは遮った。
「40年、40年になるのだぞ。日本が、大日本帝国がまだ肥前国にすらならぬ頃から、平九郎陛下が地方の領主だった頃から我が国と国交があり、技術の交流をしてきたのではないのか? なぜここまで差が生まれたのだ?」
日本(肥前国)とポルトガルが貿易を始めたのは1562年である。
同時に交換留学が盛んに行われた。
しかし、1570年代には立場が逆転する。
日本は貿易で得た利益を研究開発に投下し、教育の裾野を広げて幅広く人材を育成したのだ。識字率も上昇し、結果技術レベルが加速度的に向上したのである。
いわゆる人・モノ・金を膨大に投下したのだ。
やがてポルトガルから学ぶ技術と知識はなくなり、独自に技術革新が進んでいった。
ではポルトガルはどうだったのか?
確かにセバスティアン1世は国内産業を振興し、ブラジルにおいては砂糖のプランテーションの効率化を図って収益を増大させた。
農産物にしてもジャガイモなどの冷害に強く収穫量の多い作物を推奨して、飢饉対策もしてきたのである。
「しかし、それは何のための投資だったのか?」
彼の声は冷たかった。
「ブラジルの砂糖産業は確かに成功した。だが、それは既存の技術の延長線上にあったのだ。例えるなら、我々は砂糖生産を成長させたが、新たな技術を生み出す姿勢を学ばなかった」
財務大臣が反論しようとする。
「陛下、しかしインフラの整備も——」
「そのインフラとは何だ?」
セバスティアンは鋭く問い返した。
「砂糖輸送のための港湾、奴隷管理施設、製糖工場……これらは全て砂糖生産を目的として建設されたが、新たな知識や技術の創出を目指していたのか?」
謁見の間は静まり返った。奴隷貿易は段階的に廃止したが、もちろん静寂の理由はそれではない。
誰もが王と大臣や枢機卿の会話に耳を傾けている。
「我が国の産業投資は、既存の利益構造を拡大再生産する目的でしか実施されなかった。一方、日本は同じ期間に何を実施していた? 貿易で得た利益を研究開発に、教育に、人材育成に投下していたのだぞ」
「しかし陛下、砂糖産業は我が国に巨万の富を——」
アルメイダの声はかすれている。
「その件はもう良い! その富で何を買った? 我々は『金を生む鶏』は手に入れた。しかし、『より良い鶏を育てる技術』は身につけなかった。これが我々の限界だったのだ」
枢機卿、とセバスティアンは聞く。
「これでもまだ、何か言い分はあるか?」
枢機卿は王の鋭い視線を受けて言葉に詰まった。
しかし、彼は最後の抵抗を試みる。
「陛下……しかし、我々には神の加護があります。異教徒の技術など、所詮は悪魔の——」
「黙れ」
セバスティアンの声が謁見の間に響いた。その威圧感に、枢機卿は言葉を失う。
「枢機卿よ、神が我々に与えた試練の意味を理解せよ。我々の傲慢さを打ち砕き、謙虚に学ぶ心を取り戻させるためではないのか?」
立ち上がり、重臣たちを見回した。
「40年間、我々は何をしていた? 日本が我が国から学んだ技術を改良し、発展させ、ついには我々を凌駕するまでに至った40年間、我々の造船技術はどこまで進んだのだ?」
アルメイダが震え声で弁解した。
「しかし陛下、我々は長らく日本に技術を『教える』立場でした。航海術や医学……我々が文明の伝播者だったのです」
「そうだ」
セバスティアンは苦々しくうなずいた。
「そして、その『教える側』だとの慢心が、我々から学ぶ姿勢を失わせたのだ。これが根本的な誤りである」
20年以上前に、立場は逆転していたにもかかわらず。
「完成された技術に安住し、それ以上を求めなかった。一方、日本は同じ40年間で時間を『投資』として使い、我々は『消費』として使った」
財務大臣が恐る恐る口を開いた。
「陛下、しかし我が国の産業への投資は——」
セバスティアンの顔は険しい。
「くどい。それはもう分かったと言っておろうが。とにかく日本は、貿易で得た利益を研究開発に、教育に、人材育成に投下していたのだ」
枢機卿が最後の抵抗を試みた。
「陛下、しかし我々には伝統があります。神聖なる——」
「伝統?」
セバスティアンの声は極めて冷淡であった。
「我々の『伝統』とは何だ? 学習を拒み変化を恐れ、過去の栄光にしがみつく行為がか? 我々はもはや『教える側』ではない。『学ぶ側』なのだ。現実を受け入れなければ真の再生は始まらぬ」
謁見の間は重い沈黙に包まれた。
40年の長い年月のボタンの掛け違いが、全員の肩にのしかかる。
セバスティアンは最後に言った。
「日本もネーデルラントも、我々を裏切ってはいない。彼らは単に、賢明だった。この事実を受け入れれば、我が国の再生の第一歩となろう。よって余は宣言する。ポルトガルは今日この日より『富める国』から『学ぶ国』へと生まれ変わる!」
謁見の間に緊張が走った。
宣言の内容はこうだ。
1.教会が管轄してきた教育の全てを国家の管理下に置く。国費で全国に学校を建設し、全ての子供たちに読み書きと計算を教えることを義務とする。
2.リスボンに王立科学アカデミーを設立する。身分を問わず、優れた知性を持つ者を集め、数学、物理学、天文学、あらゆる科学の研究を国家として奨励する。
3.改革を断行するため、向こう10年の国家予算の3割を教育改革に投下する。
謁見の間は騒然となった。
「狂気の沙汰です!」
枢機卿が叫んだ。
「国家予算の3割など——」
「狂気? 日本が我々を追い抜いたのは狂気によってか? オランダの蒸気船は狂気のおかげか? 彼らは教育に投資し、我々はかけなかった。どちらが狂気だったのか、今となっては明らかだろう」
セバスティアン1世の宣言は迷いのない決断力を示していた。
外国人技術者の招聘自体は珍しくはない。
しかし、ポルトガルにとって前例のない大規模で大胆な政策転換だった。
国家予算の3割にあたる数字の発表は、重臣たちの動揺を深める。この巨額の投資は、従来の国家運営の枠組みを完全に覆す規模だった。
セバスティアンの最終的な宣言は、議論の余地を残さない絶対的な命令として響いた。
『ポルトガルは学ぶ』という言葉には、過去の栄光への決別と未来への決意が込められていたのである。
次回予告 第905話 (仮)『望むところだ』

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