慶長五年六月二十六日(1600年8月5日) 岐阜城
「……」
「……」
病によって半年以上も意識を失っていた純正の盟友は、痩せてはいたが、その目は穏やかであった。
静かな瞳がただ真っ直ぐに純正を見据えている。
部屋には他に誰もいない。
信長の孫である信則が純正を案内した後、一礼して静かに退出した。
二人のみの空間には、張り詰めた緊張と不思議な安らぎが混在している。
城下では戦の名残はほとんど見られない。
城門を警備するのは肥前国の旗印を掲げた兵士たちであり、統制の取れた動きは新しい時代の到来を誰の目にも明らかにした。
活気を失っていたはずの人々の顔に絶望の色はない。
むしろ安定した日常が戻り、人々は安堵の表情を浮かべていた。
支配者が誰に代わるかより、今日の糧、明日の暮らしが民衆の最大の関心事なのである。
「随分と加減が良くなったようだな、おっさん」
純正はあえて、そう呼んだ。
元気づけようとの心遣いかもしれない。
「ふ……。おっさんか、懐かしいの。こうしてお主の声を聞き、分別もあるのだから、死の淵から蘇ってきたのであろうな」
信長の声に往年の覇気は感じられない。
しかし、その言葉には不思議なほどの重みがある。
「半年か。長い夢を見ておったわ。夢の中でわしはまだ天下を駆け巡っておったが、目が覚めてみれば、わしの世は終わっておった」
信長は自嘲するでもなく、嘆くでもなく、ただ事実としてそう告げた。
孫の信則からはこの半年間に起きた全ての出来事を聞いている。
純正が築き上げた新しい国のかたちと、嫡孫であり織田家の当主が起こした反乱の結末。
全てを理解している者の言葉である。
「苛烈に過ぎるとお思いか」
「……是非もなし。然れどわしが同じ立場であったなら、根切りにしたであろうよ。信秀も家臣も、逆らった家の者どもは赤子に至るまで。わしはそうやって天下をつかみ取ろうとした。お主のやり方は随分と温情あるものよ」
信長は遠い窓の外を見た。
どこまでも続く青い空である。
「二百五十二石。武家としては死んだも同然。然れど生かした。家名を残し、生きる道を与えた。古い時代への、見事な幕引きであったわ」
純正は信長の言葉を黙って聞いている。
信長がここまで自分の意図を正確に理解していても、驚きはない。
この男ならば当然それを見抜くだろうと確信していたのだ。
「おっさん、力を貸してくれ」
「……わしにか。この世捨て人同然の抜け殻に、何を求めるのだ」
信長はそう言ったが、純正の目はごまかせない。
何かをたくらみ、考えている目をしているのだ。
「オレは恥じる行いはしていない。然れど、未だ得心せぬ者も多いのが実のところ。おっさんが納得して負けた家の者が政の手助けをしているとなれば、他の者も新しい政権に加わるのを良しとするだろうからな」
「?」
信長は一瞬固まったが、すぐに茶を煎じている手を動かして、できあがった茶を純正に渡した。
「かたじけない」
「お主まさか……」
「おっさんの知見と経験、そして信長の名がこれからの大日本帝国に必要なんだよ」
純正はまっすぐ信長の顔を見ている。
「オレは大名を解体し、土地と民を国家に帰属させた。これからは中央から派遣された官僚が法に基づいて各地を治める事になる。新しい国を動かすには、あまりにも人材が足りないんだよ」
旧肥前国でも島津や毛利など、大名は完全になくなってはいない。
そのため、いずれは明治政府が行った版籍奉還や秩禄処分をするつもりである。
もちろん、まったく同じではない。
天皇を頂きに掲げる点は同じだが、実質は江戸幕府が小佐々幕府へ変わるに等しい。さらに、それを一層中央集権化させるのだ。
皇室はより祭祀的な意味合いを深め、政治は小佐々家主導による帝国とする。
「肥前国の者だけではこの日本全土を治められない。オレは、旧大名家に仕えていた者たちの中から、有能な者を身分や出自を問わずに登用したいと考えている。織田も浅井も徳川も、北条も関係なくだ。統治の経験や武芸の才は、新しい国にとって大きな財産となるはずだからな」
「謀反の徒を自らの政権の中に招き入れると申すか。……正気か」
信長が初めてわずかに眉をひそめたが、純正は続ける。
「もちろん。彼らにはすでに大きすぎる罰を与えている。然れど一官吏として生き、その力を新しき国のために使う道まで閉ざすつもりはない。とにかく、人手不足なんだよ」
ふふ、ふふふふふ……。
信長は笑った後、静かに茶を飲んだ。
純正の突拍子もない発言と行動には毎回驚かされてきたが、今回は格別である。
「然れどオレの言葉だけでは従わないだろうから、おっさんの力がいるんだよ。おっさんも、これで終わるつもりはないんだろう? 第六天魔王なんだから」
「! それはわし自ら名乗っていたのではない。信玄が天台座主を名乗ったゆえ、その返書に第六天の魔王と書いただけじゃ」
信長は苦笑するが、別に嫌ではないようだ。
先ず隗より始めよ。
古い恨みや疑念が渦巻いている今、信長の名前が必要なのだ。
隠居していたとはいえ敵の総大将を政権の中枢に招き入れる。
古きを良きとする者と、そうでない者。
二者が協力してこその新時代である。
信長は目を閉じ、深く息をついた。
その胸中には常人では計り知れない思念が駆け巡っているに違いない。
過去の栄光と天下統一の夢。
そして、目の前の男によってもたらされた時代の完全な断絶。
やがて信長はゆっくりと目を開いた。
もはや何の迷いもない。
「……面白い。わしが築こうとした世を、わし以上に苛烈に限りまで破壊し尽くした男が、その瓦礫の中から人材を拾い集めようとしておる。加えて筆頭にこのわしを据えようと。これ以上の皮肉があろうか」
「……」
「良かろう。その話、乗った」
信長の答えに純正は目を見開いた。
「お主のやろうとしている事は、もはや日ノ本一国の話ではない。すでに世界を見据えておるのであろう? 広大なる肥前国の版図を考えれば然もありなん。古い時代の物差しか知らぬ者では、お主の真の助けにはなるまい」
肥前国の広大な版図は今に始まったわけではない。
旧大日本国の閣僚や政治家たちも理解はしていたのだ。しかしそれは対岸の出来事であり、もっと言えば遠い国の話だったのである。
信長は、一つの条件を出した。
・表立った役職名は不要であり、自らはただ純正の相談役として必要なときに意見を述べるだけの存在とする。
主役はあくまで純正。
それが信長なりのけじめであり、純正はその条件を厳粛に受け入れた。
「平九郎」
立ち上がって部屋を出ようとする純正に信長が声をかけた。
「お主の描く未来を、この目でしっかりと見届けさせてもらうぞ。この信長が、お主の時代の証人となってやる」
次回予告 第895話 (仮)『大日本帝国成立と組閣人事』

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