慶応三年七月十五日(1867年8月15日)
カナダ自治領首相ジョン・A・マクドナルドとブリティッシュ・コロンビア総督フレデリック・シーモアの行動は素早かった。
万博会場での密談から10日余り、彼らは関係各所に確認と調整を行い、ついに次郎を訪問したのである。
次郎はこれまで、慶勝と数回面談し、日英の外交問題の承認を得ようと数回会談をしていた。
マクドナルドは丁寧に頭を下げる。
「ミスター太田和、お会いできて光栄です」
彼の隣にはシーモア総督が控えていたが、次郎は予想外の来訪者に内心驚きながらも、冷静に対応した。
予想外は『誰が』ではなく、『こんなに早く』の意味である。
「これはご丁寧に。カナダ自治領の首相とブリティッシュ・コロンビアの総督がわざわざお越しいただくとは」
お里と彦次郎が同席している。昭武は別の用事で席を外していた。
「実は、ミスター太田和と是非ともお話ししたいことがあり参りました。我々は、貴国とイギリス本国がアラスカの国境について協議されていることを承知しております」
マクドナルドは真剣な表情で切り出した。
「はい、国境画定は重要な問題ですので、慎重に協議を進め、先日概要の締結が終了しました」
次郎は表情を変えずに答えたが、マクドナルドは身を乗り出す。
「我々として気になるのは、その協議において、我々北米の政府の意見が全く聞かれていないということです」
「もちろん、外交権は本国政府にあることは承知しています。しかし、直接影響を受ける我々地域の声が反映されないのは遺憾です」
続いてシーモアが補足した。
「……なるほど。確かに、それは理解できます。しかし、それは我が国ではなく、宗主国であるイギリスが考えることではありませんか? 私としては与えられた権限の範囲で交渉を進め、締結したのです」
次郎は二人の真意を探るように静かに返したが、マクドナルドは更に身を乗り出し、声を低くする。
「ミスター太田和、率直に申し上げます。我々は貴国と直接的な関係を築きたいと考えております」
この言葉に、次郎は内心で『来た』と思った。
彼らの真の目的が明らかになったのだ。
「どのような関係でしょうか?」
「経済的な協力関係です。貴国の技術力は万博での展示を通じて十分に理解しました。我々には豊かな森林と農地、そして未知の可能性を持つ広大な領土があります。貴国の技術があれば、これらをより有効活用できるはずです」
マクドナルドは明確に答えた。
「興味深いお話ですが、それは私の権限を超える問題です。政府全権である徳川慶勝様との協議が必要でしょう」
次郎は慎重に答えた。
シーモアは頷きながら言う。
「もちろんです。我々もそれを期待しています」
この情報に次郎は頷いた。彼らが本気で日本との関係構築を望んでいることがよく分かったのである。
「はい。特に、貴国が南北戦争時に北軍を支援されたことを、我々も聞いております。日本の先見性には感服いたします」
マクドナルドは確信を持って答え、続ける。
「我々が望んでいるのは、北米大陸での建設的な経済関係です。イギリス本国を介さない、直接的な協力関係を築きたいと考えています」
次郎は前世の知識を思い出した。
カナダは将来的にアメリカと世界最長の非武装国境を持つ平和的な隣国となる。彼らの提案は、その精神と合致していた。
「具体的にはどのような協力をお考えですか?」
次郎は更に詳しく聞いた。
「例えば、鉄道建設への技術支援、森林資源の効率的な活用方法、そして農業技術の向上などです。特にブリティッシュ・コロンビアには広大な森林があり、カナダ全体では農業に適した土地が豊富にあります」
マクドナルドの説明は続く。
「また、我々はカナダ大陸横断鉄道の建設を計画していますが、貴国の優れた工業技術があれば建設に必要な資材や機械の調達で大いに助かります。特に鉄鋼技術や精密機械の製造技術は、万博での展示を見て素晴らしいものだと確信しました」
日本では大村藩によって鉄道の敷設技術は確立されていたが、莫大な費用がかかる。
そのために、藩内の限定エリアと、北海道での炭鉱用路線の敷設に留まっていたのだ。
「それに、この広大な大陸にはまだ未開発の地域が数多くあります。そこに何があるかは正確には分かりませんが、適切な調査と開発技術があれば、思いがけない発見があるかもしれません」
シーモアが付け加えた。
次郎の脳裏に、カナダの地下に眠る膨大な資源の地図が浮かんだ。
金鉱、石油、天然ガス…。
これらの情報を適切に提供すれば、カナダの発展を大幅に加速させることができる。そして彼らの言う『思いがけない発見』は、まさにその通りになるだろう。
「興味深いお話です。確かに、未開発の土地には大きな可能性が秘められているかもしれませんね。しかし、これは慎重に検討すべき問題です」
「もちろんです。我々も性急に事を進めるつもりはありません。ただ、一つお願いがあります。もし可能であれば、貴国政府全権との会談の機会をいただけないでしょうか」
「全権は現在、フランス政府との重要な交渉を進めておられます。適切な時期を見計らって、相談してみましょう」
次郎は少し考えてから答えた。
「ありがとうございます。我々はパリにもう少し滞在する予定ですので、お時間のある時で結構です」
マクドナルドとシーモアは肩の荷が下りたように見えた
会談は約2時間に及び、最終的に次の点で合意した。
1. 次郎が慶勝に両者の提案を伝える。
2. 適切な時期に正式な会談を設定する。
3. それまでは非公式な情報交換を続ける。
マクドナルドとシーモアが退出した後、次郎は深く考え込んだ。
「ジロちゃん、ついに彼らから接触してきたのね」
「ああ、予想通りだ。思っていたより早かったが」
お里が心配そうに尋ねると、次郎は確信を持って答えた。
「どうするの?前に話していた協力の件、本格的に進めるの?」
「そうだな。大納言様(慶勝)との相談次第だが、これは大きなチャンスだ。彼らが『思いがけない発見』と言ったが、あれは地下資源だよ。金や銀に、石炭や石油。カナダの地下には彼らが想像もできないような宝物が眠っているからね。そうだろ?」
お里はうんうん、とうなずいた。
「兄上、彼らの提案をいかに大納言様(慶勝)にお伝えいたしますか?」
そう言ったのは彦次郎である。
「まずはフランスとの交渉状況を確かめねばならん。その上で、全体的な外交戦略の中で、この提案をどう位置づけるかを相談しよう。特に、我らが持つ地質に関する知識を、いかほど提供するかは重要な判断になる」
パリの街は夏の日差しに輝いていた。
アラスカの国境問題から始まった一連の出来事が、予想をはるかに超えた展開を見せている。
「これで日本の外交の選択肢が大幅に広がった」
しかし同時に、これらの新たな関係をいかに管理し、日本の国益を最大化するかという大きな課題も生まれていた。
カナダへの援助と、隣国アメリカとの接近は、イギリスを刺激する。
イギリスとは断交状態から慎重に国交を回復するが、世界一の国力と軍事力を持つイギリスと、敵対してはならないのだ。
ただし、イギリスは日本との国交回復と貿易、そして技術供与を望んでいるので、ギリギリまでは問題ない。
アメリカと手を組めば、大西洋を挟んでイギリスを牽制できる。
……外交は一手間違えば大きな混乱を招く。
慎重さと大胆さの絶妙なバランスが求められる局面だった。
夕方、次郎は慶勝との面談を申し入れた。日本の未来を左右するかもしれない重要な報告をするためである。
次回予告 第418話 (仮)『慶勝との密議』

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