慶長四年七月二十七日(西暦1599年9月16日)午前
「殿下、和蘭(オランダ)の蒸気船から煙が上がっております!」
突然、諫早城の見張り台から報告が入った。
純正は書斎でマウリッツからの親書を読み返していたが、慌ただしい足音と共に直茂が駆け込んできたのである。
「殿下、フレデリック殿の船に何かあったようです」
「煙? 火災か?」
純正は立ち上がり、窓から港の方向を見た。確かに黒い煙が立ち上っているのが見える。
「いえ、どうやら罐(ボイラー)の修理をしているようにございます。昨夜から機関の調子が悪いとの知らせを受けておりましたゆえ」
純正はほっと息をついた。
「さようか。ならば我らの技術者を遣わしてはいかがじゃ? 互いの技を知る良き機会となろう」
「殿下、それは……」
直茂は戸惑った。
他国の軍艦の機関部に技術者を派遣するのは、機密の観点から微妙な問題だからである。
「心配は無用だ。昨日の会談で、フレデリック殿とは技術交流に関して話し合った。良い試金石になるであろう」
純正は決断を下し、すぐに科学技術省に連絡を取った。
30分後、太田和源五郎を筆頭とする技術者チームが諫早港に向かう。蒸気機関の専門家3名と工具一式を携えての出動である。
港では、オランダの船員たちが困った様子で機関室の周りに集まっていた。エンジンからは時折白い蒸気が漏れ出し、異音が響いている。
「これは……シリンダーの圧力調整に障りがあるようですね」
源五郎は機関を見て即座に診断した。
「殿下、我らがお手伝いしましょう」
フレデリックは感謝の表情を浮かべながらうなずいた。
「ありがとうございます。実は昨夜から調子が悪く、船員たちも困り果てていたところです」
その後、肥前国とオランダの技術者たちは協力して作業を始めた。
言葉の壁は全くない。
何しろ、オランダ側の転生者全員の前世は日本人であったし、船長たちは全て日本語に習熟していたのである。
日本までの主要港はポルトガルと肥前国が領有していたため、日本語習熟者を一定数船員に当てていたのも理由の1つであった。
「密閉材(パッキン)が摩耗していますね」
「我らの船でも、かつて同じ障りがありました。材質を改良すれば長持ちするでしょう」
オランダの機関長が指摘すると、源五郎はうなずいて返事をした。
両国の技術者は、互いの設計思想の違いに驚きながらも、学び合う姿勢を見せている。
作業は午後まで続き、夕方には修復作業が終わった。テスト運転では以前よりもスムーズな動作音が響いている。
「見事な修理です」
フレデリックは純正に深く感謝の意を示した。
「いえ、我々も多くを学ばせていただきましたので。特に、貴国の冷却システムの設計は興味深いと我が国の技術者も言っていました」
この日の出来事は、両国の技術者にとって大きな刺激となった。異なるアプローチで発展した技術を間近で見て、新たな発想が生まれていたのである。
夜、純正の居室では重要な会議が開かれた。
出席者は純正、直茂、そして科学技術省の忠右衛門と源五郎。机の上にはマウリッツからの親書が広がっている。
「親書の内容は実に興味深い」
純正は文書を指さしながら話し始めた。
「マウリッツ殿は、単なる技術交流ではなく、より包括的な協力関係を提案している」
実際はフレデリックの提案だろうと純正はうすうす感じていたが、あえて言わなかった。
親書には、技術者の相互派遣、共同研究プロジェクトの立ち上げ、さらには第三国への技術支援まで視野に入れた壮大な計画が記されている。
「されど殿下」
直茂が慎重な意見を述べた。
「あまりに急いて近づけば、他の国々の警戒を招くのではないでしょうか? 特に、ポルトガルとの関係を考えますれば……」
『特に』や『他の国々』とは、要するにポルトガルだ。
他は技術・軍事水準ではるかに遅れているからである。
「さなり(そのとおりだ)」
純正はうなずいた。
「なればこそ徐々に進めねばならん。まずは、今日のごとき小さき技術協力から始め、少しずつ互いに信を得て、より良き縁(関係)を築いていくのだ」
忠右衛門が口を開く。
「殿下、今日の修理作業で感じた儀がございます。和蘭の技術水準は我らとほぼ同じにて、異なる発展を遂げており、学ぶべき点が多くありました」
「つぶさ(具体的)には?」
「精密機械の分野では、彼らの方が一歩先を行っているようです。特に、歯車の加工技術と材質の選択は見事でした」
源五郎も続ける。
「逆に、我々の蒸気機関の出力制御技術には大いに興味を示していました。互いに補い合える縁(関係)となりそうです」
「それでこそ意味がある。一方からのみの技術移転ではなく、相互に利益をもたらす縁こそが理想だ」
純正は満足げにほほ笑んで、茶を一口飲む。
「では、殿下はいかにお進めになるお考えですか?」
答えは一択しかない。
昨日のフレデリックとのやり取りの際に考えたとおり、このままいけば、早晩追い抜かれるのは間違いないからだ。
国力の基盤は肥前国がはるかに上だが、技術単体においては108人の転生者を擁する集団に勝てるはずがない。
「まず手始めに、双方より少数の職人をやりとり致す。期間は三月(みつき)ほどとし、定めし企て(特定のプロジェクト)に当たらせる」
「つぶさ(具体的)にはいかなる儀を?」
「蒸気機関の改良と精密機械技術の向上。これならば、すなわち戦道具にはならず(軍事色も薄く)、ポルトガルの懸念も少なかろう」
「殿下、電信技術はいかがでしょう? 我らは継電器(と命名した)の開発で難儀しております。和蘭の精密技術が役に立つかもしれません」
忠右衛門が提案した。
「良き考えだ」
純正はうなずき、続ける。
「電信技術は戦道具やその術とは言い難い。申し開き(説明)もしやすかろう」
会議は深夜まで続き、技術交流の詳細な計画が完成していった。
翌朝、純正はフレデリックを再び城に招いた。今度は科学技術省の技術者たちも同席している。
「殿下、昨日の修理作業では大変お世話になりました。感謝に堪えません」
「いえ、それはこちらも同じです。マウリッツ殿からの親書、拝読しました」
「いかがでしたか?」
「基本的な方向性には大いに賛同いたします。技術の平和利用と相互発展は、我々の理念にも合致しています」
フレデリックの声には期待と不安が入り混じっていたが、純正の言葉に表情が明るくなった。
「ただし」
純正は言葉を続けた。
「あまりに急速な変化は周辺国が警戒します。段階的なアプローチを提案したいと思います」
見た目はオランダ人と日本人だが、実際は完全に日本人2人の会話であった。
忠右衛門と源五郎、科学技術省の面々には、駐ポルトガル肥前国大使館員から日本語を習ったと伝えている。
ときどき出てくるカタカナ英語。
例えば……文字通り『アプローチ/接近・またはその方法』などである。
「賢明な判断です」
フレデリックは素早く同意した。
「我々も同じ懸念を抱いていました。では、どうお考えなのでしょうか?」
純正は用意した文書を取り出して話し始める。
「第一段階として、技術者の小規模な相互派遣から始めたいと思います。期間は3か月、人数は各国3名程度です」
「分野は?」
「蒸気機関技術、精密機械技術、そして電信技術を候補として考えています」
フレデリックは目を輝かせた。
「電信技術! すばらしい提案です。我々も長距離通信の実用化を進めていますが、まだ完全ではありません」
「我々は継電器の開発で困難に直面しています。信号を中継する際の電力損失や、長距離での信号減衰が大きな課題となっております」
源五郎が説明に加わると、フレデリックの顔がパッと明るくなった。
「まさにその問題こそ、我々が解決した分野です。電気理論の応用により、効率的な信号増幅と電力制御を実現しています」
忠右衛門が身を乗り出した。
「と、おっしゃいますと?」
「我がオラニエアカデミーには、電気現象を専門とする学者が複数おります。彼らは電流と電圧の関係性を数式で表現し、最適な回路設計を可能にしました」
源五郎は驚きを隠せなかった。
「数式で? 我々はまだ経験則に頼る部分が多く……」
「例えば」
フレデリックは懐から小さな図面を取り出した。
「この回路図をご覧ください。抵抗値を計算により最適化すれば、電力の無駄を大幅に削減できます」
図面には複雑な回路図と数式が描かれており、肥前国の技術者たちには理解しきれない部分が多かった。
「我々の手法とは根本的に異なりますね」
忠右衛門は率直に認めた。
「我々も電信は実に成して(実用化)はおりますが、何ゆえそうなるか、裏付けが不足していたのかもしれません」
忠右衛門と源五郎は純正ナイズされてはいるが、熟語はまだしもカタカナ英語は分からない。
フレデリックも古語は分からない。
そのため、純正がときどき『うん、そう実用化ね』とか、『ああ、手法や取り組み方ね』と通訳のような相づちをうっているのだ。
「しかし、貴国の蒸気機関技術は我々を大きく上回っています。電気と蒸気、それぞれの長所を組み合わせれば、革新的な発電システムを構築できるでしょう」
フレデリックが謙遜して言うと、純正は興味深そうに尋ねる。
「殿下、電に関しての貴国の具体的な研究内容を教えていただけませんか?」
純正は技術者ではないが、2人に促されての質問である。
フレデリックは苦笑いを浮かべた。
「電気理論は進んでいますが、大容量の電力を安定して供給する技術は完全に実用化されているとは言えません」
源五郎がそれに答える。
「我々は蒸気機関による発電機の開発を進めており、ある程度の成果は上げています。しかし、効率の問題や電力の制御技術に課題があります」
「まさに相互補完の関係ですね。我々の電気理論と貴国の動力技術を組み合わせれば、実用的な電信網を構築できるはずです」
フレデリックの返答に対して、忠右衛門が興奮を抑えきれない様子で加わる。
「それは革命的な進歩をもたらすのではないでしょうか。大陸全土、いや世界において数千里離れた土地との瞬間通信が可能になるかもしれません」
「ただし、進んだ技術は軍事的にも重要な意味を持ちます。慎重に進める必要があるでしょう」
と純正。
「おっしゃるとおりです。だからこそ、信頼できるパートナーとの協力が不可欠なのですよ。この技術を平和目的に限定して発展させなければなりません」
純正の言葉に、フレデリックは真剣な表情でうなずいた。
「では、協力体制の具体的な形をお聞かせいただけますか?」
「まず、我々の電気理論の専門家を数名、肥前国に派遣させていただきたい。そして、貴国からも蒸気機関の技術者を我が国にお送りいただく」
最初の純正の提案を、電気理論と蒸気機関技術に落とし込んでいる。
「それに加えて、共同実験施設の設置はいかがでしょう? 理論と実践を組み合わせた研究には、専用の設備が必要です」
フレデリックは即座に同意する。
「すばらしい提案です」
「場所は、両国からアクセスしやすい中立的な地域が良いでしょうね」
純正は地図を思い浮かべながら言った。
「我が領であるインドのカリカットはいかがでしょうか。距離もちょうど真ん中に近い。将来的にポルトガルが参加するとしても、同様です」
「それは検討に値しますね。ただ、何度も重複しますが、まずは小規模な技術者交換から始めて、信頼関係の構築が先決でしょう」
フレデリックの発言に、忠右衛門が実務的な質問をする。
「貴国から派遣される専門家は、どの程度の期間を想定されていますか?」
「初回は半年程度を考えています。その間に基礎理論の伝授と実際の回路設計を共同で行えれば」
「我々からも同様に、蒸気機関と発電機の専門家を派遣いたします」
そう源五郎が応じると、純正は満足げにほほ笑んだ。
「これで、真の意味での技術交流が始まりそうですね。電信技術の革新は、世界の通信を根本から変えるでしょう」
会談は夕方まで続き、一同は技術協力の詳細な計画を練っていった。
両国の技術者たちは、それぞれの専門分野での優位性を認め合いながら、協力による飛躍的な発展の可能性に胸を躍らせていたのである。
「明日は、実際に我々の電信設備をご覧いただきましょう」
純正はフレデリックに提案した。
「貴国の理論的知識と照らし合わせて、改良点をご指摘いただければ幸いです」
「ぜひお願いします。我々の船には電気理論の文献と基礎的な計測器具を積んでおります。明日にでも、基本的な電気現象の測定をお見せできれば」
両国の技術同盟は、電信技術を起点として、大きく前進し始めていた。
次回予告 第875話 (仮)『密談、純正とフレデリック。それぞれの思惑』

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