慶応三年七月三日(1867年8月2日)
次郎は眠れぬ夜を過ごしていた。
昨日の交渉は順調に終わったはずだが、どういうわけか、何かが頭の片隅に引っかかっていたのである。
何かを見落としている――そんな感覚が、彼を落ち着かなくさせていた。
「どうしたの、ジロちゃん?」
お里は心配そうに尋ねた。
夜中に何度も寝返りを打つ次郎の様子は、明らかにふだんとは違っていたのである。
「何か忘れている気がするんだよね……」
「交渉の内容?」
「うん。ガウワーとの話の中で、何か引っかかってるんだけど……」
「カナダ自治領!」
突然、次郎は飛び起きた。
「そうだ! 最近、イギリスでカナダに関する新しい法律が制定されたはずだ!」
前世の記憶と、パリ滞在中に耳にした情報が結びつく。
1867年7月1日に発効したブリティッシュ・ノース・アメリカ法――カナダ自治領を創設する法律。
これが今回の交渉に大きな影響を与える可能性に、次郎は今になって気づいたのだ。
次の朝、次郎はお里、彦次郎、そして昭武を呼び集めた。
「実は、重大な問題を見落としていた」
静かに切り出した次郎の表情は、真剣そのものである。
「カナダ自治領が先月発足したんだ。これで、ブリティッシュ・コロンビアもいずれカナダ自治領に編入される可能性が高い」
「それってどういう意味なの?」
お里が素早く質問した。
「オレたちが結んだ国境合意は、イギリスとの間のものだ。でも近い将来、その国境の向こう側はカナダ自治領になる。そうなると、日本・イギリス・カナダ・ブリティッシュコロンビアの4者間での再交渉が必要になる可能性がある」
「それって面倒だね」
お里は口をとがらせた。
「それだけじゃない」
深く息をはいて、そのまま次郎は続ける。
「もうカナダ自治領が発足している以上、将来ブリティッシュコロンビアがカナダに参加した場合、カナダ自治領政府の同意なしにはオレたちの合意は反故にされかねない。最悪の場合、イギリスは3対1の立場でオレたちに圧力をかけてくる可能性がある」
「まずいね」
お里が心配そうに顔を曇らせた。
「おそらく、ガウワーは知っていたと思う。だからこそ、昨日の交渉であれほど譲歩的だった。将来の再交渉で主導権を握るつもりだったんだ」
彦次郎が深刻な表情でうなずく。
「それは狡猾な戦略にございますね。されど、兄上が気づいた以上、対策を立てられます」
「いや、狡猾ではない。オレがガウワーならしゃべらんからな。求められていない情報を、自国に不利になる情報をだ。その点はこちらの調査不足と言わざるを得ん」
「具体的にどうするの?」
お里が身を乗り出して聞いた。
「ガウワーに再会談を申し入れ、国境合意文書にカナダ自治領とブリティッシュ・コロンビア両政府の事前承認を明記させる。それから、将来の政治的変化にかかわらず、この合意の有効性を確認する条項を追加する必要がある」
「なるほどね。それなら安心だ」
「では、すぐにガウワー殿に使者を送りましょう」
彦次郎の言葉に次郎はうなずいた。
「早速準備を始めよう。今度こそ完璧な合意をしなければならない」
同じ頃、パリのイギリス大使館の一室で、ガウワーは部下のジェンキンズ領事候補と密談を交わしていた。
「ガウワー大使候補、ミスター太田和との交渉はうまくいったとお考えでしょうか?」
ジェンキンズは慎重に尋ねた。
「表面上はな」
ガウワーは満足そうにほほ笑む。
「彼はカナダ自治領の件に気づいていない。これが我々にとって大きなアドバンテージとなる」
「どういう意味ですか?」
「考えてみたまえ。今回の国境合意は日英間のものであるが、実際にはブリティッシュ・コロンビアは独立した植民地であり、将来的にはカナダ自治領に参加する予定だ。つまり、遅かれ早かれ、この合意は事実上無効となり、再交渉を余儀なくされる」
ガウワーは地図を広げながら説明した。
「そのときには日本、イギリス、カナダ自治領、ブリティッシュ・コロンビア植民地の4者協議となる。我々は現在の2者間交渉よりもはるかに有利な立場に立てるのだ」
「なるほど」
ジェンキンズは理解した。
「カナダとブリティッシュ・コロンビアを味方につければ、日本に対して3対1の交渉になりますね」
「そのとおりだ。現在は日本の技術力の前に譲歩を強いられているが、将来の多国間交渉では我々が主導権を握れるだろう。ミスター太田和も今回は巧みに交渉をまとめたが、この点は見落としている」
ガウワーは葉巻に火をつけながら、話を続けた。
「技術協力も、4者協議になれば我々は別のアプローチができる。例えば、カナダを経由した技術移転や、ブリティッシュ・コロンビアでの共同事業などの形でな」
「すばらしい戦略です。ミスター太田和は確かに有能だが、彼も完璧ではない」
ジェンキンズは感心する。
そのとき、扉がノックされた。
「入りたまえ」
ガウワーが応じると、使者が現れた。
「ガウワー様、ミスター太田和からの書状です」
ガウワーは書状を受け取り、目を通した。その表情が次第に変わっていく。
「何と……」
「どうされました?」
ジェンキンズが心配そうに尋ねた。
「彼が再会談を申し入れてきたんだよ。理由は……カナダ自治領に関する追加協議だと」
ガウワーの顔は険しくなる。
「まさか、気づいたのでしょうか?」
「どうやらそのようだね」
ガウワーは椅子に深く腰掛けた。
「我々のおもわくを見抜かれた可能性がある。予想外の展開だ」
ジェンキンズは慌てた様子で言う。
「どう対応しますか?」
「拒否するわけにはいかない。しかし、この再交渉で我々の立場は大幅に弱くなる可能性がある」
太田和次郎左衛門武秋という男は、彼が思っていた以上に手強い相手だったのである。
数時間後、ガウワーからの返事が届いた。
「今度はオレたちが主導権を握る番だ」
次郎は書状を読みながらつぶやいた。
外交は一瞬の油断が命取りになる。次郎は改めてその教訓を胸に刻みながら、決戦となる再交渉の準備を始めた。
次回予告 第416話 (仮)『逆転の外交』

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