第414話 『最終交渉』

 慶応三年七月二日(1867年8月1日)

「ジロちゃーん、眠れた?」

「うん、昨日よりはね。今日やっと交渉が終わる。あとは日本に帰ってからだね。実務的交渉は外国奉行配下の者がやればいいし、イギリスとの国交回復はまださきの話だしな」

 お里が朝食を運んできた。

 次郎はお里に返事をして、朝霧に覆われたパリの街を眺める。

「これで、日本に帰ったら少しは休めるんじゃない? そうだ、帰ったらお静さんも一緒に旅行に行くのはどう? 仕事っていっても私ばっかり悪いもん。口には出さないけど、お静さんもそう思ってるよ。あ! そうだジロちゃん、お土産忘れてないよね?」

「お、おう! 当たり前だのクラッカーだよ」

「はい?」

 次郎はあえて言ったのだが、返事までに間が空いたのは言うまでもない。

「おはよう次郎」

 昨日は大人びた交渉術を見せ、次郎を驚かせた昭武である。幼さも残るが、才能は隠せない。

「少将様、今日が最終日です。こたびはどうか、ご発言なきようお願いいたします」

「ん、む……。無論じゃ」


 午前10時、ガウワーとヒュースケンが到着した。

 ガウワーの表情には、笑顔の奥に昨日よりも強い決意が見える。少しでも具体的に、国交回復と通商の内容をまとめておきたいのだろう。

「おはようございます、太田和殿、少将殿」

 いつものあいさつを交わし、ガウワーは本題に入った。

「今日が最終日となります。昨日までの議論を踏まえ、国境画定の詳細と今後の関係に関する結論を出したいと思います」

 次郎は冷静にうなずいた。

「我々も同意見です。まず、昨日の合意事項を確認しましょう。測量隊は日英同数で来年春から実施し、費用は折半。測量結果に相違がある場合は、中立国の専門家に判断を委ねる。この点で間違いありませんね?」

「はい、そのとおりです」

 最終日の今日は、立会人のクルティウスのほかに、フランスのリュドヴィック・ド・ボーヴォワールが同席している。

 最終的に日本語・英語・フランス語・オランダ語の4か国語で条約の批准書を作成するためであった。

 ガウワーは地図を広げた。

 そこには昨日までの協議で合意した暫定的な国境線が引かれている。

「さて、測量結果が出た後の最終的な境界画定の手続きに関しても合意しておきたいと思います」

 彼らは次の1時間で測量後の手続きを協議した。最終合意文書の形式、批准の方法、そして公表のタイミングなど、細部にわたる議論が続いた。

 彦次郎が資料を整理し、お里が通訳を補助しながら、次郎は着実に交渉を進めていく。

 国境問題がほぼ解決に近づいたところで、ガウワーは予想通り、最後の提案を次郎に持ちかけてきた。

「太田和殿、国境問題につきましては実質的な合意に達しました。では、今後の両国関係において、もう少し踏み込んだ議論をしたいのですが、いかがでしょう?」

 次郎は内心『来た』と思いながらも、冷静に対応した。

「ガウワー殿、国境画定の協議は順調に進んでおり、喜ばしく思います。しかし、繰り返しになりますが、私は国境問題に関する権限しか持っておりません」

「承知しています。しかし、我が国政府としては、より包括的な合意を持ち帰りたい強い希望があります。何らかの形で、将来的な関係改善の道筋を示せないでしょうか」

 ガウワーは何らかの結果を持ち帰りたいが、次郎は権限がない。堂々巡りである。

 本国に何も持ち帰れなければ、彼の立場も危うくなるのだろう。次郎はその状況を理解しつつも、安易に妥協するつもりはなかった。

「我々も将来的な関係改善を望んでいます。しかし、それは拙速に決めるべきではありません」

 ガウワーは最後の提案を取り出した。

「太田和殿、我が国は次のような提案を用意しています」

 彼は正式な文書を取り出し、次郎に手渡した。

 その表紙には『英日和親条約草案』と題されていた。

「これは正式な条約ではなく、あくまで将来の交渉のための基礎となる草案です。国境合意とは別の文書として、貴国政府にご検討いただければと思います。いかがでしょうか」

 次郎は目を通す。

 そこには外交官の相互派遣、一部の港での限定的な通商権、航行の自由など、基本的な和親関係を定めた条項が並んでいた。

 また、民間レベルでの技術交流の可能性を検討する文言も含まれていたのである。

 日本にとって、次郎がこの草案を受け取れば、正式な約束ではないにせよ一定の方向性を示した形になる。

 かといって完全に拒絶すれば、せっかく進んだ国境画定交渉にも悪影響を及ぼすかもしれない。

「ガウワー殿、この草案を拝見する限り、基本的な内容は理解できます。しかし、正確な検討は本国政府が行うべき事案です」

「もちろんです。正式な判断は貴国政府に委ねます。我々としては、この草案が貴国にとっても受け入れ可能な基盤になると考えています」

 昭武が文書をのぞき込み、突然口を開いた。

「この文書の技術交流に関する条項は、解釈次第では広範な意味を……」

「しばしお待ちくだされ! 少将様、こちらに!」


 次郎は半ば強引に昭武の裾をつかみ、立ち上がって部屋の隅に連れて行った。ガウワーとヒュースケンは驚いた顔で2人を見つめている。

「少将様、ご指摘はごもっともにございますが、交渉の場では一貫した発言が必要です。もし、異なる意見があれば、まずはそれがしにお伝えいただけませんか」

「すまぬ。ただ、あの条項が気になってな」

 昭武は少し反省したようにうなずく。

「その点はそれがしも気づいておりました。戻りましたら指摘いたします」

 2人は席に戻り、次郎は落ち着いた様子でガウワーに向き合った。


「失礼いたしました。この草案を拝見する限り、基本的な内容は理解できます。しかし、技術交流に関する部分は、より慎重な言葉遣いが必要でしょう。特に、『民間企業の自主的な判断に基づく』の部分を明確にすべきです」

 あくまでも、自己責任。

 イギリスとの民間同士の商行為におけるトラブルには、政府(幕府)は関与しない。ただし、より広範囲に害が及ぶ場合は介入する必要があった。

 安全保障上の問題もしかりである。

「では修正を加えます。そのうえで、この草案を貴国政府にお伝えいただけますでしょうか」

 ガウワーは次郎の提案を受け入れ、次郎にそう告げた。

「了解しました。この草案を預かり、本国政府に伝えます。ただし、これは正式な交渉の開始ではありません。あくまで、検討材料の1つである点を明確にしておきたいと思います」

 ガウワーの表情が明るくなった。

 彼は何も結果を持ち帰れない最悪の事態を避けられたのだ。

 当然、ガウワーが提示した英領における日本の優遇措置も、抽象的ではあるが記載されている。

「太田和殿の分別ある対応に感謝します」

 午後の会議では、国境画定合意文書の最終調整が行われた。

 法的文言を精査し、両国言語での表現の確認は細かい作業である。しかし、次郎とガウワーは互いに譲歩しながら、最終的な合意に達したのであった。

「これで正式な合意文書が完成しました」

「はい。双方の政府による批准を経て、この文書の内容は正式な合意となります」

 ガウワーは満足げに言い、次郎もまた、文書に署名しながら静かに同意した。

「これが英日関係の新たな一歩となることを願います」

 署名を交換した後、ガウワーは次郎に向かって深々と頭を下げる。

「太田和殿、この3日間の交渉は私にとって大変有意義でした。貴殿の外交手腕に敬意を表します」

「私もまた、ガウワー殿の誠実な対応に感謝します。複雑な国境問題の課題に、建設的に取り組んでいただきました」

 2人は握手を交わし、長い交渉の終わりを告げた。

 ヒュースケンも次郎に深く頭を下げ、別れの言葉を述べる。

 ガウワーとヒュースケンが退出した後、部屋に残った次郎たちはようやく緊張から解放された。


「やれやれ、やっと終わった」

 次郎は椅子に深く腰掛け、長いため息をつく。

「ジロちゃん、お疲れさま」

 お里が熱いお茶を差し出した。

「見事な交渉でした、兄上」

 彦次郎が言った。

「あの草案を受け取ったのは賢明な判断だったと思います。完全に拒否すれば、イギリスとの関係がさらに悪化していたでしょう」

「次郎、すまなかった。つい、出しゃばってしまった」

「いいえ、少将様。ご指摘の内容は非常に的確でした。ただ、交渉の場では一貫した姿勢を示さなければならないのです」

「なるほど。外交とはかたしであるな」

 昭武は心から感心したように言った。

「今回の経験は、私の将来に大きな学びとなった。次郎の手腕には感服する」

「過分なお言葉です」

 次郎は頭を下げながらも、心の中では昭武の成長を感じていた。

 最初は自分の立場を理解せずに振る舞っていたが、この短い交渉の中でも、学ぶ姿勢を見せていたのである。

 いつか日本の外交に重要な役割を果たすかもしれない。

「さて、報告書の作成に取りかからねば」

「はい。まずは国境合意の内容と、和親条約草案に関して整理しましょう」

 次郎の言葉に彦次郎が応えた。


 次回予告 第415話 (仮)『交渉後のパリ』

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