慶長四年七月二十五日(西暦1599年9月14日) 諫早城
「申し上げます殿下! 諫早の湊に蒸気で動く汽帆船。我が国の船ではなく、横に上から赤、白、青の三色の旗を掲げています!」
急ぎ足で入ってきた伝令の報告に、居室に居合わせた全員が息をのんだ。
純正はゆっくりと立ち上がり、窓に向かった。遠くの湊の方向を見つめるが、ここからでは船が見えない。
「蒸気船だと? それも赤、白、青の三色旗?」
閣僚の声には緊張が混じっている。
赤と白と青の三色の横じまで、その旗はネーデルラントの国旗だ。
蒸気船を製造・保有・運用可能な国家など、肥前国以外ありえなかった。しかし、伝令は間違いなく蒸気船だと伝えてきたのである。
話に聞いていた転生者が、いよいよ蒸気船を作り、海を渡ってこの国にやってきたのだ。
肥前国の蒸気船がリスボンへ到着したのが10年前。
これはオランダが、少なくともその当時の技術レベルに達している事実を意味している。
「殿下、いかがなさいますか?」
直茂が聞いてくるが、その側には嫡男の勝茂がいる。
直茂も還暦を超え、家督相続を考えなければならない年齢となっていた。
「いかにも何も、出迎えるほかあるまい。オレが直々に会いに行く。どんな船かも見てみたいしな」
純正は笑いながらそう言って家臣団を落ち着かせた。
これまで圧倒的な軍事力を背景に、言い方は悪いが世界の覇権を握ってきた肥前国である。自国と同等の国力の国があるなど、信じられないのだ。
しかし、それが事実であれば、受け入れなければならない。
受け入れたうえで、対応を考えなければならないのだ。
「さて、いかなる船か……。楽しみだ」
張り詰めていた空気が、純正の穏やかな声に少しだけ緩んだ。
直茂をはじめとした家臣団は、なぜ純正がそこまで冷静なのか理解できない部分がある。
しかし、これまでも純正は時代にそぐわない考え方や行動で肥前国を大きくしてきたのだ。何か考えがあっての行動に違いない。
「直茂、迎賓の準備を。ジュリアン、そなたも同行せよ。ネーデルラントの言葉はそなたが一番詳しいだろう」
遣欧使節団は全員がラテン・スペイン・ポルトガル語が堪能であったが、派遣先の国々の公用語である英語・オランダ語・フランス語も、意思の疎通ができるほど話せたのだ。
諫早城から湊までは、整備された石畳の街道が続いている。
純正を先頭に、直茂、ジュリアン、そして数名の護衛の騎馬が、心地よい風を受けながら進んでいった。
湊が近づくにつれて、人々のざわめきが大きくなってきた。港には、各国の商船や軍艦に混じって、見慣れない船が停泊している。
それは、確かに蒸気船だった。
船体からは白い蒸気が立ちのぼり、舷側に設置された外輪が印象的である。
肥前国初期の外輪船に似ているようだが、細部が異なっていた。
「これは……フリュート船だな」
フリュート船。
オランダ黄金時代を象徴する船で、船底に比べて甲板が狭く西洋梨の形状の船体を持ち、喫水線の上の狭いデッキには大きな貨物室があった。
合計8隻。
全てが蒸気船である。
純正にとって幸いだったのは、スクリュー船ではなかった点だ。
スクリュー船の実用化は肥前国でも5年前である。
少なくとも、技術の開きが5年ではなく10年であるのが判明したのだ。
「はじめまして、殿下。私、ネーデルラント総督マウリッツ・フォン・オラニエ・ナッサウの名代で参りました、フレデリック・ヘンドリックと申します」
「!」
目の前の少年は、大人びてはいるが、おそらく10代の中ごろだろう。
オラニエ公の実の弟を名代としてきたのか?
これは、かなりの出来事だ。
「こちらこそ。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。私が肥前国王ならびに大日本国関白太政大臣の小佐々平九郎でございます」
純正は瞬時にそう感じ、自身の紹介をした。
湊に停泊するネーデルラントの船から降り立った少年は、ほっそりとした体格ながらも、堂々とした態度で純正に向き合う。
その瞳には、年齢以上の知性と冷静さが宿っていた。
「このたびは、わざわざお出迎えいただき、恐縮です」
フレデリックの日本語は流ちょうで、なまりがなかった。時代による違いはあるが、明らかに母国語のそれである。
純正はそんな彼を観察しながら、にこやかに応じる。
「いえいえ。遠路はるばる来られたのですから、こちらこそ歓迎します。諫早城へご案内しましょう」
純正の言葉に、フレデリックは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私に随行した学者たちも、ぜひとも肥前国の進んだ文化や技術を拝見したいと申しております」
彼は振り返り、船から降りてくる一行を示した。中年の学者らしき人物たちが、好奇心に満ちた表情で周囲を見回している。
純正はほほ笑みながらうなずいた。
「もちろん、どうぞご自由にご覧ください。全てをお見せできるわけではありませんが、かといって隠す必要がある技術ばかりではありませんので」
もちろん、軍事技術の全てを見せるわけにはいかない。
しかし、相手の国力を見るには、こちらもある程度開示しなければならないのだ。
2人の間には言葉にならない理解があった。この出会いが単なる外交以上の意味を持つと、うすうす感じていたのだろう。
諫早城の大広間には和式と洋式の2つがあり、今回純正は洋式の大広間でフレデリックを出迎えた。純正の向かって左にフレデリックが座り、それぞれの側に側近が控えている。
「殿下、まずは私の兄、マウリッツからの親書をお渡しします」
フレデリックは丁寧に封印された書状を差し出した。純正はそれを受け取り、封を切って読み進める。
親書の内容は、肥前国との友好関係構築の意向、技術や学問の交流の提案、そして商業関係の強化に関しての願いが書かれていた。
形式的な外交辞令の背後に、より深い意図を感じさせる文面である。
純正は読み終えると、静かに書状を折り畳んだ。
「実に興味深い提案です。マウリッツ殿下の友好の意向には、喜んでお応えしたいと思います」
フレデリックはほっとした表情でほほ笑んだ。
「兄もきっと喜びます。実は、我が国はずっと貴国の技術的発展を遠くから注目してきました。特に、蒸気機関の応用や海軍力の増強には、目を見張る成果があります」
「それはこちらも同じです」
純正はカップを持ち上げ、くつろいだ様子で言葉を続けた。
「外輪船を8隻も率いてのご来航。すばらしい技術力です。私が蒸気船を初めて作った頃を思い出しました」
この一言には、さりげない試しの意図が込められている。もし、相手が自分と同じく転生者なら、この投げかけに何らかの反応を示すはずだ。
純正はすでにフレデリックが転生者だと確信していたが、面と向かってもう一度確認したかったのだろう。
「そうですね、ロバート・フルトンの蒸気船まで、あと200年ですからね」
「! ……そうですね。確かに……」
なんと、フレデリックはさらっと言ったのだ。
あと200年だ、と。
純正以外は何のことか理解できていない。
特殊な蒸気船で、200年という数字は果てしなく先の話の比喩だろう、程度の認識である。
直茂や官兵衛でさえ、そうであった。
「しかし、我が国の船にはまだまだ改良の余地があります。肥前国のスクリュー推進船に関しては、ジュリアン殿の船を見て存じていましたが、ぜひとも再度、詳しく拝見したいと考えています」
「ああ、スクリュー船ですか。確かに外輪船より効率が良いですね。機会があれば、ぜひ見学してください」
ぜひ、とは言っているが、最初から無条件で全てを見せるわけにはいかない。
表向きはなごやかな雰囲気ではあるが、純正とフレデリックは腹の探り合いをしているのだろうか。
しかし、それにしてはフレデリックは自らの正体を現している。
「フレデリック殿、遠路はるばるの来航、何か特別な目的がおありなのでしょうか?」
直茂が静かに口を開く。
フレデリックは少し考え込む様子を見せた後、決意を固めた表情で顔を上げた。
「正直に申し上げます。我が国は、スペインとの独立戦争を経て、ようやく自立の道を歩み始めました。しかし、ヨーロッパの情勢は複雑です。イングランド、フランス、スペイン、ポルトガル……それぞれが覇権を求めて争っている」
彼は一度息を整えてから続けた。
「そんな中で、我が国は純粋に技術と学問、そして交易による発展を目指しています。この訪問の目的は、肥前国との友好関係を築き、互いの知識や技術を共有し、両国の発展に寄与する点にあります」
純正はじっと相手の目を見つめた。
「なるほど。率直なお話、ありがとうございます」
「私も同じ考えです。戦争ではなく、知恵と技術による発展こそが、真の繁栄をもたらすと」
フレデリックもまた立ち上がり、純正の横に並んだ。二人は城下の風景を眺めながら、言葉を交わす。
「殿下、よろしければ、明日にでも私の船をご覧いただけませんか?」
「喜んで」
純正はにっこりと笑った。
「では、肥前国の施設もご案内しましょう。互いの技術を知り合うのは、友好の第一歩です」
2人の間に流れる空気は、表面上の友好を超えた複雑な雰囲気だった。互いを探り合い、試し合いながらも、どこかに互いに響き合う部分がある、不思議な感覚。
それは、同じ境遇を持つ者同士にしか分からない共感なのかもしれない。
次回予告 第873話 (仮)『金色の時計』

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