第413話 『英国の本音と日本の矜持』

 慶応三年七月一日(1867年7月31日)

 あー眠い。

 昨日はあんまり眠れなかったからな……。

 分厚いステーキのジューシーな肉汁もいいけど、みそ汁も飲みたいし刺身も食べたい。ホテルの洋食にも飽きたんだよ!

 知行の料理長に適当に魚を調達してもらって、刺身作ってもらえねえかな?

 2024年ならまだしも、1867年のパリでそれを望むのは無理……無謀かな、やっぱり。


 午前10時、ガウワーとヒュースケンが到着した。

 昨日より決意に満ちた雰囲気を次郎は感じ取る。気のせいだろうか。

「おはようございます、太田和殿、少将殿」

 ヒュースケンが日本語であいさつし、一同も礼儀正しく応じた。

「さて、昨日は基本的な枠組みで合意しました。今日はより具体的な内容を詰めていきましょう」

 ガウワーは切り出した。

「我々も同意見です。まず、測量隊の編成に関して協議しましょうか」

 次郎は会話を国境問題に集中させようとした。

「もちろんです。しかし、その前に昨日の続きとして、もう少し大きな枠組みに関して話したい点があります」

 やはり来た。

 次郎は内心で身構えつつも、冷静に応じる。

「どういった点でしょうか?」

「太田和殿、率直に申し上げます。我が国は貴国との関係回復を真摯に望んでおります。国境問題はその第一歩に過ぎません。より包括的な関係を構築するために、和親通商条約の締結を提案したいのです」

「ガウワー殿のご提案は理解しますが、私の権限は国境問題の協議以外にはないのです」

 提案に対し、次郎は表情を変えずに返答した。

「承知しています。しかし、国境を画定する行為自体、国家間の関係を前提としています。その点について、太田和殿のお考えをお聞かせいただければ」

 ガウワーの巧みな誘導に、昭武が動きを見せる。

 次郎は昨日の教訓を生かし、わずかに昭武に目配せをした。昭武はうなずき、落ち着いた口調で質問する。

「ガウワー殿、質問があります」

 質問者は昭武である。

「どうぞ」

「貴国が望む『関係回復』とは、具体的にどういった関係を指すのでしょうか? 戦前の状態の回復、または全く新しい関係の構築でしょうか?」

 昭武の質問は穏やかながらも核心を突いている。

 戦前の日英関係は、他国と同様に日本に関税の自主権があり、外国の領事裁判権もなかった。

 居留地内では例外であったが、それも戦前までに改善され、治外法権は在外公館の敷地内に限定されていったのである。

 ヒュースケンが通訳すると、ガウワーは慎重に言葉を選んだ。

「少将殿のご質問は的確です。我々が望むのは新たな関係の構築にあります。過去の争いを乗り越え、相互尊重に基づく友好関係を結びたいのです」

「具体的には?」

 昭武の追及に、ガウワーは少し緊張した様子を見せた。

「例えば、外交官の相互派遣、一部の港における貿易の再開、文化や学術の交流などです」

 次郎が静かに口を開いた。

「それらは国交正常化の後の話ではないでしょうか。まずは、国境問題の具体的な課題に集中すべきだと思います」

「太田和殿、国境問題と国交回復は同時に進めるほうが効率的ではないでしょうか」

「私にはその種の権限がありません」

 ガウワーは困惑の色を見せたが、新たな角度から迫ってきた。

「では、仮定の話ですが、どんな条件であれば国交回復が可能とお考えですか?」

 これは外交官として当然の手腕である。

 仮定の話として聞くことで、次郎の個人的な見解を引き出そうとしているのだ。

「ガウワー殿、それは私の権限を大きく超える問題です。しかし、一般論として申し上げるなら、相互尊重と対等な関係が前提となるでしょうね」

「対等な関係ですか」

 ガウワーは興味深そうに身を乗り出した。

「ええ。一方的な要求や圧力ではなく、双方の利益を考慮した関係です」

  昭武が再び口を開く。

「ガウワー殿、貴国は我が国に何を求めているのですか? 率直にお聞かせください」

  ヒュースケンが通訳すると、ガウワーは少しだけ困った顔をした。

 この少年の率直な質問に、外交的な曖昧さでは対応しきれないのだ。

「少将殿、我々は平和的な関係を望んでいます。貿易の再開、文化交流、そして地域の安定です」

「それだけですか?」

 昭武の追及は容赦ない。

「我が国のアラスカ開発に対する影響力は求めていないのですか?」

 つまり、国境画定と国交回復後に、アラスカの開発に介入してこないのか? それが問題なのである。

 大村藩からの技術供与の面だけでなく、アラスカにおける権益も狙っていたのだろうか。国交の回復を二の次三の次だと思っていた次郎には、新たな視点である。

「少将殿、それは……」

「では、はっきりと申し上げましょう」

 昭武は立ち上がり、地図を指し示した。

「この国境線が確定すれば、アラスカは完全に我が国の主権下に置かれます。貴国はそれを受け入れられますか?」

 会場に緊張が走った。

 次郎は昭武の大胆さに冷や汗をかきながらも、その核心を突く質問に感心している。

 国境画定交渉の過程で、表面上は主権を認めながらも、実際には以下の不確定要素があった。


 ・特定地域での軍事活動の制限

 ・資源開発に関する協議義務

 ・通商や航行に関する特別な取り決め

 ・将来的な再交渉条項


 などの条件を付けようとする可能性があったのである。

 ガウワーは長い沈黙の後、ゆっくりと答えた。

「……我が国は、正当な手続きによって確定された国境を尊重いたします」

「それでは、我が国のアラスカにおける完全な主権を認めるのですね?」

「そのとおりです」

 ガウワーの答えに、次郎は安心した。これで交渉の基盤がさらに固まったのである。

「ありがとうございます。ガウワー殿」

 次郎は静かに言った。ここで主導権を取り戻す必要があった。

「アラスカにおける我が国の主権を認めていただいて感謝します。これで国境画定の基本的な前提が明確になりました」

 次郎は地図を広げ、議論を具体的な国境線の問題に戻した。

「では、測量隊の編成を協議しましょう。我々の提案は、日英両国から同数の測量士と技術者を派遣し、共同で作業を進める内容です」

 ガウワーは昭武の鋭い追及から解放されて、ほっとしていた。

「その提案に同意します。では、測量の時期と期間は?」

「来年の春から夏にかけて実施し、秋までに報告書をまとめるのが妥当でしょう。冬季は測量に適さないと聞いています」

 次郎は穏やかに自分のペースで会話を進めていった。彦次郎が必要な資料を提供し、お里はフランス語やドイツ語の地理用語を補足する。

 昼食の時間になり、いったん休憩することになった。


 次郎は昭武に近づき、小声で告げる。

「少将様、アラスカの主権を明確にされた手際は見事でした。されど、あまり強く出過ぎると、相手が防御的になりすぎる懸念があります」

「あい分かった。だが、やつらの本音を引き出すには時に強く迫る必要もあるのではないか?」

「仰せのとおりにございます。されど、はじめに申し上げましたが、ご発言はお控えくださいませ」

 昭武は理解してうなずいた。

 言いたいことを言って気持ちは良かったが、次郎の忠告を無視して出しゃばったことに関しては、少しだけ反省しているのかもしれない。


 昼食後、ガウワーは予想通り、再び国交回復の話題を持ち出した。

「太田和殿、国境問題の交渉は順調に進んでおります。そこで改めてお尋ねしますが、国交回復の条件、具体的には何をお考えですか?」

 次郎は表情を変えずに答えた。

「あくまで私見ですが、まずは和親条約から始めるのが妥当です。外交官の相互派遣や基本的な航行権の保障などですね。通商に関しては段階的に協議していくべきだと考えます」

「しかし太田和殿、和親条約だけでは、我が国の議会を納得させるのは難しい。何らかの通商権も含まれるべきではないでしょうか」

「議会を納得? 何に対しての納得か分かりかねますが、それは国内の事情ですね。我が国としては、拙速な通商関係の再開は危ういと判断しています」

 次郎の冷静な対応にガウワーは焦りを感じたのか、ついに本音を出した。

「太田和殿、率直に申し上げます。我が国は貴国、特に大村藩の技術に強い関心を持っています。もし技術協力に道を開いていただければ、我々としても国交条件において柔軟な対応が可能です」

 次郎はこの瞬間を待っていた。

 本当の狙いが技術協力だと明らかになったのだ。しかし、表情を変えずに応じる。

「技術協力に関しては、国交が正常化した後の課題ではないでしょうか。また、大村藩の技術は日本国に属します。私個人では判断しかねる問題です」

 実際、そろそろ国内で技術を共有するときがやってきていた。

 いつまでも大村藩だけの技術であってはならない。

 しかし、それが幕府を強く、または諸藩を強くしてはならないのだ。

 幕府を弱めつつ、かといって諸藩が強くなり過ぎない。そういった議会制民主主義を作ってからでないと、危険だからである。

「太田和殿」

 明確な次郎の言葉に、ついにガウワーは切り札を出した。

「我が国は東南アジアやアフリカに広大な植民地を持っています。それらの地域での貴国との通商活動に特別な便宜を図ることも可能です。これは単なる提案ではなく、具体的な利益をもたらします」

 イギリスの植民地での特権は、日本の海外進出にとって魅力的な提案であった。しかし、それは同時にイギリスの勢力圏内に組み込まれるリスクでもある。

 このとき、彦次郎が静かに資料を次郎の前に置いた。

 技術交流の可能性に関する覚書である。

「ガウワー殿」

 次郎はそれをちらりと見て、新たな切り口を見つけたのだ。

「国交が正常化した後、民間企業同士での技術交流は別の問題として考えられるかもしれません。政府間の技術供与ではなく、企業同士の自由な交流であればです」

 この一言で、ガウワーの表情が明るくなった。

 完全な拒絶ではなく、可能性の窓を開いたのだ。

「民間レベルでの交流……それは大変興味深い視点ですね」

「あくまで将来的な可能性の話ですが、民間企業同士の協力は、政府間の取引とは性質が異なります。自由な市場の中で、互いの利益にかなう形での交流は、双方にとって有益でしょう」

 次郎は巧みにガウワーに希望を持たせつつも、具体的な約束はしなかった。これは外交における駆け引きなのである。 

「また、貴国の植民地での通商に関しても、国交正常化後に正式な通商条約の中で議論すべき課題ですね」

「そうですな。太田和殿の視点は非常に建設的です」

 ガウワーはいったん引いて、次郎のペースに合わせながら続けた。

「では、その将来の可能性を念頭に、まずは国境問題の解決と基本的な和親条約の締結を目指す、この方針でよろしいでしょうか」

「その理解で結構です。ただし、繰り返しになりますが、私の権限は国境問題の協議のみなのです。条約の詳細に関しては、本国政府の判断が必要なことをご理解ください」

 次郎は議論の主導権を握りながら、イギリス側を徐々に自分の望む方向へと導いていった。


 次回予告 第414話  (仮)『最終交渉』

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