慶応三年六月二十九日(1867年7月30日)
パリ万博の日本パビリオン、特に大村藩の展示場は連日大盛況で、人波は途切れなかった。
むしろ、各国要人からの視察要請が相次ぎ、対応に追われる状況となっていたのである。
しかし、次郎はイギリスとの交渉の全権を委ねられてはいても、あくまでそれは日本としてであり、その他の国との交渉権限はない。
来訪者の目的の多くは大村藩からの技術供与に関連していたが、その大村藩は日本国、つまり幕府の隷下であると明確に示していたのだ。
それでも、各国の要人が手を替え品を替えて訪問してくる。
あまりに度が過ぎると、根回しはしていても、大村藩の国内での地位が危うくなる可能性もあった。いわゆるやっかみである。
「ジロちゃん、これじゃあ他の国のパビリオンの技術動向が調査できないね」
お里が少し困った顔で言う。彼女は産業関連の出品物の責任者として大成功を収め、次郎に随行していた。
フランス語とドイツ語(英語とオランダ語も)に堪能なお里の存在は、欧州での交渉において、大きな力になると考えていたからである。
「仕方ないよね。予測はできたけど、ここまでとはなあ。極論、やることやったから、さっさと帰ってもいいんだけどな」
「……」
次郎のその言葉にお里が少しだけふくれっ面になった。
仕事で来ていると分かってはいても、旅行気分がまったくないとは言えない。日本を離れて、157年前とはいえパリにいるのだ。
夫である次郎との時間も増えてきたからこその、ふくれっ面なのだろう。
そんな会話を続けながら、次郎はイギリスとの非公式接触に関する準備を進めていた。
クルティウスからの連絡によると、今日中にイギリス側から正式な会談提案があるそうだ。
「父上、フランスからの使者が来ております」
顕武が部屋に入ってきた。
彼は軍事面で次郎を支えており、万博でも軍事展示のスタッフとして活躍し、西洋の軍人たちを驚かせていたのである。
フランスといえば、万博のホスト国であり、ナポレオン三世の影響力は無視できない。
「通してくれ」
入ってきたのは、フランスの外務大臣、リオネル・ド・ムスティエである。
「ボンジュール、ムッシュ太田和。大村藩の展示、すばらしかった」
フランス語であいさつする侯爵に、お里が応対した。
「侯爵閣下、お越しいただき光栄です。私は太田和次郎左衛門の通訳を務めておりますお里と申します」
お里の流ちょうなフランス語に、侯爵は感心した様子でほほ笑んだ。
「マダムのすばらしいフランス語に敬服します。さて、実は皇帝陛下が日本、特に大村藩の技術に強い関心をお持ちでして。何か協力できればと」
お里は次郎にムスティエの言葉を伝え、次郎の返答をフランス語に翻訳した。
「大変光栄なお申し出ですが、技術提供の件は幕府の意向も確認せねばなりません。もちろん、両国の友好関係を深めるためなら、何らかの形での協力は検討できるでしょう」
ムスティエはほほ笑み、皇帝の親書を差し出した。
「どうか、ご検討を。陛下は日本を高く評価されています。いずれ、正式な会談の席を設けさせていただきたい」
「……侯爵閣下、閣下が私を、大村藩を高く評価していただくのは光栄です。しかし、立場上私はこれを受け取れません。親書でしたら、日本使節団の外務官僚(外国奉行)がおりますので、そちらを通してお渡しください」
フランスとしては、事実上の技術保有者である大村藩の実力者、次郎との面通しの上渡したかったのだろう。
しかし、それでは幕府使節団の面目は丸つぶれである。
次郎にまったくその気がなくても、敵を作ってしまうからだ。
侯爵が立ち去った後、ロシアとアメリカからも同様の申し出があった。
そこに入ってきたのは徳川昭武である。
すっかり次郎に懐いている様子だ。
「次郎よ、この後いかがいたす?」
少将と呼ぶべきか、昭武様と呼ぶべきか迷う次郎だったが、少年の純粋な好奇心に思わずほほ笑んだ。
史実で言えば民部公子だが、すでに権少将に叙任されている。
「少将様、実はイギリス側との非公式会談を控えております」
「おお、それは面白そうだ! ぜひ同席させてくれぬか?」
次郎は一瞬迷ったが、将軍後見職の実弟である立場を考えれば、むしろ同席してもらったほうが交渉を優位に進められるかもしれない。
「承知しました。ただし、お約束を。会談中はそれがしの指示に従っていただけますか?」
昭武はうれしそうにうなずいた。
「もちろんじゃ。そなたの手腕、見せてもらおうではないか」
うーん、プレッシャーでしかない。
次郎は弟の彦次郎を呼んだ。
「彦次郎、お前には政治面から補助してくれ」
「分かりました、兄上」
彦次郎は相手の懐に入り込む術にたけており、政治と外交に優れた才能を持っていたのだ。次郎は右腕としていつも同行させている。
次郎の交渉術の根本には、大村藩の圧倒的な技術力や、前世で知っている歴史の知識があった。
それに加えて、列強が日本を下に見ていた点も無視できない。
しかし、本心では下に見ていたとしても、日本を侮るべからざる国として認識している相手には、彦次郎の人心掌握術が必要となってくる。
結局、外交とは、さまざまな利害が絡んだとしても、人対人である。
頭では理解できても、信用できない、馬が合わない、などは往々にしてあるのだ。
その逆もしかり。
是か非かの判断が必要なとき、相手の人間性が判断基準になるときがあるのだ。
理詰めの次郎とはタイプの違う男、それが彦次郎である。
やがて、クルティウスが一人の紳士を連れて部屋に入ってきた。
「次郎殿、イギリス外務省のエイベル・アンソニー・ジェームズ・ガウワー殿だ」
「……ふう。やはり、あなたでしたか。来るなら、あなたじゃないかと思っていましたよ」
2人のただならぬ様子に気づいたクルティウスは間に入る。
「これは驚いた。次郎殿、お二人は面識があるのですか?」
「ああ、クルティウス殿、ご心配には及びません」
次郎はほほ笑んだまま、クルティウスの言葉を遮った。
「日英戦、戦後の交渉から、図らずもサラワク王国で一度お会いしておりますので」
「なんと!」
クルティウスは驚きに目を見開いた。
彼は帰国してから外交の表舞台からは退き、もっぱらゆったりとした余生を過ごしていたのである。
日本とイギリスの戦争や日本の勝利は知っていたが、ガウワーと次郎との関係までは知らなかったのだ。
ガウワーもまた、次郎の落ち着いた態度にいぶかしげな表情を浮かべている。
「クルティウス殿、その件は後ほど……。では、改めて、エイベル・アンソニー・ジェームズ・ガウワー殿。このたびは、加賀藩の船とその乗組員の救助にご尽力いただき、誠にありがとうございました。日本国を代表して、心より感謝申し上げます」
次郎は深々と頭を下げた。
その言葉に偽りはない。加賀藩士の命が助かったのは、何よりも喜ばしいことだったからだ。
ガウワーは一瞬たじろいだが、次郎のペースにのまれてはならないと、すぐに表情を引き締め、向き合った。
「なんだ、次郎よ。因縁の対決か?」
「しょっ、少将様。……違います。なにとぞ、何卒……」
先が思いやられる……。
「’What is it, Jiro? Is this a causal confrontation?’The man beside Mr Otaawa says so.」
(『なんだ、次郎よ。因縁の対決か?』Mr.太田和の横の男性がそう言っています)
「Huh, indeed. I’d say it’s a fate.」
(ふ、確かに。因縁と言えば因縁だな)
ガウワーは傍らに日本語の通訳を同伴させていた。
次回予告 第412話 (仮)『昭武、外交デビュー?』

コメント