慶長四年二月二十五日(西暦1599年3月21日) 建州女真本営
早春の風が吹き抜ける建州女真の本営。
モンゴル高原への入口に位置する本営は、女真軍の集結地となっていた。広場には千五百を超える騎兵が整然と隊列を組み、出発の合図を待っている。
鎧は朝日を反射し、馬は時折いななきながら地面を蹴る。戦の前の静寂が場を支配していた。
高台に立つヌルハチの姿は、50歳を過ぎてなお威厳に満ちてる。左右にはヌルハチ挙兵時からの五大臣(功臣)、エイドゥとヒュンドンの二人が控えていた。
「いよいよ我らの北征が始まる」
ヌルハチの声は低く、しかし確固たる決意に満ちていた。
彼の目は遥か北方のモンゴル平原へと向けられている。
「この機を無駄にはせぬ。モンゴルの諸部族を女真の支配下に置き、北方の脅威を完全に除去するのだ。五年の間にモンゴル全土を制圧する」
エイドゥが一歩進み出た。
痩せ型で面長の彼は、五大臣の中でも特に軍事戦略に長けている。
「ハーン、第一軍はチャハル部の主要集落を目指し、明日の夜明けに出発いたします。最初の一月でブヤン・セチェン・ハーンの主要拠点を制圧し、彼らの抵抗を封じます」
「良し。ブヤンの力は衰えつつあるというが、油断するな。彼らがハルハ部と連携する前に叩け。三月以内にチャハル部の主要勢力を屈服させるのだ」
「御意」
続いてヒュンドンが前に出た。
がっしりとした体格の彼は、実戦での腕前に定評がある。
「第二軍はハルハ部との交易路を遮断すべく、北回りのルートを進みます。チャハル部を支援できぬようにし、同時に彼らの補給線を断ちます。夏の終わりまでには彼らも屈服するでしょう」
ヌルハチは満足げに頷いた。
「モンゴル諸部族の団結を何としても防げ。各部族を個別に対処し、一つずつ我らの支配下に置くのだ。二年以内にハルハ、ウリャンカイの左翼両部を制圧する。残りの三年で右翼のオルドス・トゥメト・ヨンシエブを含めた全土の統治基盤を固める」
「明は休戦協定を守るでしょうか?」
エイドゥが尋ねた。
あるときは懐柔され、あるときは服属させられ、またあるときは戦ってきたのだ。明に対する色濃い疑念が彼の声に表れている。
「ホホリとアンフィヤンク、フルガンが遼東を守る。明は当面、動くまい。いや、動けぬと言った方が正しいな。ヤツらは国力を富ませ、国威を発揚せねばならんだろう。それに純正のお墨付きだ。破るようなバカではあるまい」
ヌルハチは冷静に答えた。
「五年の間に我らは北方から脅威を完全に排除し、その後、全力で南へ向かう」
エイドゥとヒュンドンは、ハーンの意図を理解し、静かに頷いた。
ヌルハチは再び地図に目を落とす。
モンゴル高原は広大だ。
チャハル部、ハルハ部、トゥメト部、オルドス部、ヨンシエブ部、ウリャンカイ部。六つの部族を一つずつ打ち破り、あるいは懐柔し、自らの支配下に置かなければならない。
それは容易な道のりではないだろう。
広場では、騎馬隊の準備が着々と進められていた。
ヌルハチの計画は時間との勝負である。
5年は長いようで、短い。
モンゴルの広大な草原を短期間で制圧するには、速度と効率が求められる。だからこそ、部隊は軽装備で機動力を重視した編成になっていた。
「出発せよ。女真の栄光のために」
ヌルハチの号令と共に、エイドゥとヒュンドンは軍勢の先頭に立つ。
やがて、大地を揺るがす蹄の音と共に、北征軍は本営を出て広大な草原へと姿を消していった。
一方、ヌルハチの命を受けたホホリは寧夏へ向かう道の途中であったが、ヘトゥアラから寧夏までは遥かな道のりである。早馬を乗り継いでも、片道一月以上はかかるだろう。
哱承恩との会談を通じて寧夏との友好関係を維持し、明との関係を探る重要な任務であった。
■慶長四年三月一日(西暦1599年3月27日) 大興安嶺東麓 女真軍の進路
建州女真の本営から約50里(約200km)北西に進んだ地点。
小高い丘の上ではモンゴル遊牧民の装いをした二人の男が腹這いになり、遠くを見つめている。実際には肥前国の諜報員である彼らは、北上する女真軍の動きを監視していた。
「女真軍の先頭部隊は建州本営を出発してからすでに六日目になる。今日中に鳥林川を渡り、チャハル部の領域に侵入するだろう」
年長の諜報員が、望遠鏡を通して遠方を観察する。鳥林川からチャハル部の主要集落までは、さらに約四十里(約160km)の距離があった。
同行している若い諜報員がそっと尋ねる。
「そもそも殿下は、何ゆえかような遠方まで我らを遣わすのですか?」
「我らは殿下の命を受け、アジア各地の情報収集にあたっている。特に女真とモンゴルの動きは重しであるからな」
年長の諜報員柴田広経は地図を取り出し、女真軍の進路と目的地を確認した。
「このまま進めば、ヌルハチの軍は三日後にはチャハル部の主要集落に達するだろう。チャハル部はまだ女真の襲来に気づいていないようだ。ブヤン・セチェン・ハーンの居住する集落は、ここから約五十五里(約220km)先にある」
「女真軍の規模はどれほどですか?」
「第一陣が千五百、後続部隊も含めると五千ほど。チャハル部は完全に不意を突かれる」
広経は小さくため息をついた。
「さあ、急ぐぞ。この情報を次の中継点まで持っていかねば。殿下は東アジアの情勢変化を常に把握しておきたいのだ」
二人は馬にまたがり、密かに設けられた隠し道を通って南へと向かった。彼らの任務は、見聞きしたことを正確に記録し、肥前国へと伝えることだった。
■慶長四年三月二十六日(西暦1599年4月21日) チャハル部の主要集落
血と砂煙に包まれたチャハル部の集落。
3週間前、女真軍は9日間の行軍の末、チャハル部の主要集落を奇襲。不意を突かれたブヤン・セチェン・ハーンの軍は初戦で敗北し、主要集落に籠城を余儀なくされていた。
女真軍とチャハル部の激しい戦いは既に三日目を迎えている。
集落の周囲は女真軍の攻撃によって多くの箇所が壊され、内部では生き残りのモンゴル兵が最後の抵抗を続けている。
中央の高台に立つ青いゲルの中で、チャハル部の長であるブヤン・セチェン・ハーンが孫のリンダン王子と対峙していた。
「撤退する時が来た。ここは放棄せよ」
年老いたハーンの声は弱々しかったが、決意に満ちている。
「まだ戦えます。我らの騎兵は—」
「もはや勝算はない」
ハーンは疲れた目で孫を見つめた。
「奴らの奇襲は完璧だった。ここで全てを失うわけにはいかん。部族が生き残るためには、一時的な敗北を認めねばならぬ時もある」
リンダン王子は言葉に詰まった。彼は若く、わずか20歳に満たなかったが、その眼差しは並外れた知性と決意を示している。
「祖父上が先に退かれよ。私は殿を務め、残りの者たちを守ります」
「リンダン……」
激しい馬の嘶きと武器の打ち合う音がゲルの外から響き、天井から砂埃が落ちる。女真軍の攻撃が更に激しさを増していた。
「申し上げます!」
伝令がゲルに駆け込んできた。
「東側の防衛線が崩れました。ヌルハチ本人が率いる部隊が集落に突入してきます!」
ブヤン・セチェン・ハーンは口髭に手をやり、静かに立ち上がった。
「我がチャハル部の生き残りを頼む、リンダン」
彼は孫に儀式用の短剣を手渡すと、ゲルを出て行った。リンダン王子は一瞬呆然としたが、すぐに表情を引き締め、側近に命令を発した。
「西側から一般の民と兵の一部を脱出させよ。我々は祖父上と共に敵を食い止める」
「王子!」
ヌルハチ率いる女真軍の勢いは益々激しくなっていった。
次回予告 第868話(仮)『5年の計』

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