第861話 『登州会談』

 慶長四年正月二日(西暦1599年1月28日) 登州城外

 霧の立ち込める湾に、沙門しゃもん島を経て一隻の小舟が静かに近づいていた。ホホリは和平の旗印を携え、緊張した面持ちで周囲を警戒している。

 女真軍は登州全域から撤退し、登州城を中心とした蓬莱ほうらい地区に立てこもり、徹底抗戦の構えをとっていたのだ。




「何ですと? 明と和議を結ぶのですか?」

 守備隊長は驚きと共に、疑いの目をホホリに向ける。

「そのとおりだ。わしにも信じられなかったが、どうだ? 状況は良くはないのであろう?」

 確かにそうであった。

 明軍の進撃は止まらず、さらに各地で立ち上がる義勇軍の勢いも日に日に増している。蓬莱での籠城戦も、いつまで持ちこたえられるか分からない。

「沙門島からの補給も、明軍の妨害が激しくなってきている。このままでは……」

「うむ」

 ホホリは相づちを打つ。

「しかし、ハーンが言うには、悪い事ばかりではないようだが……どうだ?」

「……」

 そもそも、沙門島はほとんど無人島であった。

 この登州にしても、明軍は大部分を奪い返しているのだ。

 各地で義勇兵が増えているとはいえ、土地を奪還した民が、これ以上の戦いを望むかは疑問である。

寧夏ねいかと和議を結んで、我らに兵を集中できるといっても、それは我らも同じ。我らもモンゴルとの戦いを終えたのだ。それを知らないはずはあるまい。逆にこちらに今以上の兵力を投入できる。厳しい戦いになるのは、あちらも同じではないか?」

 ホホリはヌルハチの真意をくみ取り、自分なりに明が講和に応じるとの確信を持って来ていたのである。

 部下の動揺を鎮めるように、静かに続ける。

「今こそ、我らが有利な条件で和を結べる時なのだ。明も長期戦を望んではおるまい。蓬莱と沙門島さえ確保できれば、それは我らの交易拠点となる。明にとっても、これ以上の戦費を投じるよりは……」

 守備隊長は深いため息をつき、ゆっくりとうなずいた。

 確かにホホリの言うとおりだった。明軍との戦いは、これ以上続けても膠着こうちゃく状態が続くだけかもしれない。

「では、私から敵将に使者を出してもよろしいでしょうか」

「うむ。ただし、こちらから和を請うのではないぞ。あくまでも、対等な立場での和議だ」

 ホホリは厳しい表情を崩さなかった。この和議は、決して敗北を意味するものではない。むしろ、次なる戦いに向けた布石なのだ。

 霧の向こうには、明軍陣営のかがり火がうっすらと浮かび上がっている。

 ホホリは静かに目を細め、李化龍りかりゅうとの会談に向けて心を引き締めた。




「申し上げます!」

 伝令の声が朝の静寂を破って陣営に響き渡る。

「何事か!」

 李化龍と李如松は、二人で今後の戦況を考えていた。

 万暦帝に約束した登州完全奪回の期限が迫っていたのだ。しかしそのためには、相当の被害を覚悟した上で総攻撃をかけなければならない。

 期限まで、一ヶ月を切っていた。 

「女真軍から、和議の申し出にございます」

「何?」

 李化龍は伝令の言葉に、思わず耳を疑った。

「和議だと? あの女真が?」

 李如松も眉をひそめる。

「ふん、遼東でモンゴルに痛めつけられたからであろう」

 しかし、李化龍の胸中には別の思いも去来していた。今、総攻撃をかければ確かに勝機はある。だが、その代償は計り知れないのだ。

「ともかく、会ってみるか」

 李如松が言葉を投げかけた。

「うむ。だが、会ったとしてどうするのだ? 和議を受け入れるのか? 陛下にお約束した期日は、あと一月もないのだぞ」

「このまま戦って命を無駄にしなくてもよいのなら、それに越したことはない」

 李化龍の言葉に李如松は静かに答えた。

「そうだな……」

 李化龍も同意するようにうなずく。確かに今なら、戦果も上がっている。このタイミングでの和議なら、朝廷への体面も保てるはずだ。

 戦いが長引けば長引くほど、状況は悪くなる。

 勝っている時はいいが、いったん負け始めると崩れるのは早いのだ。

 訓練された兵士ですら、そうなのである。

 いかに士気が上がっているとはいえ、農兵は農兵でしかない。

「しかし、ヤツらの真意は何なのだ?」

 李如松は眉間にしわを寄せる。

 女真との戦いは、これまでも何度となく繰り返されてきた。和を結んでも、すぐに破棄されるのは珍しくなかったのだ。

「わしが考えるに、モンゴルとの戦いで痛手を負ったのではないだろうか。和議を申し出てくるならば、相応の理由があるはずだ。和議を結ばねばならぬ理由がな」

「ふむ……。しかし、考えてばかりでは始まらん。会ってみれば分かる。まずは、使者の言葉を聞こうではないか」

 李如松の言葉に、李化龍は静かにうなずいた。

 李化龍は陣幕を出ると、朝もやが立ち込める平野を見渡した。遠くには蓬莱の城壁が、霧の向こうにぼんやりと浮かんでいる。

 義勇兵たちは陣営の周囲で朝の支度を始めている。彼らの多くは農民であり、戦いに不慣れだ。それでも、故郷を守るという一心で、命を賭して戦場に身を投じてきた。

「なぜ今、女真は和を求めてきたのか……」

 李化龍の独り言に、側近の一人が答えた。

「総兵大人、敵は遼東でモンゴルと戦っていると聞きます。あるいは……」

「うむ。戦力を分散させられぬということか」

 李化龍は自分の推測が正しいという確信を深めた。

 モンゴルとの戦いが長引いていると考えれば、しっくりくる。ここで和議を結び、兵力を三萬衛へ集中するのが兵法の定道であろう。

 それならば、なおさら和議を受け入れるわけにはいかない。

 敵である女真軍の増援がないと分かれば、一気呵成いっきかせいに攻め上げるべきなのだ。

「使者を通せ」

 李化龍の声が、朝もやの中に響いた。

 その瞬間、両軍の間に緊張が走る。




 霧の向こうから、女真軍の使者ホホリの姿が浮かび上がってきた。その堂々とした歩みには、和議を申し出る側とは思えない威厳が感じられる。

「わが名はホホリ。ハーンの命を受け、和議の使者として参った」

 ホホリの声は冷静で、むしろ高圧的ですらあった。

 李化龍は眉をひそめる。

「和議とな。では聞こう。なぜ今になって和を求めてきた」

「求めてきた、などと言われては心外だ。我らは蓬莱と沙門島を保持したまま、登州を返すと申し出ているのだ」

 李化龍は思わず目を見開いた。

「は? 返す? くくくくく……! 片腹痛い。返してもらわずとも、すでに登州はわが手に戻っているではないか」

 ホホリはすぐには返答しない。

 李化龍の言葉が終わり、隣の李如松の発言がないか確認した上で返答する。

「返すとはそのまま。現に、我らは戦わずに引き揚げたではありませんか。これを返すと言わずに何と言うのです? 戦おうと思えば戦えたのです。その場合、どうなっていましたか? 少なからず、あなた方の被害も多かったのでは? 我らがただで退くなど、あり得ぬ」

 ホホリは不敵な笑みを崩さない。

 何か腹に一物あるようだが、李化龍にも李如松にも読めないのだ。

「ふん……。まあ、良い。良いでしょう。それで、条件は何でしょうか。和議を結ぶからには、条件があるのでしょう?」

「条件は二つ」

 ホホリは指を二本立てた。

「一つは蓬莱と沙門島の保持。もう一つは、そこでの交易の自由だ」

 李化龍は目を細めた。

 沙門島は無人島に等しいとはいえ、遼東と山東を結ぶ補給の要衝でもある。そこを女真が握れば、いつでも山東に侵攻できるのだ。

「ふむ。蓬莱と沙門島か。二つとも欲しいというのは、欲張りすぎではないかな。蓬莱だけでも十分な港を持っている。なぜ沙門島まで必要なのだ?」

 李如松が口を開いた。

「人の住まぬ無人の島。そこまで構えなくてもよいではありませんか。それに我らは登州に攻め込み、河間府まで手に入れたが、そのほとんどを失う。対して貴国は、奪われた国土のほとんどを取り返した。それだけで、和議の条件としては十分なのでは?」

 ホホリのその態度には、まるで勝者の余裕すら感じる。

 李化龍は眉間にしわを寄せた。この和議の申し出には、何か裏があるはずだ。しかし、それを見抜くことはできない。

「では聞くが、もし我らがその条件をまなければ、どうする?」

「それは……」

 ホホリは一呼吸置いて、不敵な笑みを浮かべた。

「全力をもってお相手いたしましょう。その際は、相応の被害を考えてくだされ。貴国の兵の大半は民兵。訓練されたわが軍と戦って、どれほどの被害が出るか……」

「ばかな!」

 モンゴルで苦戦しているから和議を結びたいのではないのか?

 李化龍はホホリの言葉を一笑に付した。




「申し上げます! 急報にございます!」

 明軍の伝令の声が高らかに響いた。




 次回予告 第862話 (仮)『登州会談、決着』

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