慶応三年五月二日(1867年6月4日)フランス ル・アーヴル
パリ万博に二ヶ月遅れて参加となった日本遣欧団は、艦隊をフランスのセーヌ川河口にある港町ル・アーヴルまで進ませた。
潜水艦『大鯨』と水雷艇『神雷』のえい航索を切り離し、万博参加要員は展示物の陸揚げを行っている。
「久方ぶりにございます、勝様。然れどこれは、まさに圧巻としか言いようがありませんな」
オランダに留学し、開陽丸の回航のためにフランスに立ち寄った榎本武揚である。
安政四年(1857年)に、榎本は江戸築地の軍艦操練所で勝に学んでいたのだ。その勝は最初、大村海軍伝習所(兵学校の前身)で学んでいる。
榎本は教官であった勝に挨拶にきたのだ。
「ああ、まさかあの時は、公儀の船で欧州までくるとは思いも寄らなかった。然れどそれは、まさに大村家中のおかげと言わねばなるまい」
勝は榎本の顔を見つめ、静かに頷いた。
「お主も随分と変わった。開陽丸の回航、無事に行えたか?」
「はい。開陽丸も立派な船でございます。然れどこれは……」
榎本は沖に停泊する艦隊を見て、言葉を詰まらせた。
「特に大村家中の軍艦は、まるで別物。鉄の装甲を施し、さらにあの潜水艦と水雷艇は、まさに圧巻。欧州でも見たことがございません」
榎本の率直な驚きに、勝は苦笑いを浮かべた。あごに手をあてて、『知行』を眺めながら言う。
「そうじゃろう。われらが咸臨丸で渡米した時とは、隔世の感がある。大村家中の技術は、もはや欧州をも凌駕しているやもしれん」
セーヌ川河口に停泊する艦隊の中で、『大鯨』と『神雷』は異彩を放っていた。その洗練された外観は、まさに未来の兵器を思わせる。
「そうそう、榎本。この後、セーヌ川を遡上する予定じゃ。お主も見物に来るとよい」
「まさか、あの潜水艦をパリまで?」
「うむ。ナポレオン三世陛下も、ご覧になるそうじゃ」
勝の言葉に、榎本は思わず息をのんだ。パリ万博での実演は、フランスの技術者たちにとって衝撃となるに違いない。
「ジロちゃーん! おーい! ジロちゃーん!」
次郎と隼人、廉之助は大村藩の出展物の陸揚げと最終確認をしていた。
そこに聞き覚えのある張りのある声が聞こえてきたのだ。
「わっ! ……おい、みんな見てる!」
走ってきたと思えば、ぴょんと飛び跳ねて次郎に抱きついてキスをするお里である。
「いーじゃない! ジロちゃん、私に会えなくて寂しくなかったの?」
「いや、そういう訳じゃないけど、TPOってもんをだな……」
それを言ったらお静もである。
だが、口が裂けてもそんな事は言えない。
「ん……あ、ごほん! 義姉上、然様な事をなされては、衆目を集めまする。われらは国の代表として来ておるのです。もっと大村藩家老の奥方としての自覚を……」
「あら、隼人ちゃん。こっちではこれが普通なのよ。長い間会えなかった夫に会えて、喜びを表すなんて当たり前のこと。別に恥ずかしいことじゃないわ」
かたわらの隼人が目を覆いながらお里に注意するが、お里はどこ吹く風である。開放的な性格の彼女にとって、次郎と離ればなれは悲しいが、フランスの気風はしっくりくるのだろう。
「そーだそーだ、兄上は堅いのですよ、堅い」
次郎たちがわいわい騒いでいるのを見かけた彦次郎と顕武が、会話に割って入ってきた。
「うるさいっお前が言うな」
わはははは、とまた笑いが起きた。
長い航海が嘘のように日常に変わる。
「顕武、フランス海軍との調整はすんだのか?」
「はい、調整は済みました。先ほど、フランス海軍のデュピュイ・ド・ローム大佐と打ち合わせを終えたところです」
顕武は父への報告を済ませると、隼人と廉之助に目配せをした。二人もうなずいて前に出る。
「『大鯨』と『神雷』のセーヌ川遡上は、フランス海軍が全面的に協力してくれることになりました。潮の流れと水深を考慮して、最適な時期を選定するとのことです」
次郎は満足げに頷いた。
「満潮時を狙うのだな?」
「はい、セーヌ川は干潮と満潮で水位が大きく変わります」
「うむ」
「特に河口のル・アーヴルから上流に向かうためには、満潮時に合わせて出発する必要があります。さらに水深の浅い区間もありますので、それらを考慮して最適な航行日時を選定するとのことです」
遡上には様々な危険が伴う。特に『大鯨』は潜水艦としては世界初の河川遡上となるため、慎重な準備が必要だった。
「ナポレオン三世陛下も、是非ご覧になりたいとのことです」
隼人が補足すると、廉之助も続けた。
「技術的な詳細は伏せたまま、セーヌ川での実演を行います。ただ……」
廉之助は一瞬言葉を詰まらせた。その表情には、どこか不安げな影が浮かんでいる。
「なんだ?」
「はい。フランスの技術者たちの関心が、予想以上に高いのです。特にディーゼルエンジンについては……」
次郎はため息をついて廉之助に話す。
だからなんだ、と言わんばかりである。
「まあ、同じ技術者として気持ちがわかる、と言いたいのだろうが、絶対に見せてはならんぞ。もし仮に、見られたならば、フランスはどうだ? 同じ物を作れるか?」
そう言って隼人と廉之助に確認したのだ。
二人は顔を見合わせた。
口を開こうとしたが、言葉が出てこない。
「まだ設計図を見ただけでは作れないはずです」
廉之助が慎重に答えた。
「そうだろう? 実物を見ても、内部構造がわからなければ同じものは作れない。しかしな、見られただけでも技術の一端が漏れる。それだけは避けねばならん」
次郎の言葉に、隼人も深くうなずく。
「兄上の仰る通りです。我々の技術は、まだ世界のどの国も持っていないもの。これを守り抜かねば」
「では、セーヌ川での実演はどういたすのですか?」
顕武が実務的な質問を投げかけた。
「それは予定通り行う。ただし、乗組員以外の立ち入りは厳禁だ。フランス側の監視も必要最小限にとどめる」
お里は夫の真剣な表情を見つめながら、静かに微笑んだ。
「おいっ! こら! 入るんじゃない!」
次郎たちが真剣な話を終えた時、岸壁から怒鳴り声が聞こえてきた。
「おじちゃん! 見るだけだよ! 見るだけ!」
「何だあれは?」
次郎が声のする方を見ると、白いシャツを肘までまくり上げ、蝶ネクタイにサスペンダー、大きな丸眼鏡をかけた少年がいた。
「なんでしょう? 地元の少年でしょうか。14~15歳ほどにみえますが」
少年の目を惹いているのは、明らかに大鯨である。
驚くような速さで艦首から艦尾まで、何やら叫びながら走っては注意されていたのだ。
「いかがした? 何を騒いでおるのだ?」
「こ、これは御家老様! 実はそこの子供が大鯨を見せてくれ、乗せてくれとうるさいのでございます。無論、やかましいと断っておりますが」
「然様か……」
次郎は報告を受けた後、しばらく聞き取れないフランス語をしゃべる少年の様子を見ていたが、少年が突然近寄ってきた。
「ねえおじさん、おじさんが一番偉い人? ねえ、お願いだから、見るだけだから見せてよ、あのsous-marin」
「え? 何だ? オレはフランス語は分からん。おさっちゃん、何て言ってるんだ?」
「あー、あなたが一番偉い人? だったらあの潜水艦見せてよって言ってるわね」
何が『だったら』なのかよくわからない次郎だが、まあ子供の言う事だ。
そこまで心配しなくてもいいだろう。
そう結論づけた。
「まあよい、隼人、廉之助。案内してやれ。子供ゆえ、質問されて答えてもわからんだろう。適当に答えておくんだぞ。嘘はいかんが」
何だかよく分からないが、どこかで見た事があるような少年だ。
どこだったか……。
フランス人の知り合いは、ロッシュと通訳と、軍関係者以外は前世も今世もいないはずだが。
次郎の頭をよぎった。
「然れど兄上、それがしも廉之助も、フランス語は不得手でござます」
「なーに、だから、いいのだ。何を言っているのかわからず、相手もこちらが何を言っているのかわからん。機密の漏れようがないわ」
次郎は高らかに笑って、念のためにお里を随行させた。
お里が通訳として同行し、少年は興奮した様子で『大鯨』の周りを歩き回った。最初は目を輝かせ、子供らしい質問を繰り出す。
「わあ! すごい! ねえ、これは本当に水の中に潜れるの? どれくらい潜れるの?」
お里が訳すと、隼人が笑顔で答える。
「うむ、潜れるぞ。深くはないが、30メートル程度ならな」
「ふーん……じゃあ、中はどうなってるの? 窓はあるの? どうやって息をするの?」
「窓はない。息は、特別な仕組みで……まあ、詳しい事は答えられんが」
少年は『へえ』と感心したように頷いたが、次の瞬間、目つきが鋭くなる。
「じゃあ、推進はどうしてるの? スクリュー? それともパドル?」
お里が訳すと、廉之助が一瞬戸惑う。
「ええと……スクリューだ。●×△□エンジンで回している」
少年はさらに身を乗り出す。
「動力は? でも、さっきの質問と同じだけど、蒸気機関だとしても空気が必要だよね? 潜ってる間はどうするの?」
隼人と廉之助は顔を見合わせた。
明らかに、ただの好奇心ではない。
次郎の言葉を思い出した二人は、思いっきり専門的な事を説明してけむに巻こうとした。
「CO2の除去に関しては水酸化カリウムを使用し、電気分解で酸素を供給して、さらに……」
「ディーゼルエンジンのサイクルにおける圧縮比と燃焼効率の関係性こそが重要で、吸気・圧縮・燃焼・排気をいかに無駄なく効率よくだな……」
「え? ちょっと、二人とも、何て? ディーゼルエンジンって人の名前とエンジン? 専門用語は……」
専門用語の通訳は難しい。
それは現代でも同じだろう。
「圧縮……比と燃焼……効……率ですか?」
少年は目を輝かせた。
「カルノーサイクルの理論を応用したものですね。高温の熱源から仕事を取り出し、低温の熱源に排熱を……」
隼人と廉之助は顔を見合わせた。
1824年にサディ・カルノーが発表した熱力学の基本理論を、この少年が知っているとは。
「その……ディーゼルエンジンですが、蒸気でもなく、ルノワールのガス機関でもない。いったい何を燃料にしているんですか?」
「ダメだ。それ以上は軍事機密だ」
隼人と廉之助は声を合わせるように答えた。
ハモってしまったのだが、少年のただならぬ知識に驚きを隠せない。
「さあ、もう終わり! 出ましょう」
お里の一声で少年の探険は終わった。
次回予告 第397話 (仮)『パリへの道』

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