慶長九年三月二十六日(1604年4月25日) リスボン
港からリベイラ宮殿へと続く石畳の道を、異様な一行が進んでいた。
日蘭《にちらん》の使節団である。その前後左右を、物々しい武装のポルトガル兵が固めている。
中心を歩くのは、オランダ海軍少将ハルベルト・トロンプと、大日本帝国海軍少将の松浦草野永茂《まつら くさの ながしげ》だ。
周囲を囲む護衛兵団は王国の国旗を掲げてはいるが、その実は反乱軍の首謀者フォンセカの配下である。
「国王の旗を掲げ、国王に弓を引くか。見事な偽善ですな」
草野は隣を歩くハルベルトに低くつぶやいた。
「ええ。民衆を惑わし、自らの大義とするには最も有効な手立てでしょう。我々を『客人』として丁重に扱うことで、彼らは自らの正当性をアピールしているのです」
ハルベルトは冷静に分析するが、その目は笑っていない。
やがて一行は、テージョ川を望むリベイラ宮殿の壮大な正門前へとたどり着いた。
広場は5,000の反乱軍であふれ返り、宮殿は堅固な外壁に守られて静寂に包まれている。正門の門楼の上からは、宰相派の衛兵が眼下の敵軍を厳しい表情で見下ろしていた。
「ではお二方、私が衛兵に宰相との謁見の申し出を伝え、フォンセカ様の許可を得てからご案内いたします」
反乱軍の士官が進み出ようとしたとき、草野が手を挙げてそれを制した。
「……その必要はない」
「は?」
草野は冷ややかな視線を士官に見下ろした。
「我々は国を代表して来た全権特使だ。なぜ外交権のない一介の侍医長の許可を仰がねばならん? ここから先は、我々だけで行く」
草野とハルベルトは、呆気にとられる士官に背を向け、堂々と宮殿の門へと歩みを進める。
士官は唇を噛んだが、動けなかった。外交特使に手を出せば、フォンセカの掲げる『国王への忠誠』という大義名分が崩壊するからだ。
重い城門が内側から開かれ、宰相付きの衛兵長が現れる。彼は2人を見ると、安堵の表情で深々と頭を下げた。
「使節の皆様、お待ちしておりました。宰相閣下が奥にてお待ちです」
宮殿の内部は驚くほど静かだったが、空気は張り詰めていた。すれ違う兵士や官吏の顔には、極度の疲労と絶望の色が濃い。
長い廊下の突き当たりにある扉の前で、出迎えた宰相クリストヴァンは足を止めた。
ここが、ポルトガル王国の心臓部であり、今まさに国家の命運が揺らぐ『急所』でもあった。
「この中に、陛下が」
クリストヴァンの声は震えていた。
草野とハルベルトは無言で一礼し、宰相が扉を開くのを待った。
重厚な扉が開かれると、室内はどこか張り詰めた、清浄な空気に満ちていた。
当時の病室にありがちな、病の臭気を誤魔化すための香草や没薬の匂いはない。換気が徹底されているのだ。代わりに漂うのは、わずかな酒精(アルコール)の香り。
日本やオランダでは既に導入されている『衛生』の概念が、このリスボンの奥深くでも徹底されている証であり、2人にとっては馴染み深い安心できる空気だった。
部屋の奥から、白衣を纏った男たちが足早に歩み寄ってくる。
「……宰相閣下。それに、こちらの御仁は?」
先頭に立ったのは、ネーデルラントから派遣された医師オットーだ。
そしてその背後には、鋭い眼光を放つ若い男が控えている。同じくネーデルラントの医師団に所属する内科医アエリウスである。彼らは純正の提唱する近代医学を学び、同盟国への支援として送り込まれた技術者たちだ。
「日本とネーデルラントの特使だ。日蘭連合艦隊と共に到着された」
クリストヴァンが短く紹介し、すぐに問い返す。
「それより、陛下の容体は?」
オットーは眉間に深い皺を刻み、首を横に振った。
「一進一退です。命の峠は越えましたが……」
一行は、部屋の中央に鎮座する天蓋付きのベッドへと歩み寄る。
そこに横たわるセバスティアン1世の姿は、あまりに痛々しかった。
発見当初に見られた手足の浮腫(むくみ)や皮膚の変色は、一月以上にわたる医師団の懸命な治療によって治まりつつある。
だが、長期間摂取し続けた毒素は、王の肉体を極限まで衰弱させていた。頬はこけ、体は一回り小さくなったように見える。
「……毒か」
ハルベルトの呟きに、アエリウスが淡々と応じた。
「ええ。壁紙や暖炉……『環境』そのものに仕込まれた遅効性の毒です。発見が遅れれば助かりませんでしたが、今は解毒治療を終え、回復を待っている状態です」
「意識は?」
草野の問いに、オットーが答える。
「一日の大半は、このように泥のように眠っております。食事の時などに目を覚ますことはありますが、意識は混濁しており、こちらの呼びかけにも反応いたしません。毒素による神経障害で、喉や舌も麻痺しておりますゆえ、言葉を発することも不可能です」
つまり、「生きているが、王としての機能は失われている」状態だ。
医師団がつきっきりで流動食を口に含ませ、マッサージを行い、なんとか命をつなぎ止めているのが現状だった。
「証拠は……出せるのか?」
宰相の問いに、オットーは首を横に振る。
「医学的には明白でも、法廷では無意味です。『目に見えぬ毒』など、民衆には呪いと区別がつかない。逆に、意識のない王を薬漬けにして操っていると、宰相閣下が糾弾されかねません」
外には5,000の反乱軍。証拠なき告発は、彼らに攻撃の口実を与えるだけだ。
「……万策尽きたか」
クリストヴァンが崩れ落ちかけた、その時だ。
「いえ、まだです」
草野は静かに、しかし力強く言い、ベッドの王を指し示した。
その時、セバスティアンがうっすらと目を開いた。焦点は合わず、天井の虚空を見つめるだけだが、その胸は確かに上下している。
「陛下は生きておられる。これ以上の証拠(切り札)があるでしょうか」
「どういうことだ」
ハルベルトが問う。
「奴らの大義は『国王救出』。宰相閣下、貴殿が陛下を害している、というのが口実です。ですが、陛下はこの通り生きておられる。この寝息がある限り、貴殿は王を守る忠臣。奴らこそが、王の静養を妨げる逆賊となります」
草野は宰相に向き直り、力強い眼差しを向けた。
「陛下が意識を取り戻し、真実を語るその時まで、我々が貴殿の盾となりましょう。日蘭の国旗が翻るこの宮殿に手を出せば、それはポルトガルの内戦ではなく、世界大戦の引き金となる。フォンセカ如きに、その覚悟があるとは思えません」
その言葉は、絶望の淵にいたクリストヴァンに一筋の光を与えた。
しかし、彼の表情はすぐに曇る。
「だが……フォンセカの背後にはスペインがいる。もしフェリペ3世が『保護』を名目に軍を送ってきたら……」
「来ませんよ」
草野は即答し、鼻を鳴らした。
「国境は静かなままだ。それが答えです」
「なっ……?」
「我ら日蘭の連合艦隊がリスボンに入港した事実は、とっくにマドリードに届いているはずです。今のスペインに、世界最強の海軍を敵に回す度胸などありません」
ハルベルトも同意してうなずく。
「ええ。もしスペイン軍が国境を一歩でも越えれば、我々は即座にスペイン沿岸の港湾都市を焼き払うでしょう。フェリペ3世も馬鹿ではない。勝てない喧嘩は売らないはずです」
スペインは、セバスティアン王の死と国内の混乱に乗じて介入するつもりだった。だが、日蘭の迅速な到着によって、その野望は完全に封じ込められたのだ。
「……つまり、スペインは動かない。いや、動けない」
クリストヴァンが安堵の息を吐こうとした、その時である。
ドォォォォン……!
腹に響くような轟音が、宮殿の石壁を震わせた。
「な、なんだ!?」
全員が窓の外を見る。
広場を埋め尽くす反乱軍の陣営から、硝煙が上がっていた。
慌てて伝令兵が部屋に飛び込んでくる。
「ご、ご報告します! 反乱軍が……フォンセカ一派が、宮殿への攻撃を開始しました! 正門に対し、破城槌と大砲を使用しています!」
「なんだと! ?」
クリストヴァンが叫ぶが、草野は目を細めてニヤリと笑った。
「なるほど。『捨てられた』か」
「捨てられた……?」
「スペインの後ろ盾を期待していた反乱軍ですが、我らの到着で援軍が期待できなくなった。梯子を外されたのです」
スペインの援軍は来ない。
時間が経てば、国王が回復し、毒の真相が暴かれるかもしれない。
追い詰められたネズミ(反乱軍)に残された道は、日蘭が本格的に介入する前に、力尽くで宮殿を落として既成事実を作ることだけだ。
「窮鼠猫を噛む、とはこのこと。面白い」
草野は軍刀の柄に手を置いた。
「し、しかし草野殿! 敵は5,000の大軍ですぞ!? 宮殿の衛兵だけでは半日と持ちません!」
狼狽する宰相に対し、草野は涼しい顔で首を振った。
「ご安心を。我々が手ぶらで上陸したとお思いですか?」
「え?」
ハルベルトが不敵な笑みを浮かべて補足する。
「我々護衛の兵装をご覧にならなかったのですか? 宮殿内には既に、我がオランダ海兵隊と日本の海兵隊、計500名の精鋭を展開させてあります」
彼らはただの兵ではない。
最新式の装備と近代戦術を叩き込まれた特殊部隊なのだ。旧態依然とした戦術しか知らない5,000の反乱軍など、彼らにとっては「的」でしかなかった。
「宰相閣下、あなたは陛下の御身をお守りください」
草野は軍帽を被り直し、低く重い声で告げた。
「あの暴徒どもに、時代の変化というものを教えてやりましょう」
砲撃音が響く中、虚空を見つめる王の傍らで、日蘭の指揮官たちは戦闘態勢に入った。招かれざる客たちは今、ポルトガルを守る最強の盾にして、鋭利な矛となったのである。
次回予告 第935話 『孤立無援の攻防』
スペインの援軍が来ないと悟り、暴発した反乱軍。5,000の兵による宮殿への総攻撃が始まる。だが、彼らを待ち受けていたのは、日蘭陸戦隊による正確無比な十字砲火だった。
そして、医師団はついに「毒の正体」へと近づいていく。


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