第479話 『狼煙を上げよ』

 慶応五(明治二)年六月八日(1869年7月16日)

 ――発 次郎 宛 岩倉様

 夏草に 露と消えなむ 古き世の

 おごりを知らで 身を滅ぼすかな――

 このところ、世の移ろい真に急にて、心穏やかならぬ日々にございます。

 そもそも人の性(さが)とは変を忌み、安きを好むものにて候。されど、それに安んじて道を誤る事、古今の常にて御座候。

 今般の公家衆のなされよう、もしや一時の迷いにて、天子様までもが御宸襟しんきんを悩ましあそばされ候わば、真に遺憾に堪えず候。

 思えば夷船いせんペリーの浦賀来航より、ロシア艦の対馬占領、また日英戦役の折にも微力ながら国を憂い、身命を賭して事に当たりき候間、今またこの国の行く末を誤らせまじと存じ候。

 ついては真の忠義を示し、天下に是非を知らしめるべく、我が艦隊を率い大阪湾にて演習を行い、兵をもって上洛じょうらく仕りたく存じ候。

 何卒、岩倉様には公家衆へもその旨お含みおきのうえ、惑いふためく事の無きよう御伝達くださいますよう伏して願い奉り候。

 恐惶きょうこう謹言

 六月七日

 太田和左衛門佐武秋

 岩倉様




 ■六月十日 京都 小松帯刀邸

 御所にて昇殿前に慶喜の奇策を聞いた木戸と帯刀は、今後の対策に奔走していた。

 討幕の勅許を得る策が、完全に潰えたのである。

「我らは、あやつを侮りすぎていた」

 木戸の声に帯刀が応じる。

「左衛門佐殿(次郎)が京を去った時すでに、こうなる事は見えていたのかもしれん」

 木戸と同様に帯刀の表情もまた、疲労と失望の色が濃い。

 次郎が突きつけた幕府への経済支援停止は、慶喜を追い詰めるはずの最後|通牒《つうちょう》であった。

 しかし結果として、慶喜に薩長さっちょうにとって最悪の一手を打たせる引き金となったのである。

「大義名分は、完全に幕府の手に渡った。今、我らが兵を挙げればただの賊軍。朝廷の敵となる」

 諸藩はこぞって幕府方につくだろう。

 薩摩と長州は、天下に孤立するのだ。

 この数日間打てる手を尽くしたが、状況は好転しない。

 重い沈黙の後に、木戸は静かに立ち上がった。

「一度藩邸に戻る。藩の者らと、今後の策を詰めねばならん」

 もはや焦りはなく、覚悟を決めていた。

「そいがよかろう。おいも、西郷さあ達と改めて策を練る。後ほど、また」

 小松は深くうなずいた。




 ■長州藩邸

「で、どうするんだ?」

 長州での兵備を部下に任せた晋作が木戸に聞いた。

 しかし木戸は晋作の問いにすぐは応えない。

 重い足取りで机へ向かい、どかりと腰を下ろした。

「大義名分がない。慶喜にしてやられた。あやつは天子様を、朝廷を完全に手中に収めたのだ。今兵を動かせば、我らが朝敵となる」

「……木戸さん、そんな事は分かっているよ。それで結局どうするんだ、と聞いているんだ」

 晋作の追及に木戸は顔を上げない。

 部屋の空気は張り詰め、他の藩士たちも固唾をのんで木戸の言葉を待った。

 晋作の言うとおりである。現状分析だけでは何も始まらない。次の一手をどう打つのか。それが全てであった。

「まあ、まあ……」

 久坂玄瑞が間に入った。

「晋作も険があるぞ。一歩間違えば藩が滅ぶんだ。熟慮せねばならん」

「……今は、動けん」

 熟考の末に木戸がようやく絞り出した。

「薩摩の出方を見極める。我らだけで事を起こしても、勝機はない」

「それだ! 木戸さん、それが聞きたかったんだよ。僕らの当て所(目的)は決まっている。討幕だ。王政復古をしようにも、朝廷が弱腰ならはなから無理だからな。薩摩とも合力しなきゃならんだろうし、もっとも考えなきゃならんのは、次郎様だよ」

 木戸も玄瑞も大きくうなずいた。

 与り知らぬとは言ったものの、それではあまりに無責任すぎる。

 真意を確認しなければ、動こうにも動けないのだ。

「大村藩は無論、朝廷の……そうそう、岩倉様は反対なさったそうじゃないか、次郎様から何か聞いているかもしれないな」

「確かめよう」

 木戸が話をまとめて、会合はお開きとなった。




 ■再び、小松帯刀邸

「ほいで、帯刀さあと一蔵どんはどうすっつもりなんね?」

 西郷隆盛の問いに、すぐに応じる者はいない。

「……道が閉ざされたならば、新たな道をこじあくっ(開ける)まで。大義がなかなら作っしかなか。江戸で騒乱を起こし、幕府ん堪忍袋ん緒を切らせればよか」

 西郷の策の非情さに、誰もが息をのんだ。

 民を巻き込んで自ら混乱の火種をまく禁じ手である。帯刀はその策がもたらす江戸の惨状を思い、顔をしかめた。

「じゃっどん、西郷さあ。そいはあまりに……」

 帯刀が言いかけた言葉を、大久保利通が遮る。

「こい以外に道はありもはん。慶喜がいかに自制を促したとて、江戸ん治安を守っ庄内や会津ん連中が、いつまでも挑発に耐えきっはずがなか」

「そいに……」

 大久保の発言に西郷がかぶせる。

「そいに、こんまま一年三年、五年十年待ったとしてん、幕府ん力は強まりこそすれ、弱まっなどなか。さすれば討幕など夢んまた夢だぞ」

 西郷と大久保の言葉に、帯刀は真っ向から反論できない。

 現実的に2人が言っていることも間違いではないのだ。

「……そんなら……そいは最後ん手段として考えもんそ。そいから大村藩ん考えも確かめたほうがよか。『与り知らん』だけじゃ、いかようにもとるっ(どうとでもとれる)」

 本心で納得しているのかどうかは不明だが、西郷と大久保は首を縦にふった。




 ■慶応五(明治二)年六月十一日(1869年7月19日) 大阪湾沖

 天保山の台場は、朝の穏やかな日差しに包まれていた。

 見張り台に立つ足軽が遠眼鏡で静かな海面をのぞく。その視線の先に、沖から近づく黒い影の集団が現れた。足軽は目を見張り、声を張り上げる。

「報告! 沖合に大艦隊! こちらへ向かってきます!」

 すぐさま上官が駆けつけ、遠眼鏡を奪い取った。

 そこには鋼鉄軍艦『知行』を先頭に、『制海』『清鷹』『瑞鳳』など、指揮官がかつて下関で見た大村藩第一艦隊の姿が映っている。

「案ずるな。あれは大村藩の軍艦じゃ。わしは以前馬関の戦で……ん? 何だ?」

「いかがなさいましたか?」

「……中黒(幕府海軍旗・以前は掲揚していた)がない。日の丸と大村のみだと……これは一体いかなる事だ」




 台場に緊張が走った。




 次回予告 第480話 『鋼鉄の恫喝どうかつ

 慶喜の妙手で討幕の大義を完全に失った薩長は窮地に陥る。

 長州が慎重な姿勢を見せる一方、西郷は江戸での騒乱工作の非情な策に傾く。

 各藩が次の一手を模索する中、京を去ったはずの次郎率いる大村艦隊が突如大阪湾に出現。

 しかしそのマストに幕府の旗はなく、天下に不穏な緊張が走る。

 次回――幕府の旗を降ろした大村艦隊。

 その沈黙の砲口はどこに向けられるのか?

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