第927話 『西方の凶報』

 慶長九年二月六日(1604年3月6日) ポルトガル王国 リスボン

 リベイラ宮殿の奥深く、国王セバスティアン一世の寝室の扉は固く閉ざされていた。

 扉の前には、なすすべもなく立ち尽くす侍医たちの姿がある。

 中からは何の音も聞こえず、その沈黙がかえって宮殿全体に重苦しい不安を広げていた。

 廊下の両端では、2つの派閥が互いを監視するように睨み合っていた。

 片や、セバスティアンが進めた近代化改革によって登用された新興貴族たち。彼らは王の不在に動揺を隠せず、憔悴した顔で扉を見つめている。

 もう一方は、改革により既得権益を失った大貴族や、王から権威を否定されたカトリック教会の高位聖職者たちである。彼らの目に宿るのは不安ではなく、絶好の機会を狙う冷酷な輝きであった。

「日本の大使が動いたらしい」

「永らく閑古鳥が鳴いていたスペインの大使館にも、人の出入りが激しくなっていると聞く」

 小声での会話がいたる所で聞かれ、疑念と策謀に満ちた雰囲気が漂っている。

 この権力の空白を突いて、誰が次の実権を握るのか?

 まるで王の崩御が当然のように、スペイン王家との婚姻を画策する動きさえ公然と語られ始めている。セバスティアンが数十年かけて築き上げた新しいポルトガルの秩序は、その礎を失い、今にも音を立てて崩れ落ちそうであった。

 駐ポルトガル日本大使館では、大使以下、館員たちが不眠不休で情報の収集と分析に追われていた。宮廷内のあらゆる人脈を使って錯綜する情報を整理していく。

「医師団からの情報は? オランダには連絡したのか?」

 暗殺事件以来、オランダの医師団が侍医と協力してセバスティアンの健康管理と食事の管理をしていた。前回の純正の来訪以降は、日本の医師団もそれに合流して体調管理をしている。

「保守派が、テルシオ(スペイン傭兵)を国内に引き入れようとしているとの未確認情報あり」

「改革派は、日本の支援を期待している。早期の艦隊派遣を非公式に要請してきた」

「国王の病状、依然として意識不明。回復の見込みは薄い、と侍医の一人が漏らしたとの由」

 集まる断片的な情報は、いずれも事態が内乱へと向かっていることを示唆していた。

 親は震える手で筆をとり、最悪の事態を想定した報告書を記す。

 主観を排して客観的事実を記載しつつも、起こり得る可能性を記したこの一通が、日本の、そして世界の未来を左右するかもしれない。

 彼は書き上げた書状に厳重な封をし、待機させていた高速連絡船の船長へ手渡した。

「一刻も早く、これを殿下の下へ。帝国の未来が、君の双肩にかかっている」

 ■数か月前 ネーデルラント連邦共和国 ハーグ

 高速連絡船がもたらした凶報は、オランダ総督府を震撼させた。

「義父上(セバスティアン国王)が、病に倒れただと?」

 オランダ総督マウリッツ・ファン・ナッサウは、報告書を手に険しい表情で立ち尽くす。

 傍らでは、弟のフレデリック・ヘンドリックが顔面を蒼白にさせていた。彼の妻は、セバスティアンの娘であるポルトガル王女イザベル。この知らせは、彼にとって政治的な危機であると同時に、家族の危機でもあった。

「医者を! ……いや、オットーだ、オットーを呼んでくれ! 兄上、いいですね?」

「うむ!」

 オットーはフレデリックと同じ転生者で、この時代でも医者として活躍している。

 ■現在

「兄上、これを好機に保守派がスペインと結託して国を乗っ取ろうとしています。義父上の改革が全て無に帰すのを座して待つというのですか。改革派を支援してスペインを牽制するためにも、やはり何らかの軍事行動を起こすべきでは?」

 いつもは冷静なフレデリックも、義父の病状と、それを利用する勢力の動向に判断力が鈍っているのだろうか?

 少しだけ感情的になっている弟を、マウリッツは落ち着いて制した。

「落ち着け、フレデリック。お前の義父は私の義父でもある。しかしだからこそ、軽率な動きはならん。それにスペインは死に体だ。今すぐ動くとは考えにくい。こちらが安易に動けば介入の口実を与えるだけだ。日本は何と言っている?」

「本国からの情報は時間がかかりますが、大使の話では、情報収集に務めつつ、即応できる態勢をとるだろうとのことです。緊急の協議の要請があるでしょう」

 電信の開通は数年先の話である。

 情報伝達に時間がかかる以上、各国に滞在している日本大使の権限は強い。

「ならばまずはポルトガル大使と日本大使を呼んで協議せねばなるまい。艦隊の派遣はフランスとも競技して、ラ・ロシェルへの寄港の是非を確認しよう」

 マウリッツは地図をにらんだ。

 スペインは凋落したとはいえ、無視できる規模の勢力ではない。宗教戦争もほぼ終わりに近づいてはいるが、ここでカトリックの旧弊からヨーロッパ全域のプロテスタントを解放する。

 その大戦略の要が、近代化されたポルトガルだった。

 その要が崩れれば、オランダの未来と日本の世界戦略もすべてが水泡に帰す。

「日本と足並みをそろえる。それ以外に道はない」

 ――リスボン。

「わからん、何だこれは?」

 毒殺未遂ではない。

 前回の事件以降、食事や飲み物、酒をはじめとして、口に入れるものはすべて管理していた。

 もっと言えば体に触れるものも、である。入浴時の湯による可能性も考えたが、異常はなかった。

 突然のめまいで倒れ、極度の疲労とふらつき……。

 そしてそれが改善せずに継続している。

 あまりにも類似の症状の病気がありすぎて、判別が難しかったのだ。

 ■日本 諫早城

 純正がリスボンからの第一報が届くと即座に緊急閣議を開催した。

 大陸どころの話ではない。

 緊急閣議では、重臣たちの間で激しい議論が交わされていた。

 外相の伊集院忠棟は、情報の真偽もわからないのに艦隊派遣は性急すぎる、ポルトガル国内の対立をあおるだけだと言う。

 はたまた海軍大臣の長崎純景は猛然と反発し、邦人の安全のために、万が一の自体が発生してからでは遅いと主張した。

 議論は平行線をたどるばかりである。

 最終的に官兵衛と直茂は双方の意見を聞き、情報収集を第一に、経済的な圧力や外交交渉、軍隊の派遣を並行して進めるべきだと純正に進言した。

「相分かった、さらば純景はケープタウンの艦隊から数隻を選抜して小隊を編制、マディラまで向かわせよ。建前はあくまでも航行訓練じゃぞ。現地での情報収集を忘れるな。いついかなる時でもすぐさま相応に処せるようにせよ」

「ははっ」

「千方。情報省は外務省と密に携え、あらゆる策を講じてリスボンの内情を探れ。これが最も先になすべき事ぞ」

「はっ」

 次回予告 第928話 『見えざる敵』

 ポルトガル国王セバスティアンが原因不明の病に倒れた。

 首都リスボンでは権力の空白を巡り、改革派と保守派の対立が激化。

 保守派はスペインと結託し、政変の気運が高まる。凶報を受けた同盟国オランダと日本は震撼。

 皇帝純正は緊急閣議を開き、情報収集を最優先としつつ、牽制のため小艦隊の派遣を決断する。

 次回、リスボンではオットーがセバスティアンの病名の特定に成功するが、その仮定において、巧妙に隠された恐るべき陰謀が発覚する――。

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