第918話 『ラ・ロシェルの条約とハーグでの転生者密談』

 慶長八年五月二十五日(西暦1603年7月4日) フランス ラ・ロシェル市庁舎

「さて、条約の詳細だが」

 純正は淡々と話し出す。

「先の貴国との二度にわたる海戦において、少なからず我が国も人的・物的損害が出た。その賠償はもちろんだが、国家的責任としての賠償も加わる。よろしいな? 金額はおって決めるが、交渉の余地はないぞ」

 賠償金額を提示したが、とても今のスペインに一括で支払える金額ではない。

 新大陸からの銀の流入が激減し、多重債務に陥っていたスペインはフェリペ3世になってからも破産宣告をしていた。10年や20年で完済できる金額では到底ない。

 そのため生かさず殺さずに、ギリギリのラインでの支払い金額とした。

「さて、さらにもう1つ聞きたいのだが、貴殿は新大陸におけるインカやアステカをどう考えている?」

 純正の問いを、フェリペは全く理解できない。

 今は日本とスペインの交渉ではないか。

 なぜ新大陸の話が出てくるのだ?

 反乱に寄与していると聞いてはいたが、まさかここで別の条件を突きつけてくるのか?

 フェリペはゾクッとした。

 さらに賠償金などが発生すれば、国家は破綻である。

 払えるわけがない。

 返答に困って口ごもってしまった。

「インカやアステカの民が、貴国に奪われた土地や財産を取り返しているそうだ。図らずもカリフォルニアに南下した折に話を聞き、将来の隣人になるのなら、と力を少しだけ貸している。彼らをどう思っているのだね?」

 やはりこの男が黒幕であったか……。

 フェリペの全身から血の気が引いていく。数十年前に滅ぼしたアステカと山奥に追いやったインカの民が、あそこまで頑強に抵抗できるはずがなかったのだ。

「彼らは人だ。貴国が奴隷や家畜として扱う存在ではない。そもそも独立国としてあったのだ。ならば我が国は、彼らの生存権を断固として支持する。もし貴国が独立国として認めるなら、相応の対応をしなければならない。銀山の権利の放棄や領土の割譲……いや、割譲ではないな。返還だ」

 その言葉はフェリペの心臓を撃ち抜いた。

 スペインがこれまで築いた新大陸の植民地経営、その根幹を否定する発言である。

「……それが……陛下の、最後の要求か」

 彼はかろうじてそれだけを言った。

「そうだ。受け入れるか全てを無にするか。選ぶのは貴殿だ」

 純正は冷たく言い放った。

 もはや選択の余地はない。

 最悪の状況だが、これしかないのだ。

 フェリペは自滅より、没落しても国家として生き残る道を選んだのである。

「……承知した。貴国の要求を、スペインは全てのむ」

「よろしい。では、署名を」

 純正が静かに促した。

 すぐに書記官が羊皮紙の条約文書をテーブルの中央に広げる。

 フェリペは重い足取りでテーブルに近づいた。震える手でペンを握り、署名欄に自らの名を記す。

 こうして、歴史的な『ラ・ロシェル条約』が調印された。

 日本とスペインの長年の敵対関係は公式に終結したのである。

 誰もが認めていた既成事実ではあるが、ここに公式にスペインはアジア・太平洋から完全にその影響力を失う。日本の覇権が欧州の主要国に承認された瞬間でもあった。

 調印が終わると、これまで沈黙を守っていたアンリ4世が席を立って純正のもとへ歩み寄る。

「平九郎陛下。歴史的な瞬間に立ち会えたこと、光栄に思います。今回の陛下の決断は、欧州に新たな秩序をもたらすだろう」

「……」

 純正は答えず、ただアンリ4世を見返す。その視線に促され、フランス王は言葉を続けた。

「我がフランスは、新時代の主導者である貴国と、より強固な関係を築きたいと願っています」

「フランス王の申出、心に留めておきましょう」

 純正は笑顔で短く答えた。

 1つの大きな外交的勝利を収め、純正とセバスティアン一行はラ・ロシェルを後にする。本来の目的地であるオランダのハーグへ向けて、蒸気船は再び北へ進路を取ったのだ。

 街に残ったスペイン使節団と、ハーグから派遣されたオランダ政府代表団との間で、オランダ独立戦争の講和交渉が始まる。日本との条約で国力をそがれたスペインには、もはや抵抗する力は残っていなかった。




 ■慶長八年六月一日(西暦1603年7月9日) オランダ ハーグ

 純正一行がハーグに到着すると、港は祝賀の雰囲気に沸き立った。オランダ総督マウリッツ・ファン・ナッサウが、一行を盛大に出迎えている。

「ようこそお越しくださいました。ネーデルラント総督のマウリッツ・ファン・ナッサウです」

 マウリッツは堂々とした風格で純正一行に挨拶をした。

 独立戦争を戦い抜いた将軍として知られ、合理主義的で冷静沈着な指導者である。

「貴国がスペインをしのぐ力を持つに至ったことは、我々にとっても喜ばしい知らせです。今や平和なしにはヨーロッパは成り立ちませんから」

「マウリッツ閣下、そのような言葉をいただけるとは光栄です。今後の欧州の平和と繁栄を願って、我々も協力していく所存です」

 純正は礼を尽くしながら答えた。




 マウリッツは一行を総督官邸へと案内した。

 ラ・ロシェルで日本がスペインの国力を完全にそいだこと。

 間接的ではあるが、その事実が結果的にオランダ独立戦争の公式な終結を導いたのは確かである。

 当日は歓迎の祝宴が催され、翌日、官邸で3国首脳会談が開催された。

 純正、総督マウリッツ、そしてセバスティアンが重厚なテーブルに着く。未来への具体的な計画を話し合うためだ。もちろんフレデリックも同席している。

 会談の主要な議題は、3国相互同盟の確認と『大東方電信計画』であった。

 世界中に情報網を張り巡らせる壮大な計画は、3国の協力なくしては成立しない。

 日本・ポルトガル・オランダの3国の同盟も、同日調印されたのだ。日葡蘭にっぽらん3国同盟である。

 相互に技術を供与して自由交易を行う。軍事的には相互不可侵と、2か国で問題が発生した場合は残りの1国が調停に入る等の内容が盛り込まれた。

「計画の推進のため、共同事業体を設立する。計画の全体統括は日本が担うが、要となる技術開発は日本とネーデルラントが共同で行う。ポルトガルは世界各地の港湾施設と中継地点を提供し、ネーデルラントは優れた海運能力で海底ケーブルの敷設作業を担当する」 

 純正が口火を切ると、マウリッツとセバスティアンは即座に同意した。

 事業体の名称、資本金の拠出割合、各国の役割分担などの細目も次々と承認される。3国の強みが有機的に結びつき、世界を変える計画が具体的に動き出した。




 全ての公式日程が終了した夜、純正は宿舎の私室でフレデリックと2人きりで向き合う。公式の立場を脱ぎ捨てた2人の間には、転生者同士にしか分からぬ空気が流れた。

「しかし、ラ・ロシェルは傑作だったな」

 フレデリックが純正に言った。

「まあ、正直どうでも良かったんだけどね。ほら、新大陸があの状態だろ? 少し援助したら爆発的に広がってさ。ヤツらムチャクチャやってたから不満がでるのは当然さ。黙っていてもスペインがはい上がるのはないと思ってたけどな」

「ははははは、違いない。で、どうなんだ? インカとアステカは?」

 国家の帰趨きすうについて『どうでもいい』なんて、なんて不謹慎だとも言えるが、『違いない』と言ってのけるフレデリックもフレデリックだ。

 しかし、スペインがどうなってもいい、という意味ではない。もはやどっちにしてもあまり影響がない、という意味の『どうでもいい』である。

 フレデリックもオランダが西インド会社を設立して中南米に進出していたので、インカとアステカの動向は気になっていたのだ。直接は重複しないが、隣国となる。

「アステカは首都を奪還して太平洋側のアカプルコを制圧している。ちょうどヌエバ・エスパーニャを南北に分断している形だ。今回の条約で旧領を回復するだろうから、カリブ海とメキシコ湾沿岸部、それから北米の内陸部のみになるな」

「なにそれ、ほぼ死んでんじゃん。大丈夫なのか? スペイン、第一次大戦後のドイツみたいにならないか?」

「あー、大丈夫。だから生かさず殺さずなんだよ。国民の不満が出ない程度にな。うまーくやるさ」

 純正は考えてるさ、と言わんばかりにドヤ顔だ。

「そっか。インカは?」

「インカは……首都のクスコとリマ、それから外港も制圧している。インカはもともとチリ北・中部からアルゼンチンの北西部と、あとコロンビア南部にもあったからね。ペルー副王領は東はポルトガルから圧迫されているから厳しいな」

 銀鉱山が完全にインカとアステカに返還されれば、さらにスペインの税収入は減る。

 ヌエバ・グラナダ副王領やリオ・デ・ラ・プラタ副王領の成立が早まるかもしれないが、原住民の弾圧や奴隷貿易などが存在すれば、純正が黙ってないだろう。

 それに両副王領を歴史に先行して開拓したとしても十数年~数十年かかるし、経済規模が違いすぎる。完全に植民地化しても、代替には成り得ないのだ。

「オランダとしてはどうなんだ?」

「んー、中南米は日本とポルトガルがあるからな。入れたらいいけど、基本ガイアナとカリブ海より北だな。まあそこにはイギリスやフランスも入ってくるんだけど、どっちにしても奴隷や原住民の弾圧はしないからね。実力勝負」

「ふーん。話は変わるけど、兄貴はどうなんだ? マウリッツ公。歴史どおりの傑物っぽいけど」

「うん、すばらしい人だよ。オレのこの境遇……もしかしたら、何か感づいているかもしれない」

「まじか! 大丈夫なのか?」

「大丈夫。超リアリストだから」

「あ、そうでしたね。ははは……。あとアンリ4世とセバスティアンは?」

「うーん、今んとこ注意は必要だけど、2人ともよっぽどじゃないと大丈夫だと思う」

「ああ、それはオレも感じた。様子見だな」

「ああ」




 酒を飲みながらの密談は遅くまで続いた。




 次回予告 第919話 (仮)『エリザベス女王』

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