慶長五年四月二十三日（西暦1600年6月4日） 大阪政庁
近江から昼夜を問わず駆け続けた信則と氏郷は、ようやく大阪政庁に到着した。
和議への最後の望みを繋ぐため、彼らは疲労した体に鞭打ってここまで来たのである。
肥前国の役人に通され、案内された一室の障子が開かれた時、信則は息をのんだ。部屋の中央には、白装束をまとった叔父・浅井長政が、天下人・純正と対峙していたのである。
「叔父上……」
信則の口からか細い声が漏れた。
長政は静かに振り返り、その目に驚きはなかった。
「左衛門か。無事であったか」
信則は、長政のその姿と部屋に満ちる張り詰めた空気から、自分たちが最も恐れていた事態が進行していたことを悟った。
彼は、はやる心を抑え、純正の前に進み出て深々と頭を下げる。
「織田左衛門信則にござる。此度の兄・三郎の暴挙、まことに申し訳ござりませぬ。兄に代わり、伏してお詫び申し上げます。何卒、戦をお止めいただき、和議の道を……」
「左衛門か、久しいな」
純正は笑みを浮かべているが、明らかに個人的な再会に対してであり、信則の目的に対してではない。
「兄に代わり、のう……義兄上（長政）といいお主といい、まったく」
ため息にも似た純正の反応に、信則が必死に訴えている。
――まさにその最中だった。
鎧の擦れる音をさせた武者が、慌ただしく広間の入り口にひざまずいた。その顔には硝煙の匂いと、戦の興奮がまだ残っている。
「申し上げます！ 洛中へ侵攻せし織田の軍勢、我が軍、これを尽く討ち滅ぼしましてございます！」
広間の空気が凍り付いた。
信則の言葉は途切れ、その顔から急速に血の気が引いていく。氏郷は唇を固く結び、長政は静かに目を閉じた。
和議の道が完全に断たれたのだ。
さらに報告は続く。
「敵将、柴田三左衛門勝政、丹羽五郎左衛門長重討死！ 総大将織田信秀は搦めて大阪へ押し運びたり（護送中）にございます！」
全てが、終わった。
信則は、その場に崩れ落ちそうになるのをかろうじてこらえた。
■数刻（一刻は2時間）前 京近郊の戦場
緒戦の勝利に油断した織田軍は、突如として眼前に現れた肥前国本隊の威容にのまれていた。
眼前には自分たちとは全く違う様相なのである。
統一された洋式軍服に身を包み、後装式銃を肩に担いだ歩兵たちが、寸分の乱れもない隊列を組んでいる。
その後方には、青銅製の野砲が規則正しく配置され、砲兵たちが機械的な動作で装填の準備を進めていた。
それは、これまでの関所の守備隊とは全く異質の、近代的な戦争機構だった。
「者ども、臆するな！ 肥前の本隊とて、我ら織田武士の敵ではないわ！」
柴田勝政が豪槍を掲げて吠える。丹羽長重もまた、冷静に自軍の部隊を立て直そうと指示を飛ばしていた。
しかし、肥前軍は個々の武勇に応じない。前線から轟音が鳴り響き、大砲の斉射が織田軍を粉砕した。
砲撃をかいくぐった者たちも、整然と繰り出される銃撃の連続に死体の山となっていく。
火縄銃でもライフル銃でもない。
管撃ち式ですらない。
紙薬莢の後装式最新鋭銃なのだ。
その動きには一切の無駄がなく、織田兵は進んでは倒れ、また進んでは倒れていく。
柴田勝政は、その非情な機構の中心へ馬を駆った。
その武勇は旧時代の戦であれば戦局を覆し得たかもしれない。
だが、彼は近づく事すら許されず、無惨にも体には数条の銃弾が撃ち込まれていた。
丹羽長重は部隊の再編を試みるが、側面に移動してきた部隊に指揮系統を寸断され、奮戦の末に命を落とした。
個の力がシステムの力に打ち砕かれていく。
信秀は最後まで抗ったものの数の力で押しつぶされ、馬から引きずり降ろされて捕縛された。
■数日後 大阪城大広間
信則、氏郷、そして徳川家と北条家の代表者が呼び出されていた。
長政以下の浅井渦中も列席している。
やがて現れた純正は、玉座に就くと、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で裁定を下し始めた。
信秀の処遇は京の六条河原における斬首。
見せしめとしての死だった。
筆頭家老の武井十左衛門も、主君と並んで斬首である。
続いて、織田家、浅井家、徳川家、北条家への処遇が告げられた。
「織田家そのものは、信則が継ぐことを許す。されど、その所領は、織田家発祥の地、越前国織田荘十一ヶ村、二百五十二石のみとする」
・浅井家は近江国浅井郡丁野村550石。
・徳川は三河国賀茂郡松平郷256石もしくは碧海郡安城村762石。
・北条は伊豆国田方郡11か村1,278石（旧来の家臣解雇）もしくは備中国荏原荘600石（旧来の家臣随行可）。
いずれも領有すれども統治せず。
その石高は、もはや大名と呼べるものではない。小豪族以下の規模である。
「なお、その統治は肥前国が行う。信則は、土地の主として、初年度に百三十貫文、以降毎年、同額の俸給を受けるものとする」
それは、武家としての死の宣告に等しかった。
領民を治めることも、家臣を抱えることも許されず、ただ先祖伝来の土地の名義と、生活を保障する金銭だけを与えられる。
純正は、織田家から武力と権威の全てを奪い去った。浅井家、徳川家もまた、同様の厳しい処遇を受けたのである。
古いしがらみや既得権益を完全に破壊し、中央集権的な国家を建設する。そのための、冷徹で合理的な裁定だった。
全ては純正が目指す中央集権的国家をつくるためである。
広間から人々が退出した後、信則は一人、その場に立ち尽くしていた。氏郷が静かにその隣に寄り添う。
「左衛門様……」
「忠三郎（氏郷）……終わったのだな。全て」
信則の声は虚ろだった。
「はい。終わりました。然れど左衛門様のお命は、加えて織田の名は、残されました。これからが、我らの真の戦にございます」
氏郷の瞳にはまだ光があった。遠く離れても主君を守り、新たな形で織田家を支えていく。それが、彼に残された道なのである。
旧時代の終わり。
そして、純正による徹底した新秩序の構築が始まったことを、大坂城の静寂が物語っていた。
次回予告 第893話 （仮）『覚醒』
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